ここでは昨今のコード進行分析、という意味での現状の最先端を書いておきたいと思います。
いつ頃からか、インターネットと音楽のサブスクリプションの進化が、音楽情報の脳内シチュー状態を作り出していました。音楽に限ったことではないかもしれません。
今から思ってみれば、120分のカセットテープのA面B面に好きな音楽をびっしり入れまくっていた頃は、好きな曲のクオリアが日々の生活の中に浸透し、生活感と一致していました。旅先に持って行くCDそのものです。
現代は、初めて聴く曲を垂れ流しのように耳の中に入れ、その音楽の雰囲気を鑑賞する状態がつ続いています。音楽は旅先で素通りして行く景色になってしまいました。
また音楽だけでなく、さまざまな"自分が求めたわけでもないオススメの"メディア情報が断片的に人生の中に組み込まれ、快感と嫌悪感を走馬灯のように体験し過ごしています。
音楽が人に与える印象については、時系列情報が最終的に左右することは書きました。
上記で示すのは、こういう声部進行をすれば音楽はこう聞かれる、という狭い了見を自身に改める考え方です。
エモいコード進行の曲に、どんな映像が付随し、どんな声で歌われ、どんなアニメとタイアップするか、そう言ったことがそのエモいコード進行の心象に影響している、と言及する話です。
結果的にエモく感じる、をコード進行主体を述べてしまうのは、私がコード進行に着目していたからです。
別の人から見れば、それはタイアップしているアニメがエモいから、その進行が独自のエモさを感じさせている、と解釈も可能なわけです。
そこにさらに現代人のフラッシュバック的な情報社会があります。
これらの経験過多な情報をメタ時系列情報としておきます。
赤いスポーツカーの激しいカーチェイス映画のようなCGでできたCMと、コンビニの美味しいパスタを食べながら、かつスマホに届く迷惑メールの気になる表題を横目で見なつつ、CM後に始まるyoutubeの動画、そこで紹介される無数の動物の可愛い映像の連続...これらが2分程度の時間に脳内を襲います。まるで情報の産業廃棄物です。
これらの体験がシチューのように心にこびりつき無意識の湖に沈んでゆきます。
そこで音楽を聴くとき、無意識の湖が音楽鑑賞にも独自の鑑賞感を引き起こしているように感じます。
しかも聴く音楽が初めての曲ばかり、幾つもの曲の進行感が記憶の中でさらに重層化して、10分後には1曲の印象ではなく、数曲分の重層的な進行感が心象に残ります。
複数の曲の複数の音色と和音とリズムと音が柔造的な進行感として脳内に感知されるようなことが起きます。
シンプルな進行感については下記などで述べてきました。
今回の記事ではそれが複数重合して生まれる進行感について言及しています。
さっき聞いたニュースと、見た広告、見た動画にもそれらの進行感の方向性は影響を受けます。もはや音楽の進行感に強烈さはなく、この15分間で最も印象に残った出来事を彩る程度にしか存在できません。脳内で情報ジャック合戦が起こっています。
純粋な「コード進行感」ではなく、この10分間に起きた物事に対して重層的に感じる進行感の自覚の中で心象を整理しなければなりません。
こうした現代人の感覚を「メタ時系列情報がもたらす重層的進行感」としてみましょう。
ここを意識的に自覚すると、音楽が作る進行感の無理論性を受け入れやすくなります。不思議なコード進行が今のあなたに成り立つのは、今あなたに起きたいくつかのメタ時系列情報が、それを不思議さとして成り立たせている、と考えることができるからです。
なんでこんな非理論的な進行が成り立つんのろう、と考えることがなくなるわけです。
こうした心象感覚を意識した上で、次のページでは音集合連鎖のバリエーションをまとめておきます。