音楽と脳科学的なスタンスを考えるちょうどいい記事をTLで見つけてしまって、ちょと考えてみました。
まずギタマガ記事をご一読ください。
ここでいう"心"は、もう"脳科学"と言い換えて良いと思います。
自分達がギターキッズだった頃は、こうした文章を、
「さすが天才はフィーリングで音楽やってんだなぁ」
と思ってふんわりと感動し、
専門学校とかで音楽を少し齧ると、
「さすが、感性と理論を直結させててすげーな」
となり、ロックの人はやっぱ感性50%理論50%でバランス取れてんだな、で終わっていた、と思います。
しかしながら、よくよくこのブログの記事と、フルシアンテ氏の言葉を見比べてみてください。
彼が、自分の脳と対話して、結構精緻に独自論を作り習熟に向けて邁進している感じがわかります。
薬とかお酒に呑まれてしまう人って、繊細で感受性豊かなのかな??なんて勝手な推測がまた後押しされてしまいました。
インタビューは、若干話が盛られてしまうこともあるので、エンタメとしてささっと読むのがちょうど良いので深読みなど必要ないのですが、ここでは敢えて言葉が持つ意味あいについてもう少し突っ込んでみましょう。
自分が14〜18歳の頃に体験した色々な“葛藤”から学びを得た気がするよ。そして、幸運なことにその時期は俺の頭脳ができあがっていった時でもある。
こちらでも触れましたが、多感な時期に自分の好みが形成された、と自覚しているフルシアンテ氏はやはり只者ではありません。自分の好みが万能だ、俺が正しい、というタイプではなくて、どのように自分の嗜好が埋め込まれたかを正確に把握しているように感じました。
「頭脳が出来上がった」と言っていますが、これは直接「脳が成熟していった時期」と言ってもいいくらい正確です。
その次に
その頃は学びたいと思うものなら何でも学んで、すぐに実践していたね。そこからだんだんと、俺のギター・プレイはエキサイティングなフェイズに達していった。
と述べています。
これはもう、自分の好きの探究が俺を作った、と云っているので、あまりにかっこ良すぎてサラリと流しそうですが、自分を表現するための重要な習得ステップをしっかり踏んでいることを示しています。
これらの過程の中で、
俺は自分にはないエッセンスを持っている人たちに対して、並ならぬ憧れを持っていて、特異な個性を持ったギター・プレイヤーに惹きつけられていた。しかもその人たちは、誰もが自分自身の伝えたいことの“核”のような部分がはっきりしていたんだ。
だから俺がティーンエイジャーだった頃は“ほかの誰とも異なる、俺が伝えなくちゃならないことって何だ?”といったことをよく考えていたよ。
ここでいう「核」とは「独自論」のことだと思います。
ご自身の音楽との向き合い方が明確に独自性を持って固まっていきました。
こんなふうに自分の疑問や目的意識をはっきり持てる人を私は天才、と呼びたい。
自分が憧れるアーティストに「かっこよさ」をあてはめ、「自分のかっこいい」を作ることができ、あとは、それを使って俺は何をすればいいんだろう、って思ってた、っとかってすごいことだと思いませんか?
ま、私の頭脳は平均ですから、多くの優れた人はこれが当たり前のようにできているとゆうことになるわけですが。
これであとはその表現手段=独自論を探求するだけです。
理論を知ることでより深く分析できるようになる。それらの音がコードの中でどんな役割を担っているかを考えたり、独特な音使いのインターバルについても考察していったりね。
だから俺が理論を知ろうとするのは“自分が抱くエモーションの理由”をより深く理解するためなんだ。
「自分が何をすれば良いか」を探すために、音楽理論を学習し、「その音がかっこいい理由」を自分で探りあてていたようです。
HM7 |Jm7 |KM7 |Lm7 |
このコード進行に真夏を感じる理由、または真冬を感じる理由を、自分で把握できれば理論書の言葉で補強しなくてもいいんです。
クレバーな音楽家は音楽理論という社会的言語の中に、自分のかっこいいと感じる理由と技法を照合して学ぶことができるのでしょう。
(元々自分の感性に刷り込んだ音楽から得たカッコ良さが生まれているのなら、それらが著名曲であるほど方法論的にも著名ゆえに音楽理論的にもしっくりした解説がほぼ可能でしょう)
これを曲解して、「かっこいい理由を見つけたければ音楽理論を学べばいいんだ」というところに落とさず、
「自分がかっこいいと感じた音の置かれた状況について、理論書が何か言及しているかどうか、一般的な用語で何か示唆があるのかどうか調べるために音楽理論の教科書を総なめした」
と把握すると良いのではないか、と感じました。
だから音楽理論の学習を始めるその前の段階で既に自分がかっこいい、と思うだけの疑問や探究心が明確にいくつかあることが音楽理論学習のモチベーション維持には必要、と感じます。
何も疑問も興味もないのに、ただ音楽理論学習に憧れてファッションで勉強したとしても、音楽のかっこよさがわかる、というところまで行くのは大変だと思います。
話は少し戻ります。
そういった心は大切だからね。なんていうかさ、誰しも自分が鳴らすサウンドに対して自信を持ちたいんだ。また、俺は音楽で最も人の心を惹きつけるものは“儚さ”だと思っているんだ。俺にとってその“儚さ”っていうのは、楽器を弾いている時に心が脆く、儚いほど、リアルに表現できる。クリーン・トーンを使って、音色を控えめに表現したりすることもその一環だね。
「自分が鳴らすサウンドに対して自信を持ちたい」=独自論で音楽をやりたい、という言葉に言い換えることができます。
"自信を持ちたい"ってイイ言葉だな、って感じました。
さすがロックミュージシャンの云うことはいちいち腹に刺さる。だからロックできるんだろうな(理屈でないものをガムシャラに立ち止まらず追いかけられる才能)、って思います。
音楽家はそれぞれ、理論書に書かれていない独自の言語を持っています。音楽を肌で感じている感覚が論理的思考でないからこそ、拡がる感覚的視野が備わっています。その皮膚には風が少し当たるだけでも敏感に感じてしまうので、その快楽を求めることができます。何も感じないのにライブを続けたり、理論書のページをめくり続けることは難しいでしょう。美女に興奮しない人は、他人が美女に興奮する理由を論理的にしか説明/納得できません。自分が興奮するものと置き換えたらいいと思います。
フルシアンテ氏は、自分のかっこよさの基準を「儚さを感じるかどうか」に明快に設定しています。儚さはもっと庶民的に言えば「エモさ」ですね。
種類は違うでしょうが、胸がキュンとした感じをフレーズに出したい、そうするにはどうすればイイか、を考えることに時間を費やすことを厭わない、という覚悟があった、ということでしょう。皆さんが12時間やってても飽きないことってなんですか?
それです。
そして極め付け、
ただ、その儚さを手に入れることは、自分に自信を持つことと同じくらいに難しいことだと今でも感じてるよ。でも、友人やパートナー、また自分とギターとの関係にある“儚さ”や“傷つきやすさ”にもっと気がつくことができたら、たとえそれが些細なことであっても、きっと自分の心やギター・サウンドの強さに還元できるようになるだろう。
自分が儚さに感応できるようになりたいから、自分が育ててる自分独自の"儚さセンサー"を通して、他の人が気がつかない、人の音楽/生活の良いところ(エモさ)を感じ取って音楽に還元して、自分しか表現できない音世界として発信していける独自論の完成修練のために頑張ってゆきたいんだ、と言い換えることができないでしょうか。
カラヤンが喋っているのかと思いました。詩的。
時には自分のハートを世間に曝け出し、多くの人たちに踏み付けられるようなことになるかもしれないけど、それでもOKとしなければならないんだ。わかるだろう?
これは独自論知ってる人ならもうお分かりですね。
恥ずかしい根拠のない独自論を曝け出して失笑を食らっても、それが今自分に必要だからそうなっただけで、先々のことを考えればOKとするべきなんだ(やがて自分が円熟すれば、その独自論は市民権を得ているからね)、そのくらいの覚悟で初めて独自性は発信できるんだ、ですね。
「独自論をしっかり持って、批判を恐れずそれを探求することのできる覚悟」
が生まれないと、独自性は探求できません。人前で裸にされても続けられること、が独自性を発揮できる事柄です。
チャラチャラちゃちゃっと話してるど、日々すごく研究しているんだろうな、という知性がダダ漏れしてる記事でした。
・子供の頃どんなふうに音楽を吸収すればいいか、
・どうやって、いつ、どんな興味で音楽理論を勉強すればいいか、
・自分の思考をどう理解し、それを発展させるためにどうすればいいか、
・独自性(自分)をどう見つけ、受け入れて曝け出し、どんな覚悟でどう研磨していくか
というこのブログのテーマでもある内容が端的に全て語られています。
ぉおおおと唸りました。
フルシアンテ氏のギターのいちいち細やかな独自性の由来が、彼自身の独特な勉強の仕方に由来するとしたら。あと30時間ぐらい聞きたい内容ですね、、
レッチリ全員ほんとクレバー。
みんな大好きギターマガジン、ありがとうございます。