音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

属和音が主和音に行かないことがあるのはなぜか。


"この音はここに流れたいという欲求を持っています"

的な物言いは、あくまでそう主張できる人の心の錯覚なのですから、あまりこれを普遍的な事実だ的な物言いにしてしまうと、さまざまなところに錯覚を信じる考え方の波及が進んでしまう、と考えてもいいのかな、と思いました。

 

この「流れの存在」を認めることについて、次の二点を考えてみましょう。

 
流れに乗って勝てると思ったら行け(流れを掴め)!
 
 
相手に打ち込まれて、押されててもそう簡単に諦めるな(流れに負けるな)!
 
です。
二つの表現が矛盾している点は別にいいのですが、
流れを掴む感覚を身に付けさせることは、負けるかもしれない相手側の勝ちの流れを感じる感覚を磨くことでもあり、「やばい、これは自分らが負ける」という確信の感覚も磨いてしまうのではないか、と思うのです。
 
そもそもこの「流れ」は危機管理感覚からきている、などとされることもあります。
屋外で雷が鳴ったら、
「あ、今外でこのままゴルフしていたらやばいかも」
って思うように人体はできています。
これがない人が鉄人であり、変人であり、何かを成し遂げる人、または成し遂げて早死にする人です。
そういう人を社会の価値観の真ん中に置くことは宗教以外できません。誰もがイエス・キリストのように生きることはできないからです。
 
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アマチュアな感覚で理屈を一括りにして「苦しくても負けるな」というから、"逃げない美徳"を作ってしまっている??とも言えないでしょうか。
ようやく最近「苦しかったら学校行かなくていいんだよ」と言えるようになりました。
問題はなぜ今はここで我慢した方がいいのか、の理由をはっきり掲げないからだと思います。そしてそこで掲げた理由ですら「ここで頑張れば未来が開ける」というあまりピンとこない理屈で押すことが正しい、的な価値観が社会の中に蔓延しているからでしょう。
とにかく諦めるな。的な。
 
音楽もそうした価値観に支えられて、美しいものは美しい、と言ってきましたが、社会が美しいものを個人に強制するスタンスは「逃げるな教育」とあまり変わりません。
 
 
しつけ教育は社会的な安定を相互に作りあげるために必要ですが、それは個を殺すことを意味します。
これも「負けない人間」「逃げない人間」を作る遠因になっているでしょう。

studyhacker.net

上記記事のちょっとしたご褒美を自分にあげる、は現状の教育体系では、個人が独自論として確立し、習慣づけないとなかなか実践は難しいでしょう。

子供に躾の意義をその場で伝えても理解できないので、とにかく「お母さんがダメと言ったらダメ」とするしかないんです。また親も面倒で大変ですし、とりあえず今日はダメ、みたいなこともあります。

本当にダメ、

今日は勘弁して、

がごっちゃになるわけで、本来は「教育係」という立場の人の仕事を一手に引き受ける世のお父さんお母さんに非常に高度な心理戦を達成する「子育て」は大変です。

でもなぜダメなのかをちゃんと後で手紙にして渡しておけば、いずれ理解するでしょう。他の子よりも早く。理由はちゃんとあるんですから。母の気持ちと、世間への躾と、人のわがままがそうさせるんであって、それが理不尽なのは当たり前です。

この「理不尽」は本来存在せず、あるのは「この音はそっちに行こうとしている」という幻想をしんいてしまうような世の「風潮」だけです。

人は動機があるからその行動をとります。

親の言動や躾は、独自の動機から発せられます。

それを絶対的な正義だと思わないように成長していかなければならない子供側もまた大変です。

 

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社会は「自分で考えることの重要性」を説き始めています。

しかし「自分で考えたら、自分の快楽しか考えないのが人の脳」です。

現代はまだまだ自分で考えるハードルは高いと感じます。

国家がなくならないと、人や思想と接する機会が極端に減らないと、自分がどうしたいかを考えることはできないかもしれません。

 

問題を切り分けましょう。

「流れ」という存在で安易に「やってはいけないこと」や「こうすべき」という全体の風潮を掴んでしまっています。

本当は確かに勝てる原因があり、それを確かに直感的に感じているから勝てそう、なのです。

負けそう、なのではなく、明らかに明確な負けるかもしれない原因が今どこかにあるので負けそう(負けそうな流れだと潜在的に感じてしまうことも原因になる)なのであって、流れがあるのではなく、そうした原因をしっかり掴む、ことが大切です。そしてそれがわかれば対策もできるのです。

それを考えず「流れ」という存在もしないものにありもしない原理をまとめてしまっては話がぶれます。

 

つまり、属和音が主和音に解決するということも、この「流れ」を感じる話と同じ話だと言っているのです。

 

学校に行くといじめられる、というのは、自分がどんな行為をしたらいじめられるのか、何をしなければいじめられないか、が明確になれば良い、となります。

結果、三日休めば、いじめっ子は他の奴をいじめ出す、とかそういう慣習があるなら、三日休むべきです。そういう解決策を見出せるようになるためには日頃から問題解決の糸口となる慣習について周囲の観察している必要があります。学校では変異いじめられないように注意していなければならない集団だ、ということをわかっていないと誰かのカンに触っていじめられるのです。

 

音楽の話に戻せば、伝統的な物言いの一方で、

属和音が主和音に行きたがってるわけではない、解決しようと思っているわけではない、というスタンスを一方で作っておけばいい(独自論的思考)わけです。

西洋音楽の体系と歴史の中で培った音楽感覚がそう思う慣習となって根強く残っている、だけです。

そうしないと、慣習に従わない音楽が「変な音楽」となります。

現代音楽は「変な音楽」として古い慣習感覚の人たちから、無視、いじめに遭っている、ともいえます。それは一方を「美しいということにしよう」と権威が定めたからです。

・変だから売れなくて当然、避けられて当然。

・わざと変な方向に行ってるのだから、売れる気ゼロだし、せめて笑ってあげたらいいだろう。

・変だから難解であり、せめて芸術だ、と思うくらいは慰みにもなるからいいだろうが、ウチには持ち込むなよ。

という意識がありませんか?まさにいじめっ子がいじめられっ子のいじめられる理由を責めてるようなものです。

一方それが唯一の自己表現だと信じる人にとってはいい迷惑です。

 

属和音が主和音に流れるのは、この文脈の流れで一旦主和音に行くと、スッキリした雰囲気になり、次の段落に進みやすくなるから、その慣習感覚を利用して主和音にいくのであって、属和音が主和音に行きたがるから行っているのではないのです。

だからこそ、「ここでみんな主和音を予測してるだろうから、一転VIbM7に翔ぶ」みたいなことも次に発想されるようになるわけです。ミスディレクションです。

これは、これまでそういう作品がたくさん世にあったから、それを裏切ることで新たな驚きと、新鮮な表現を作れる、というだけです。

家に帰りたいのに簡単には帰れないジョン・マクレーンを観ると、胸糞悪くなるどころあ、応援したくなるんです。マクレーン刑事が映画開始三分後無事テロもなく帰宅し、映画が終わったら暴動が起きます。人が何を期待しているか、が重要で、"音がそこに行きたがっている=マクレーンは家に帰りたがっている"事実を収めることは何の解決にもなりません。

 

-属和音は不安定だから解決されると安心する-

というとき、

属和音は、今耳に聞こえる音の中で、楽器で弾いて聞こえた音だけに限って考え(他同時に耳に聞こえる環境音は無視して)=優位主義的、不安定という曖昧な表現で定義し=非科学的、解決される=どちらか一方に加担する価値観、という問題の一側面だけを優位に捉え、安心=自分が安心すればよし。と捉えられます。

多様性の現代において実に旧時代的な意図で表現された言葉です。

女はでしゃばるな!とかいう昭和のセリフっぽい雰囲気と同じです。

 

もちろんこれは考えすぎでしょうが、この辺りの思想が当たり前になっていることが「逃げない美徳」を産んではいまいか、と言っているのです。

これは旧時代的表現である「古典的表現」と脇に置きつつ、今は先生も学び手も「どのように解釈していったらいいか」を自分たちで考えなければならない世代を経験しています。教科書に書いてないのですから自分たちが書かなければ。

 

-属和音は不安定だから解決されると安心する-

-その時聞こえた全ての楽音、自然音が、今の自分にこうこうこういう気分をつくったので、次にこの和音をおく行動を取ったら、自分が満足した-

にすぎず、そこに必然性や、他人が賛同する必要性やましてや芸術的価値、見習うべき規範などありません。全部あなたの意向です。それをいかにも「伝統を知ってそれに従う僕偉い」「偉大な作曲家と同じ思想を持って行動できる僕偉い」を隠すために、さまざまな根拠や、理論を振り回すから、独自論が埋もれてしまうわけです。

 

学校に行きたくない時休めない、というのは雷が鳴った時でも避難できない、という世界です。休めないなら休めないなりに、避難できないなりん、解決策を講じるために生きなければなりません。非常事態だからです。

自分勝手を行い、自分だけが満足する作品を作ることと、社会経済のために作品を作ることは全く別です。

二つをごっちゃにしてはいけないだけです。

そして二つを楽しむ術を見つけないと、人のせいにしたくなることでしょう。

社会を嫌悪したら、自己満足作品に逃げ、それに飽きたらまた社会で戦う、そういう生き方しかできない人が一部いても良いと思います。悲劇が起きるよりも。

しかしそれを認めるためには、不安定で欠損の多い自分自身の気持ち、をちゃんと真ん中に置かせないといけません。そういう存在があっても良いことを本人が認めないと「こういうとき人はこう考えなければならない」と追い詰められることでしょう。属和音は主和音に行きたがっている、という話を信じてしまうからです。ちょっと話が大袈裟ですが。

 

まだ現代は「個性を見つけろ」「人生は自由だ」「そう思ったら実行していい」「思わなかったら逃げていい」という独自論で行うべき作業が分別できず、それすら社会全体に奨励させようとしています。独自論を社会が奨励するわけがないのです。

それは自分は変わっている捻くれ者だ、という威実を覆い隠しているだけです。

 

偉そうなことを言うようですが、かく言う私自身が、不定調性論を一般論と置き換えようとした時期がありました。

私は自分がやっていることが自分にしか通じない独自論の世界なのではないか、とやがて思い知りました。

自分が自由にできる世界を持つことは、小学生が自分だけの部屋を持たせてもらうような心地よさがあります。そこで初めて相手が要求してくる範囲と、その範囲内で自分のアイディアを入れていい場所が、見えやすくなりました。

我慢だけでもダメ、自由だけでもダメ。なんですね。

それを知るまでは、どこまで自分のやりたいことを入れ込もうかと必死でした。しかしそれは相手のやりたいことを奪うことだったんですね。

まさに「(自分の欲求が)解決すれば(自分は)安心する」という身勝手な発想でした。

 

独自論のフットワークの軽さは、孤立する分、自らの身の丈に気づかせ生きやすくする側面もあります。

独自論は長い期間をかけて研磨していく必要がある(参考事例もないし、アドバイスしてくれる人もいない)ので、親世代が少しずつ、独自論を育て、子育てにも活用し、家庭で責任を持って極め、それを家族に受け継ぎ、さらに次の世代で研磨していくことで初めて家族の個性や生き方や自由を守れるのかもしれません。

 

もちろんそれを潰す世代があるのも当然。