そろそろ独自論の展開も打ち止めにしたいのですが、まだまだ話が広がりを持っていそうで少し困っています。
この記事では、ネット上の情報の意味と独自論との兼ね合いを述べています。
<医学的には不正確だが意義のあった事例>
血液ドロドロとか、血液サラサラといった用語は医学的にはあまり正確な表現ではありません。こうした用語は似非科学とも言えます。
しかしながら、その一般における効用はとても大きなものでした。
コロナ予防接種などでも「血液サラサラのお薬飲んでますか?」と言った表現がされたことと思います。
実際にドロドロとしてしまう例として、赤血球数(ヘマトクリット値)が増加すると、血液粘度も比例関係的に増加する。また、貧血であると血液粘度が低くなる。赤血球の変形能の低下も、血液粘度を増加させ、鎌赤血球性貧血や糖尿病に見られる。血漿蛋白では 各種高分子蛋白の増量が、血液粘度の上昇に寄与している。マクログロブリン血症などに見られ、過粘度症候群になる。
高グロブリン血症では血液検査時に連銭形成が見られる。連銭形成は粘度の上昇を意味する。
深刻なのは、血栓形成であり、その原因となるような症状を血液内にもたらさない生活習慣の重要性への理解である。
血栓の形成は心筋梗塞、脳梗塞を始めとして、種々の血管系の病変の主たる原因である。
そこで、一般大衆にわかりやすい健康指標の1つとして、いわゆる(血液のサラサラ度など)なる言葉が生まれたのであろう。
ある医療機関において、この検査を(血液サラサラの検査)と称して、人間ドックの受信者に行い、通過時間の長いものには、流路が閉塞する映像を見せて「ドロドロ血」とし、通過時間の短い(正常)者には閉塞像の少ない映像を見せて「サラサラ血」として説明したのが、これらの言葉が普及した最初のきっかけと思われる。
そして、これらの言葉が、真偽は別として、いわゆる健康食品や特定の食材の効果の宣伝にも利用されるに至ったのだろう。 一般大衆にとって、例えば中性脂肪が多いと言われるより、映像を見せられ血液が「ドロドロだ」と言われた方が、わかりやすく説得力がある。そして、ある薬剤、健康食品、さらに、特定の食材が血液をサラサラにすると、映像によって説明されると、説得力もあり、抵抗なく受け入れるだろう。
この「健康に対する意識を高めるわかりやすさ」という点が、「ドロドロ血」「サラサラ血」なる言葉の唯一の効用であろう。
血液の事典 朝倉書店(2004)
独自論、素人の似非科学、スピリチュアルがもたらすこうしたポジティブフィードバックは、専門家もあえて否定言及しませんが科学的事実とは異なるエセ部分は厳しく非難されます。これは科学的真実などあまり関係なく夢とロマンを楽しめる一般の人にとっては社会的な窮屈さを生んでいる点でもあります。
例えて言うなら、「赤」が1種類しかない世界を基礎としているように感じられるからです。
血液ドロドロ、サラサラという概念は分かりやすく、健康への意識を確かに高めました。結果的に医師が適切にサポートして個人が健康に向けて行動に移れれば問題はないわけです。
問題は社会的に、専門家がこうしたポジティブフィードバックの現象を放置することでしか対処できなかった点です。
どのようにそれぞれ理解展開すれば良いのでしょう。
<SNSでバズったらデビュー>
SNSでヒットしたからメジャーに昇る、といった現象もこの血液サラサラ用語効果と同様です。レコード会社が長年かけて育てた秘蔵っ子新人よりもSNSでバズった人の方が社会的に影響力がある、等といったケースです。
<情報の自由発信段階>
インターネット上には誤った情報、偏った情報、危険な情報があるのが普通です。
これらの最初の情報を0元情報としましょう。
しかし中には社会改善、リテラシー向上、次なる流行のヒントが隠されている、無限の情報を生み出す豊かな海である、という見方もできます。
SNSはバカ発見器でもあり、社会修正案発見機、流行発見機、才能発見機でもあったわけです。
基本的には統制されず自由に発信できる土壌が必要です。
法整備は厳しくなって当たり前ですが、それらは言論統制より、発信者の責任の付加を重くするべきであると思います。
<情報の精査修正段階>
誤った情報は重要度に沿って専門家や有識者、または情報処理能力のある人にキャッチされ、敬意を以て情報の審査、修正、一般化した情報への蒸留措置が行われれば、誰も傷つきません。こうした処理された情報を1元情報としましょう。
・こうした誤った情報ばかりだからネットは気をつけろ
・誤った情報は発信するな
と言いたい専門家の気持ちもわかりますが、それは言論統制的思想です。
デマ情報は良くないですが、それを契機にして被害を最小限に留めながら市民の想像力の可能性を伸ばす仕組みを修練して行った方が現実的でしょう。
<情報の1元化>
誤った情報、風評被害が元になって、より正しい情報、理解しやすい情報となって世界に発信されることで、初めて「誤った情報」は役割を終えます。
我々素人に権威的価値はないですが、我々こそ情報を作り出す最初の生産人です。
専門家は「素人の情報に影響力がある」と認めたくない、認めてはいけない、と思っている節があります。これは自身の権威の過剰解釈です。
素人の情報=0元情報にもう少し余裕を持って丁寧に吸収してください。
0元情報はあなた方の飯のタネです。我々のような知識のない人間が好き勝手に発信しているのは「情報遊び」です。
それを取りまとめ一般化する仕事が「権威の仕事」と言えます。
誤った情報を発信しないようにする法整備も重要ですが、
・人は勝手に想像し、自由に解釈し、自分に都合が良いように思ったことを言ってしまう
という実際を理解する必要があります。
意図的迷惑行為や誹謗中傷は違法ですが、人が誤るには誤るだけの理由もあります。
<循環効用>
一般人は「好循環効用」を目指して発信する意図で、責任を背負った上で独自論を発信し、あとは専門家の手に委ねます。
好循環効用とはここでの造語ですが、必要な折に必要な専門家にチェックを受け、その情報を彼らに帰属させ、より社会的に価値のある一次情報として昇華していただく社会貢献活動を遂げることを目指すことです。
自分自身に一次情報を発信する権威が欲しければ、あなた自身がしっかり社会的権威になる必要があります。
社会的権威ですらあくまでこの現状の社会の中の一時的な権威にすぎませんが、権威を設定しないと組織は回っていかないから設置しているだけです。
ゆえに権威を否定しても迷惑行為になるだけです。
社会に反する行動は、そこを履き違える人がいます。権威がアホなのは同じ人間だからです。権威になった人が勝ち、というだけなので、負けた人が遠吠えしてもここで述べている情報システムには何ら影響しません。
<独自論と不定調性論>
不定調性論の発信もそうした好循環効用を目指した発信であると言えます。
「個々人の独自論で発信してください」までがこちらの主張です。
拙論は非専門家による独自論情報ですから0元情報です。
私の労力に投げ銭していただくことを希望して価格を設けているのみです。
また、このブログなどに掲載した情報も同様です(専門家の書籍、引用リンクなどは別)。
法的には著作物という権利はあっても、社会的に権威はありません。私が権威ではないからです。
<未成熟の情報社会>
素人の情報は、財源の山です。
そこから誰もが広く活用し、有用な存在を再構成し発信するのが権威の役割です。
互いが互いを批判したくなる気持ちもわかりますが、役割が違うので仕方ありません。
そこで素人が画期的な発信や発見をしたって、その人は権威ではないので、社会的価値にするには、社会的権威や信頼のおける企業が価値を再構成し一般化する必要があります。
また権威が発する司法や方法論は、国家の独自論、時代の独自論である、とも言えます。それに反発したいなら、違法にならないようにあなたなりの独自論で生きればいいと思います。
あとは自分が生きやすさを手に入れれば良いのか、より大勢を助けたいのかで社会的価値(権威)を目指すか、個人的価値(独自論)を目指すで個人の行動指針は変わると思います。