多少内容について触れていますので先に映画をご覧ください。
ハリウッド的作品、と言うよりも、質がめちゃくちゃずば抜けたインデペンデント映画(自主制作映画)、と思ってみると上質の批判を感じるので、そう言う意味では観る者の意識のすごい場所に押し込んでくるモヤモヤ映画です。
でもこの記事を読むとスッキリすると思います。
概略
アメリカNo.1の音楽院に入学した野望ある若者ドラマーが、同様に野望あるスパルタ教師に出会う、というストーリー。
第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、助演男優賞を含む3部門を受賞しました。
教師は一流のジャズミュージシャンを育てようという野望を持っています。
若者は偉大なジャズ・ドラマーになろうという野望を持っています。
二人は似ています。そっくりかもしれません。
その変人同士に接点が生まれ、主人公が死地から脱出するまでを描いた映画です。
扱っているのはジャズですが、ストイック部活動的な世界です。
映画の教師はスパルタで怖い先生です。
恐れられた指揮者としてムラヴィンスキーなどは有名ですが、彼に限らず音楽に厳しいのは当たり前で、それをちゃんと理解しようとしないでなんとなく"仕事"をこなそうとする音楽家は指導されて当然です。"アンサンブル"にならないからです。
何よりムラヴィンスキー氏は真の紳士です。自分に一番厳しい。
そういう"実際"の在りようを知っている人から見ると、この映画の教師フレッチャーは少々深みのない指導をしているように感じます。
誤った練習方針と崩せない理想
もし学生がこのフレッチャー教師の暴力や暴言が怖いから従っているなら、それこそ絶対伸びない弱小部活話です。
音楽は個々の内面から湧き出るエネルギーを結集させ、100%アンサンブルとして表面に織り成すためにどういう指導をかけるか、に指導冥利があって面白いのに映像ではそこがそっくり抜けています。指導=トラウマの観点を植え付けてきます。
教師は学校で次世代のチャーリー・パーカーを育てようとしています。
その価値観もちょっと古めかしすぎたのかな。
この教師も主人公の若者もバディが必要なタイプです。
同じように激しいが認め合える仲間がいないと、自分の暴走を止められません。
つまりこの若者と教師こそが互いにそういうバディの関係。
この教師は
「なんで練習するか」
「どのくらいまで練習すればいいか」
「どう練習するか」
を知らなかったから、そういう指導ができず、
"とにかく本人を事故的に目覚めさせ"
"むやみに危機感を煽り"
"毎回挫折の谷間に突き落としても這い上がってくる若者"
を探していたのでしょう。
いつもドラマチックに何かをしたいと世界を呪っているかのように感じました。
ドラマチックに才能を見つけ、
ドラマチックに相手を挫折させ、
ドラマチックに復活させ、
ドラマチックに対決する。
そういうストーリーに行き、そこにしか興味がありません。
しかし実際には
練習によって生まれる脳の回路をいかに作るかというだけで、無駄に練習して頑張っても一生ものの怪我を背負うだけです。
手のマメだけならまだしも、ドラマーは、各種関節腱鞘炎や腰痛に悩む仕事です。腰を痛めたら一生苦しみます。
歪んだ正義って止められないんですよね。正義だと信じているから。これは学生にとっても学校にとっても悲劇です。
しかし、この教師が煽るぐらいの勢いで練習しないと上達しないのも間違いありません。三年あればまだしも、数ヶ月で上達となれば。
そういう意味では、実在のホッケーチーム監督ハーヴ・ブルックス(故人)のやり方の方が好きです。彼も戦略的に選手に接していきますがそこには嘘も罵倒もありません。
フレッチャーは野心とコンプレックスから感情的になってしまうのか、学生を認める必要などない、と思っているのか、ただ意味のない罵倒になってしまいます。
一番大切なアンサンブルのための仲間意識まで削り取ってしまいます。
学生同士まで孤立させては、アンサンブルの結束はあり得ません。
デューク・エリントンは自分のバンドに才能を集めるために給料などを好待遇した、といわれてますが、フレッチャーの立場でも、もっと倫理的にしっかりとした土台で厳しく運営できたはずです。
就職活動になったらめちゃくちゃ応援してくれる、とか。そういう行為が一つもないから、どんどん黒い雲の中に人生を落としてゆきます。
このことを紐解けば、この映画の視点が変わります。
楽譜はなぜ消失したか
主人公が楽譜をなくすエピソードは犯人が最後までわかりません。
現実ならこれは指導不行き届きなので、やはり教師が責任を取るべきです。通例そんなこともあろうと、万が一のために教師はコピーを持ってきておくべきだからです。
ここについてだけ世界中のコメンテーターのコメントを検索してみました。
まとめると
・紛失シーンで、言い合う二人の遥か遠くの控え室からタイミングよくフレッチャーが「タナー!」と呼ぶ声が聞こえる。紛失するまで15秒。後ろのドアから現れたとしても、走って戻らないとフレッチャーには難しい。
・楽譜右上には「DRUMS」と書いてあるから、間違って別の生徒が持っていくことも、掃除のおじさんがジャズコンクールのやっている会場で楽譜らしいものをゴミとして学生が屯する空間で持ち去って捨てるはずもない。あの場にいたのは主人公だけなので、そのすぐ横で缶を飲んでいるのだから「落とし物だ」と判断して持ち去る可能性が低い。
・同僚が持ち去ったら出場辞退になるかもしれないから、生徒が持っていくとは思えない。他の学校の学生の気配もない。
・誰かが持ち去ったとしてもあの廊下は足音が響く(その前の生徒が出てくるシーンの足音から)。
・後半フレッチャーは「お前が主奏者になれたのは楽譜を"なくした"からだ」と意味ありげに言う→フレッチャーは、主人公が楽譜を盗んで隠して"紛失した"と嘘を言っているのでは?と示唆している。バンドメンバーも「俺の楽譜に触るなよ」と言うシーンもある、メンバーも主人公が隠した、と思っているのだろう。
・フレッチャーは事故的に人をつまづかせ、そこから這い上がる者を心から望んでいて、そういう伝説を作りたがっているサイコ野郎すぎて、ついには楽譜の紛失を呼び寄せ、主人公の事故を呼び寄せ、教え子の自殺を呼び寄せ、自らのクビまで呼び寄せてしまう、コントロール不能なフレッチャーという"生けるトラブルメーカー"を象徴的に示すエピソードの一つが楽譜の紛失。
・そういうオカルトシーンとして捉えれば、何かに異常なほど取り憑かれた人間のそばには寄らないほうがいい、という教訓のように見て取れる。信念は立派でも、世の中の道理を曲げてまで自分の理想を叶えようとする者には、神ではなく悪魔が憑く。祈りではなく呪いが働く。
・それを打ち破ってエンディングシーンでフレッチャーの悪魔の意図を断ち切った主人公は、遠回りはしたけど、これでようやく自分の人生を歩める修正ができた(フレッチャーのトラウマから脱出した)、と捉えることができる。
・このシーンの物理性を悩むのは、なぜ"ジョン・マクレーンが爆風で死なないのか”を考えるようなものだ。(主人公がこの時フレッチャーという悪魔に取り憑かれ、自分で隠したけど自分で覚えていない、というホラーもあり得るかもしれません。でなければこんな理不尽が連続して起きない。)
と、こういう感じで、象徴的な啓蒙シーンと見れば、現実はどうあれ、それが物語に及ぼすドラマチックな事象の全てが説明がつきます。全てフレッチャーが引き寄せた悪魔の所業です。
フレッチャーがこういう人物だから、楽譜は消え去ったんです。
フレッチャーは結局根本から誤っており、どこにも正義がない。「人間味」を一瞬覚えてぐらついてしまうところなどまさに悪魔の所業。
つまり、希望があると思い込むのは気の迷いで、いち早くこういう"事故を呼び寄せるタイプの人"からは離れたほうがいい、そう決断できるかどうか、という映画だったのかも、と感じました。シンプルにホラーです。
この人と一緒に生きることに未来はない、と決断すればいいんです(これができないのは、人間の認知バイアスのせい=サンクコスト・エフェクト)。
たとえフレッチャーが「タナーに試練を与えて楽譜がなくなってもできるかどうか試してやろう」的に思ってフレッチャーが楽譜を奪ったとしても、コンクールがうまくいくかどうかはわからないし、自分の名声が地に落ちるかもしれません。
楽譜を誰かが奪うメリットもディメリットも予想がつかなすぎます。そんなことを平然と起こすのは悪魔だけ。
皆さんも経験ありませんか?遅刻してきた部下の言い訳が「新品の目覚ましが壊れた」みたいな。絶対そんなことありえんやろ、って言い訳を言ってくる部下。
それって目覚ましのせいじゃなくて、あなたという上司が"部下を殺してしまう運なし上司"だから、目覚ましが壊れたのしれないですよ??コワイコワーイ
私は映画の素人なので、"この映画をみてスッキリしなかった人は「ミラクル 」をご覧ください"としか言いようがありません笑。二本立てで観ましょう。
批評
ザ・ニューヨーカーのリチャード・ブロディもパーカーの伝記との比較をしたうえで、『セッション』はジャズに対しても、映画に対しても何の敬意も払っていないと指摘した。 - Wikipedia
うーん、そうかも、と思ってしまいました笑。
もちろん賞賛の言葉もたくさんあります。
インディワイアーのジェームズ・ロッキは本作に肯定的な評価を下し、
「『セッション』はまさしく若手監督の作品といってよい。虚勢や尊大さが満ちていて、既存の枠組みや素晴らしい演技だけに頼ろうとはしない。チャゼルに偉大な監督の素質があることを証明した作品でもある。」と述べている
全編ジャズの色合いが支配しています。
黒の色調が大変上品です。
インデペンデント映画、と言いましたが、エンディング曲も往年の曲を使わずオリジナル曲を使うところなどは自主制作っぽいです。自主制作では著作権がかかる曲は使わないからです。"映画を引き立てる名曲の数々"を配置しないところもポイントなのかな。
モデルはニューヨークのジュリアード音楽院では?ということです。2001年にジャズ科が創設、と言うことですから、60年代の往年のジャズプレイヤーは一人として「ジャズスクール」という存在に入学した経験などないわけです。まさに40-60年代のジャズ・ジャイアントは孤独に学習し戦っていた、というのがあの時代のジャズを生んだのだ、と思うとなんだか感慨深いですし、映画の虚しい矛盾に繋がります。
セッション雑学
表題曲Whiplashはハンク・レヴィの73年の作品です(ドン・エリスのアルバムに収録)。かっこいい曲。
曲の解釈もフレッチャー先生から聞きたかったです。
終始ピッチとテンポの指導の記憶しかないので笑。テンポこだわりすぎやろ、って。
(でも実際アマチュアが一番できないのはテンポ/リズム/タイム感の徹底です。唯一プロとアマチュアの差と言ってもいいくらい重要です。微細にリズムがヨレるとアマチュアでもそれが分かります)
でも映画で1:00:15あたりでフレッチャーがカウベルを叩くシーンがあるんですが、ここフレッチャーのテンポが揺れてるんですww。あのカウベルに合わせたらテンポが落ちます。ここもサイコです。おいおいフレッチャーお前がリズムふれてるっちゃー、と言いたくなります。
ジャズの歴史におけるパーカーは奇跡です。歴史上一人しかいないんです。
人が夢を持つのは良いと思いますが、例えば人を一度は殺めてみたい、みたいな欲望しか持てない人が夢を追ったらどうなるでしょう。
フレッチャーみたいな人は、パーカーを見つけて育て上げたとしてもパーカー同様に早死にさせてしまうのではないでしょうか。
リズムは大切
それでは本当のリズムのレッスンを聞いてもらいましょう笑。
前半しばらくして、リズムの重要性を非常に説得力ある形で紐解いてくれます。
教師は優しければ良いというものでもないですが、学生時代の学生の人生は「これから」です。上手に次の人生の現場に受け渡すことのできる存在になりたいものです。
追記;その後『BLUE GIANT』を観ました。日本アニメの力(漫画芸術文化の底力だと思う)が存分に発揮されてて、ある意味、不思議なのですが、イキ切り過ぎてて、別のもう一つの地球の音楽家の話を見るような印象も受けました。
でもこちらの方がしっくりくる日本人多いと思います。
どんどん音楽関連の映画作っていただきたいです。