音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

意識の中の音楽的存在〜不定調性論的影響音楽ノススメ

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欠陥がない作品

前回までで作品に欠陥(これはダメ、こうであるべし)はない、という世界が設定できる人は次も見えてくると思います。

今しばらくはヤベー奴になりますがご容赦ください。

響いていない音、響くはずだった音、響かなくてもいい状態、などを響いている音と同じレベルにおける意識を一回だけ感じておく話で、普通に音楽楽しむだけなら全く意味も関係もない話かと思います。

 

聴くべき音楽はもう世の中に溢れています。いつでも手に入ります。

本当に開発すべきは人間の能力のほうでしたが、楽な方向に楽な方向に脳は進んでしまい、テクノロジーによる倫理アンバランスを生んでしまったのではないかと感じます。

テクノロジーの論理に人の倫理が追いついていきません。

クローン技術まで来ているのに、安楽死すら社会で議論できないレベルです。

これは人の意識をデジタルに展開できる技術が遅れているせいです。

 

そこはとりあえず専門家に任せるとして、音楽のほうは、「表現に欠陥がない」と感じるなら、もう競う意味も発表する意味もありません。競うから欠陥という概念を作り出しており、そしてそれはすでに蔓延しています。

 

そっちの方向は荒廃しているので、本来進むべきだった、意識の創造を展開しておこうかと思います。最後にも述べますが努力の量が減るわけではありませんので。

 

未響楽+既響楽=影響音楽

意識の中に響く音楽を未響音楽、既響音楽とします。

未響楽..これから生まれる音楽的鑑賞感/表現物感

既響楽...すでに響いたとする音楽的鑑賞感/表現物感

社会通念では音楽作品と認められない領域です。意識の影で響く音楽(総じて"影響音楽"ともいうべき?)です。変な話、と思うかもですが、本当はいつも体験しています。

綺麗な絵や写真から脳内に流れる音楽的な何か、手話で響く音楽、自然環境で感じる喜びの歌のようなもの、故人が奏したであろう音楽...個々人に"影響"を与える音楽的現象。

子供の成長を眩しく思う時、美しい朝日が今日1日を祝福し希望を感じる時、未だ作られていないストーリーを感じる体験は未響音楽を聴いた、と捉えることができます。

ビートルズの「Yesterday」のように、夢の中で聴いた音楽を実際の商品にせず、その体験のままにしておくならそれは既響音楽と言えます。

「子犬のワルツ」も、子犬が尾っぽを追いかける様子を見て感じる喜びをそのままに感じる時、それは既響音楽が流れた、と言えます。

この喜びは、出版社から自作曲を発売する喜びとはまったく別の、本来人間的な営みの真ん中にある自然な喜びです。

サブスクサービスによってどんな音楽もすぐに聴くことができるために、ジャケットデザインだけを眺めてどんな音楽か想像する時間は減りました。

結果ジャケット自体すら使い回しされるようになりました。

そんなもの音楽ではない、と思い込んでいるだけです。

願望は表現です。思い出すジョークがあります。

A「あーまた世界一周したいな」

B「え?お前いつ世界一周旅行なんかしたの?」

A「え?以前も世界一周したいな、って思ったんだよ」

何でも実現していないものをワンランク落として考えるようになってしまいました。

「実現」自体も虚構とさほど変わらないことを忘れ、出版して形になったら何もしない奴よりも俺は偉い、と思いたい承認欲求です。相手の欠陥を指摘する競争心もこの辺から生まれています。

 

この辺から著作権法の外にある音楽を考えることになります。戯れに法律文も幾つか引用しますのでリンク先を掲載します。

elaws.e-gov.go.jp

 

それではある作品について考えてみましょう。

ある影響音楽作品

100万人以上のフォロワーがいるアーティストが

「今夜20時に私の新曲をちょっと変わった方法で真摯に発信します。これまでの曲同様、ご理解いただける方には見合った形で確信いただけるでしょう。」

とある朝宣言したとします。

 

そして20時にアーティスト自身によって今確かに発信された、と宣言されます。

そして述べます。

「この曲をみんな自由にいつでも好きなように聴いてほしい。この曲についてそれ以上何も望まない。」

と合わせて述べました。その作品はいわゆる、意識の中に飛ばされた、とする冗談のような作品発表だったのです。

誰も実音楽で聴くことはできず、配信サービスページなども凝ったジャケットが載っているだけです。

それを理解できない人がクレームを発し、運営の責任問題を追求し始めます。

まさに大衆の想像力の欠如が顕現します。

 

以下(中略)はブログ主表記です。

第二条 

 著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。
 
 実演 著作物を、演劇的に演じ、舞い、演奏し、歌い、口演し、朗詠し、又はその他の方法により演ずること(これらに類する行為で、著作物を演じないが芸能的な性質を有するものを含む。)をいう。

この作品は、アーティストが真摯に発信していることが虚偽でなければ、作品は20時に表現/発信されています。確かに「これらに類する行為で、著作物を演じないが芸能的な性質を有するもの」に該当する行為と推測できます。

 

(著作物の発行)
第三条 著作物は、その性質に応じ公衆の要求を満たすことができる相当程度の部数の複製物が、第二十一条に規定する権利を有する者若しくはその許諾(中略)を得た者によつて作成され、頒布された場合(中略)において、発行されたものとする。
(著作物の公表)
第四条 著作物は、発行され、又は第二十二条から第二十五条までに規定する権利を有する者若しくはその許諾(中略)を得た者によつて上演、演奏、上映、公衆送信、口述若しくは展示の方法で公衆に提示された場合(中略)において、公表されたものとする。
この「相当程度の部数の複製物」が頒布されているかの判断ですが、「理解いただける方には確信いただける」という宣言の解釈次第でしょう。議論の行方を見守ります。
何より本人が作品を発表した、と言っている点に尽きると思います。
またこれによって金銭の授受などの意向がないことも宣言されていますので大衆に実害はありません。
しかしレコード会社は、契約の不履行を宣言し、レーベルのイメージダウンの賠償金などをアーティスト側に求めることは考えられます。よってアーティスト側は事前に、こういうコンセプトの作品を発表したい、と共同権利者全てに通告し理解が得られれば、この問題も起こらないでしょう。
それらの理解を十分に得た後で、グッズ販売、ライブチケットなどの販売を、冗談の一環?として理解を得て、注意書きもして販売するなら、購入後のトラブルもないでしょう。
第二節 適用範囲
(保護を受ける著作物)
第六条 著作物は、次の各号のいずれかに該当するものに限り、この法律による保護を受ける。
 日本国民(わが国の法令に基づいて設立された法人及び国内に主たる事務所を有する法人を含む。以下同じ。)の著作物
(中略)
(保護を受ける実演)
第七条 実演は、次の各号のいずれかに該当するものに限り、この法律による保護を受ける。
 国内において行われる実演
(中略)
 

ここも議論の的でしょうが、同様に議論に委ねます。

第二章 著作者の権利
第一節 著作物
(著作物の例示)
第十条 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。
 小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物
 音楽の著作物
(中略)
 事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない。
(中略)

音楽が実際のデジタルデータになっていることの条件などは明示されていないものの、この発表の事実しか確認できないことが「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」とされれば、これは新曲の発表として完遂しません。

ポイントは、アーティストは発信を行なった、と真摯に信じている点です。

そしてあらゆるトラブルを避けるために本当にこうした意識の中の作品をアーティストが信じて発信したという点がとても大事だと思います。

そしてこれはあくまで予想になってしまいますが、アーティストが本当に本当に真剣であればあるほどアーティストが本当に本当に真剣であればあるほど、

「確かに受信した」

と発信するユーザーがいるであろうことが予測できます。悪ふざけであるか、本当に感じたかは関係なく、その曲の感想や、内容を発信するユーザーもいるでしょう。

アーティストも「見合った形で確信いただける」と宣言しています。

リスナーの感想が全く異なったものでも、"個々に見合った形で解釈された結果"と考えれば問題ないでしょう。これらは双方に意図を理解し、愉しみ、齟齬のない形で作品の授受が成立したことを意味します。

 

e軸とNe軸の拡張

こうした想像上のやりとりは常日頃起こっています。

パレイドリアのような現象も含めて、存在/非存在関係なく、人は影響を受けたいものに影響を受けています。

最近であれば、Adoのような新しいアーティストは、声と言葉の狭間で喘ぎのような音で生ける細胞の叫びを(AIがまだ出せない)クオリアで伝える表現方法が道標を示しています。そうした表現自体は昔から世界中にありました。

人前で本気で叫ぶことをやめただけです。

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表面に存在しない表現

Adoのメッセージは、旋律の裏とか奥に隠されており、デジタルで記録はされているけど、それをしっかり作り出すのは聞き手側の能力だったのです。

「録音されていないから聞けない」「何を言っているかわからない」のは困った老害の想像力不足なだけ。

こうした「音が存在しない存在/表現/楽曲」について、不定調性論は、

www.youtube.com

こちらの与太話も含め、

このようなグラフ等を教材に載せながら説明してきました。

随時アップデートしているので細部が変化していてすみません。

平面で使うか立体で使うかは個々人の方法論によります。

通例または法律で「音楽作品」とみなせるのは正の振動数を持った、未来への時間軸上に流れる音楽作品のみです。

時に、著作権の取り立てにおいては過去に流した経験のある音楽にまで権利が主張される場合もありますし、動画で自由軸を用いて示したような"非現実的な音楽"についても表現が存在すれば同様に権利が生まれる可能性はあります。

法律の方がイマジネーションより先に行っている部分もあります。

 

動画に出てくる自由軸を無視すると、座標は平面になります。

下方倍音の座標軸

たとえば、下方倍音も考えを広げると見えてきます。上の座標を

とすると、下方倍音はいわば、-S.Ne軸の座標にある音かもしれません。人が聞くことはできないが、座標を与えられる音です。

錯覚を描くの階段のように、理屈ではない世界が絶対ないとは言えない世界を相手にしていると思います。

高い音に昇る音階

低い音に降る音階

のほかに

高い音に降る音階

低い音に昇る音階

があったりする、と想像力を働かせて、独自論でそれらの概念上の音を使ってみてください。

 

対極を想像する

負の振動数についてはC△と-C△というような表記も教材では使っています。

ポジティブな印象を与えるC△

ネガティブな印象を与えるーC△

という視点から始まってゆきます。

ここではこの解釈を発展させます。

e軸は存在軸

Ne軸は非存在軸

という意味なのですが、この意味合い自体を展開します。

e=明、大、未来、善、存在、理想、ポジティブ、高い音、といった概念を総合した軸と捉えます。

Ne=暗、小、過去、悪、非存在、妄想、ネガティブ、低い音、といった概念を総合した軸と捉えます。

ちょっと言葉が断定的なので、今後アップデートしていきますが、あらゆる対極したイメージの概念が振り分けられる意識の「場」を用意してみます。

上記した二つの要素が混在しても構いません。逆になっても構いません。そこは独自論に委ねます。

 

こんなふうに対極を配置したなら、それぞれに役割が見えてくると思います。

もっとわかりやすくしましょう。

恋愛の問題絵で、告白せず不幸せになることを恐れる人がいたとします。

理想では、一緒になって幸せに暮らす、という選択肢を目指すのでしょうが、

一緒になって不幸になることも、告白しないでハッピーになることもあり得ます。

あとは自分がどういう気質か知ればいいだけです。

 

例として「告白せず幸せになる」人の世界観を四つに分解しましょう。

これらの思想癖のある人は、恋愛が成功しなくてもむしろ幸福(自然)であれたりします。

恋愛妄想を好き勝手にするのが好きな人、自分本位すぎる人、常時悩んでいる自分にこそ健全性を感じる人、他の人が幸福になって、自分は欠陥がある人生が好き...etc

ぼーっと人生を選択していると、社会の波に飲まれ、あてがわれた理想だけを叶え、自分の性癖を忘れ、社会に幸福が自分の魂に合わず苦しみます。

囚われず想像して、矛盾した世界でもいいので想定してみてください。

想像できれば、そこに自分の居場所があったりします。

 

流転し続ける独自論

これは仏教の世界ですから、そこまで到達できる人はいないとして、存在物の理想は無であり無限ということのイメージがつけば良いと思います。

その象徴が

こういった図でしょう。

人間は時間という概念を持っていますから、常に"状態の状態"を定義しなければ、その状態が成り立たないがゆえに対極した存在を持たないと存在自体が定義できないわけです。普段心臓の存在を感じている人は、心臓に違和感がある人だけです。

 

音楽のサブスクも、youtubeの発展も本来は他者理解と自己発展のスピード化ツールでしたが、努力を辞めてしまう人たちが多かったために、ただ便利なだけになっています。本当は人の想像力を鍛えて、それこそテレパシーができるように産業開発に費やせば良かったのですが、周囲が誰もそろばんを使っていないのに、自分だけそろばんで頑張ろう、と思うのは大変です。

 

今からでも遅くないと思いますので、独自論によって自己を認め、他者から離れ、自分にとって最も発展性がある想像力を磨き、自分で完結してみてください。

 

Homo sapiensとFelis catus

ネコと遊ぶときは「ちょっと休憩して猫と遊んでリフレッシュして次の仕事の活力にしよう」みたいな理屈を忘れて、とにかくただただ遊んだり。

猫は癒しをくれるのではなく、本質を突き付けてくるだけです。

それを癒しと感じるのは、それがHomo sapiensとFelis catusの関係性を表す本質だからでしょう。ちょっとした行動に想像力が使えます。

 

きっと古代人とかはその研磨の先に、巨石を歌で動かす、みたいなことができた?のだと思います。

 

あなたの日記は見られている

あなたのパソコンの中身は、と言い換えてもいいです。

作った曲と作らなかった曲と、作りたい曲と作りたくなかった曲は全部同等であり、すでにあなたの中には存在しています。

他人には自分の恥ずかしい作品は見せずに済んでいると思うかもですが、この話の理屈においては、存在させた途端、人も知っていることになります。それがいろんな形で伝わってしまっている、というか。

全て見られている、と思って行動すると、ちょっとまともに行動できますよ笑

そういう想像力がつけば、想像することで生まれる感情や、詩情、思いを一生懸命人に伝えようと具現化する必要も感じなくなると思います。

いちいちイイ感じにして発信するのは広告エンタメです。


しかもその人の醜悪さはなんとなくバレています。ゆえに意識の行き場のない現状ができているのでしょう。その先は想像力の研磨と独自論で救われる人が多少いるのではないか、と。

めちゃくちゃ勉強→考えるな感じろ→感じるな,やれ→次の段階のめちゃくちゃ勉強

のサイクルで一生は終わる感じのようなので、とっととそのサイクルに入って自分を頑張れば人と比べて疲れなくて済むと思います。

 

私も醜悪な人間なので、当たり前のことしか言えませんが、これが言えるのは独自論やってる人だけだと感じたので独自論に絡めて書いてみました。

 

シェアする音楽から、個人の宇宙に

そろそろシェアすることに疲れていませんか?

でもシェアしないと食っていけないんでしょうね。しかし本当にそうでしょうか。

 

聞こえない音を聞いたからといって「お前には聞こえないのか」とか言ってはいけません。逆に私は言います。「聞こえているのはお前だけだ」。

こうなるとシェアすることができなくなります。

まるで一人一人メタバースのように、それぞれの体験で、それぞれの宇宙を豊かにすれば良い、という話になります。

元々はそういうふうになる予定だったのでしょうが、SNSの登場で、妙にシェアしなけレバならない時代になってしまいました。

 

最近、自分の周りには、

・シェアしない

・いいねしない

・自分と家族と親友だけ幸せなら良い

・世間と距離を保って静かに暮らす

と云う方が多くなった感があります。年齢か笑。

こちらの方が楽、というか、普通それで手一杯。

 

本性かそどうかわからない見ず知らずの人を推すよりも。

 

でも「とりあえず自分が今あればいいや」と思って暮らしたら楽になれる人もあろうかと。そんなにがっついて稼がなくても。

 

では個人が個人のために音楽を扱う、となったら人はどこでマウントを取ればいいのでしょう。

独自論を構築し、研磨し、内面の宇宙に挑戦していく、ということになろうかと思います。他人は関係なく。理解してもらわずとも、シェアしてもらわずとも、ほんのり小さな楽しみを胸に、豊かに生きて、その経験や感覚で社会でのびのびと貢献できる生き方をすることが性に合う、という人もいるのではないでしょうか。

たまたま自分が無理をして借金経営に携わり、二十四時間怖い思いをして、逃げたくなるような、消えたくなるような思いがしたからこそそういう考え方に行き着いたのかもしれませんが。

 

猫の寝顔を見てもシェアしようとは思いません。シェアするとなんだかその体験が澱むような気がするのです。人一倍自分勝手なのでそう思うのでしょう。

シェアできない人間が、静かな生き方の中で次に何を考えるのか探究していきたいです。