前回のアーティスト不定調性論的考察から半年以上経っています。
動画文化によって"言葉を超えたものをポップに表現できる方法論が生まれ、それが米津氏などによってメジャーレーベルで扱われはじめました。
じゃあ、次どうなるんだろう、とずっと待っていたのですが、ついに次の波が来ましたね。ボーカリストの声の質感が「言葉を超えたもの」をさらに超えてしまった。
またメジャーからではなく、動画文化から生まれました。
米津氏以降、エモい雰囲気を音楽で作り、メジャーが作れない突飛なサウンドで時代を引っ張っていくという流れがありましたが、近年のソフトエモ系JPOP/トラップ系KPOPの独自性や時代性をつるっと「あっ」という間に追い抜いてしまったAdoの持ってるこの雰囲気なんだろう...と久々に米津氏の「Lemon」並みに感じ入ってしまったので記事にしました。
私は別にプロデューサーでもなんでもないので、ただ個人的な感想と声と音楽を褒めるだけなので真に受けないでください。
何人が歌ってるんだろう
Adoっていうグループは何人で歌ってるんだろう、と
うっせぇわ / Ado covered by rinna - YouTube
このカバーオケを作る作業中思いました。
ちゃんと内部までほじくり返して自分でコピーして作って感じたことです。
調べたら、一人の女子高生、っていうじゃありませんか?
もうこれで、あ、今の全アーティストの時代は終わったな、ぐらい感じました(もちろん個人の主観/偏見ですのでスルーしてください)。
奇声のような(褒めてますm(_ _)m)、多重人格のような、両性具有のような声。しかもビジュアルは出さない。デフォルメした自分の2次元画像を作らなかったのもこの段階では幸いしたと思います。
AI界の神に君臨した人間、みたいに感じました。
AIがようやく人間ぽく歌えるようになって来た昨今、AdoボイスがAIの進化の先をはるかに超えて来たわけで、えー人間こんな声出せるんなら、まだまだ人類大丈夫だ、もっと先に行けるんだ、って勇気をもらいました。
ある意味では海外でビリー・アイリッシュのような歌唱の質感がヒットしている潮流と対極にあるけど同じ意味合いのAdoボーカルが日本でもビリー同様心を鷲掴みしたのかも??
現代人に必要な野性味とは
「言葉を超えたところを感じられるようになった」って
ってこの記事でも書いてたんですが、その先がなかなか見つからなかったのですが、Ado voiceで見つけてしまいました。
この声は、現代人がしまい込んだ野生を揺り起こそうとしている(カート・コヴァーンの記事でも書いたけど)。
人を物理的に傷つけたり、匿名で批判して逃げるようなことをしてしまう人たちは、野性味が足らない。自分が裸でジャングルにいると思っていないから自分に危険がないと思っているんだ。
生きる基本を忘れんなよ!!って言われてるみたいな声。
そのくらい声が煽ってきます(言葉や文字の力を超えていってます)。
ソフトエモを聴き飽きそうだった耳には、この声はピーター・アーツのハイキックでした。ハイキック食らうことなんてないと思って自分もすっかり油断してました。
それまでの近年のアーティストの音楽では自分は感じてこなかった質感でした(すみません、ただ鈍感なだけです)。
(同様に性別を操るボーカルは動画時代から多数存在していました。そこに野性味が追加されたAdo voiceには全てに人間の感情が詰まっています。七色の声じゃない。七色のボーカリストは今こそ手を組んで"誰も歌えない歌"を発表してください)
AIには勝てない、と思い始めた人類の中で一人立ち向かおうとしているのですから。
歌詞制限時代に出た「うっせぇわ」も痛快でした。
メディアが取り上げましたが、そんなのみんなわかっててやってることです。こんな時代になって歌ぐらい自由に歌わせろよ、と思います。アートを制限しようとする人間が歴史の中でどうなったか考えなさい、って教えられて来ました。
人の感情を逆撫でしないように、誰かを傷つけないように、言葉を選んで、ってならざるを得なかった昨今、Ado voiceを聴いて
「そうか、いざとなれば言葉にしなくていいんだ、感情を込めて叫べばいいんだ」
って気付かされました。そこに全て込められるボーカリストが出てきた。
「うっせぇわ」は本当にあらゆる人をざわざわさせた表現だったのだと思います。言葉ではなくて声が。
全くソフトじゃない。ハードコアエモだ。
歌詞に反応するそこまでの批判感情にさせた理由はあの声です。
Adoボーカルのちょっとしたシャウト、ちょっとした"ah"が、人の心の奥に丁寧に親の世代からしまい込んでしまっていた「野生」の檻をこじ開けてきます。
女子格闘家とのコラボよろしくお願いします。
しかもカート・コヴァーンのような後先を考えないタイプのものではなく、決して人を傷つけない、ただ黙って睨みを利かす狼のような凛々しさ。
踊は"型が決まった踊り"
そして新作「踊」でひっくり返りました。
おそらく、この曲でひっくり返ったのは、音楽家と音楽家より感性が鋭い若者でしょう。少し洋楽風でもあり、多くの日本人は置いてきぼりを食らうサウンドになってますが、これは単純に海外レベルの歌唱能力を持っているが故に、そうならざるを得ないのだと感じます。ライオンを中学校の鶏小屋で飼うことはできません。
歌詞の言葉も、声の表現能力に抑え込まれてしまって、もうシンディー・ローパーのアクセサリーの一つみたいになってしまうことは目に見えていましたから、その十字架を背負えるのはDECO*27氏しかいなかったのでしょう。
これはもう殿を守ったのだと思います。
そしてCKCのレーベル活動時代の楽曲制作でもお世話になったTeddyLoid氏、それから私が今一番好きな音を作るGiga氏ということで、ここで組まれたら今しばらく勝てる人がいません(というかついて行ける人がいない?理解が及ばないはず)。
Gigaサウンドは、
こちらをカバーした時寝ずに研究しました。この方は、とにかく毎曲毎曲新ネタをぶち込んで来て、
「エーーーどうやってこの音出してんの」
って毎曲思います。
真似したくても真似できないサウンドです。
ある意味でギミックミュージック="間の音楽"とは真逆の良さを感じない人はこの曲の良さは通じないでしょうね。
でもその不安も最後の打席でAdoボーカルが走者一掃。してくれます。
これが勢いのあるアーティストの力か。
米津氏もlemonの後のFlamingoもちょっとラテンが入って、本当にノリにノッていた感じを受けました。
「泣いても笑っても愛してね」のコーラスはかっこいい。。。
「うっせーわ」は「躍る」でした。とにかく攻める攻める。今度はきっちりはめた「踊る」でした。このままレーベルに操られないでほしいです。
まだまだ自由に躍ってほしい。
「ギラギラ」の転調とかもかっこよかった。あの系統に今回は行かなかった、というのも私は運が良かったと思います。なぜって?次曲で得意なジャンルに戻ることもできるからです。次やることの選択肢が増えるからです。
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0:03の歌の裏で出てくるホーンサウンドF7(#9?)がかっこいいですね、曲はFmで歌メロもモロFマイナースケールの裏で鳴ることで焦げたような、揚げ物あがったよ!的なジュワ!!!とくるサウンドがこの後の嵐を予感させます。
ラテンtrap、というような独特の曲調、なんらかのオファーはあったでしょうがラストの
「ここらでバイバイ let go」
の語尾の締め方のめちゃくちゃなかっこよさよ。
余談ですが、何度聞き返しても0:47
「案外サクッと行っちゃうぞー」
が、(クレヨン)しんちゃんみたいでカワいかったです。
個人的には一生顔など出さず、安全安心で引きこもりの味方でいてほしいな、とも思います(その理由はニルヴァーナ)。生きづらさを感じなアーティストがいても良いと思います。それは迷えるすべての世代の時代の灯台だと思うから。変に悲劇のヒーローにならないで、本当に理想のヒーローみたいな生き方してほしい。
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「うっせぇわ」Ado、名前の由来明かす「誰かの人生の脇役になれたら」
"Ado"は能のシテとアドからきているということで、どうやっていつまで誰の脇役でい続けられるのか、は当人にとって大事なことなんだろうなぁ。主役になってしまうと影が薄れると思います。目立つべきでない人は、目立たないでも活躍できます。
こちらにご本人の言葉が書いてあります。
流行りに走らず、再生回数なんか気にせず、
「どうやったら"声の表現"で日本一になれるか?」みたいな問いをぶつけ続けて欲しい、と思います。そこに集中して初めて世界が見えてくると思います。
ライブとかやらないでいいです。
ドームツアーとか声の繊細さを壊します。
影が消えてアドでなくなります。
現代ではジェイコブ・コリヤーのような立ち位置がネットから世界への一番素晴らしい進化の例です。
6年に一度くらい嬉し恥ずかしドームツアーとかやれば良いと思うのです。
業界人はポリープに疎いです。スケジュールが過密になってポリープであることを訴える隙すらありませんし、気遣いすらありません。患ってから怒るし、責めるし、捨てられます。それで傷つくのは本人だけです。
業界内に自分の喉を守ってくれる人を見つけてください。取り巻き10人とかいらないので謎めいたやい場を常に世界の見えるところにちらつかせてください。
ニルヴァーナのページで書きましたが、カートは、次に何をするかわからないと思われているから、わざとそれを逆手に取って、わざと生放送やテレビの番組で、危ないことしでかしそうな雰囲気を醸し出していた、と言います。いきなり放送禁止用語とか言いそうな雰囲気ですから、そこにいた全員が縮み上がっていたのです。
カートはそれこそがエンターテインメントだと言います。
心が動く、っていうのはそういうことだと思います。結果迷惑をかけずちゃんとステージをこなす。っていうのが大切だと思います。
心を躍らせてほしい。
我々だとやりたいことに才能が追いついていないわけですが、この人の場合、才能に周囲のやりたいことが追いついていない、と思います。
Adoというコンテンツを目指すなら、音楽業界と決別しても良いです。
Adoは世界中の声なき声、存在なき個人の崇拝の対象であればそれ以上になる必要はないんです。Adoに続く、次の世代のさらにそれを超えてくる才能が担うべきことです。
世代には世代のやるべきことがあると思います。
業界に染まらないでください!!