音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

音関係組織願望の気質発作と音楽表現の社会学〜独自論が生まれる時1

一つ質問があって、それに答えていました。

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ソロのアウトの質問

この4:05部分のギターソロの聴感上のアウト感が好きで、何を弾いてるのか?という質問でした。

 

この部分は、自分の持っているストリングスでカッコよくオケが作れなかったので、簡素さを埋めるためにギターソロを入れました。

ここは高速で聞いた時、混沌な感じがするように音を配置しています。最初は曲キーダイアトニックであるFM7から入り、徐々に崩壊します。その方がアウト感が出るからです。

その次は、ほぼM3+半音のシークエンス、そのあとは、ディミニッシュのシークエンスです。別に順番はなんでもいいですし、最後はこのスピードで聴いた時にイメージしている感じになれば良いので、音楽的なクオリアに従います。

ざわざわっとしたアウト感がこの曲の混沌さと合っていると私が感じただけで深い理由はありません。

(不定調性論では、スケール選択という概念を持たない、という認識を深めて学習するのでこういう時自由で楽しいです)

 

音関係組織願望の気質発作という病?

この方の質問してくる感じが、かなり自分の感覚と似ていて、ちょっと微笑ましく感じたのですが、それから話が弾み、「音楽理論を研究していきたい」という欲望があることを教えてくれました。

なんとなく、学生時代の私自身が今の私に質問をしてきたのか??とも錯覚してしまうほどだったので、いろいろ話した内容をこの記事でまとめておきます。

私自身にとっても今だから書けることです。

 

ここ数年、独自論という位置づけで自己の方法論を眺められるようになってようやく少し外側からこの気質を冷静に見つめることができるようになりました。

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例えばこういうページを見てください。

いつ頃からでしょう、おそらく高校時代からだと思いますが、音と音との関係性を探求したい、という渇望を膨らませてゆきました。

この真理への探究は人間の三大欲求を遥かに上回る欲望で私を毎日襲ってきました。

これが性犯罪的欲望でなくてよかった、と本当に思います。

自身の「気質発作」とも言える症状?を自覚しているか、いないか?はとても大切なことだ、と今では感じます。

 

音の関係性の探求など、目が悪くなる、姿勢が悪くなる、とかの副作用はあるでしょうが、一般に病気というほどでもありません。性犯罪や窃盗癖、クレーマー等と違い、その弊害が社会に及びにくいためです。

実際この研究で私が大学院まで行って、これを専門に研究する音楽理論学者にでもなっていたら、そこで初めて「研究」になりますが、中途半端な私はそういうこともできませんでした。もともと学問としての探究欲、というより、本当に衝動的な渇望が私の自由時間を溶かす勢いで私を夢中にさせており、それが学問である、などとは全く思えなかったのです。

これをここでは音関係組織願望、としていますが、"それをしたくなる強い欲求"を「気質発作」と表現して以下書きます。

でもこうした自身の気質は、研究分野に進む人は当たり前のこととして毎日向き合っていることだと思います。稀にそれに家族や友人が振り回されたりもします。

 

薬物依存と気質発作

研究者でもなく、仕事と言えるほど収入も得られず。

趣味というにはあまりにも人生を犠牲にしており、その割にさほど問題を感じず、いまだにフツフツとそれに関わることに従事しています。性犯罪者や薬物依存者が出所後も結局同じ道に染まっていく姿などが報道されると、少しその気分が理解できてしまいます。

「薬物なんてやめなさい」=「音楽なんてやめなさい」

私にとっては同じ意味であり、「なんでやめなきゃいけないんだ!」と思い込んでいます。もし社会的に弊害になるならやめるべきなのです。

 

そういうところにご自身の気質が落とし込まれている方は私以外にもおられようと思います。

優秀な人間力があれば、それに付随した技能、知識から仕事につながる場合もあるでしょう。

楽曲制作への探究を、より社会的調和のために用いれば、音楽作品として世に知れ渡り、それが社会的地位や収入につながる場合があります。それが社会が認める「音楽家」という職業です。

これは言うなれば薬物依存の人が更生し、薬の弊害を全国を回って説く、というような行為です。自分の作る作品が社会貢献するのですから。売名行為みたいに思う方もいるかもしれませんが、音楽で売れる人が稀なように、構成した後社会的活動ができる人も稀だと思います。

私は自分のやっていることが人生の弊害になることを説く、というようなことにまだ少し抵抗を感じます=まだ依存患者なのだ、と思います。

 

自身の気質発作を探る

しかしこんな私でも、とことん独自論を追求した結果、不定調性論が商売の一つになってきました。独自論だ、として開き直ることで社会性が生まれ、そうした他の例がないので現状はこのおかしなシェアを独占しているだけ、とも言えます。

 

皆さんはどうでしょう。

・考え始めると興奮してやめられないこと

・もし3日休みが与えられたら、ついそれを優先してやってしまうだろうと頭をよぎること

そういった渇望を伴う、なんらかの存在が皆さんにはありますか?

それがないと生活の平安を保てない、と思えるような対象を持っていますか?

 

これが例えば普通の読書だとか、山登り、ならいいんです。

しかし、三日あったら国会図書館近くのホテルに滞在し通いたい、とか、三日あったらマッターホルン登山だな、とか社会通念(?)を超えたところに願望が及ぶ人が「気質発作」の人だと思います。

良性、悪性といろいろバリエーションがあろうかと思います。

 

私など、"お前なんか紙とペンがあればいいんだろう?"と仰るかもしれません。

逆にそれだから厄介なのです。

cとgの関係性をとことんまで追求して音高社会学を作りたい、みたいな欲求は、ハタから見ると異様です。読書より遥かに役に立たないし、山登りといったメジャーな趣味に比べ、恐ろしくショボい匂いもします。

しかしこれは欲求ですから、止まることがありません。普段はそれを抑えて、家族サービスに従事することを良しとできる、わけではないのです。抑えられないのです。気がつくと思考は戻っています。内容自体は本当に薬物依存と同じです。

薬物依存よりタチが悪いのは、更生施設もなく、誰も治療に携わることもできず、精神の病というにはあまりにも健全です。もっと優先して治すべき人が社会には列をなしています。「ちょと変わっている」だけでも社会では居場所がなくなることだってあります。でも最近ではスマホ依存症に似ているかもしれません。

 

気質発作の人は大きな問題を抱えている、とも言えます。状況によれば家族や社会のお荷物になります。そうならないために、普段仕事をしたり、体裁を取り繕ってなんとかやりくりしていると思います。しかし"それをしない生活"は毎日3食米だけ、みたいなことを強いられている感覚、と言えば良いでしょうか。

好きなこと、というのはその性質によって麻薬にもなり得ます。

 

気質発作に社会性を与えられる人

もっと範疇を広げて考えてみると、

・歌に関わる喉の骨の一個まで研究してボーカルを学ぼうとするボイストレーナー

・とことんコンプレッサーの使い方にこだわって、究極の音を目指そうとするエンジニア

・電磁波の少ない海外の田舎の山奥に鋼鉄の家をたて、地下に専用の電柱を埋めて、オーディオを聴くためだけの家を建てるオーディオマニア

・スケールの組み合わせに全てをかけて、300のスケールを組み合わせてギターソロを弾こうとするギタリスト...etc

とか、「凝りすぎ!」「もう常識の範疇を超えてる!」という方がおられると思います。

 

うまくいけば、それが仕事とリンクする場合もあります。しかしそのこだわりがその仕事を産んだ、というよりもその人の人間としての社会性が仕事を作っただけで、先ほどの更生した事実を社会に発信できるような人と同じです。

大抵は、

・喉の骨の研究に勤しみすぎて、その人の歌自体はしょぼい

・プラグインには詳しいけれど、あまり一般受けしない平坦な音しか作れない

・山奥で鳴らした音は素晴らしいのだろうけど、誰も聴きにいけない

・スケールの組み合わせは得意だけど、ギターが下手

となることでしょう。これは社会的責任感でそれをやっているのではなく、欲望にまみれた結果だからです。

二十四時間自分の欲求だけに囚われているので、社会性が失われてしまうわけです。自分の趣味の分野はすごいけど、社会で認められるための社会性が鍛えられていないために作る作品がしょぼかったり、一般性を欠いてしまう状態になってしまいます。私もこの例に入るでしょう。

「音楽理論詳しいけど作る作品がしょぼい」

という人を責めないでください。気質発作の人です。そういう理解が社会に足らないだけです。というか、健康で社会のために働かない、というのは理解されないことで初めて針のむしろという居場所が与えられます。

 

それでも人に説明することだけは上手!な人は、youtubeメディアなどを活用し社会性を作っていけば良いと思います。

それで「そんなに詳しいなら一曲作ってみろよ!」に対応できる社会性を作るための努力できる人は、また上手に生きて行くことができるでしょう。そこは人間力だと思います。

そこを努力できる人は、自分の欲求に割く時間を半分にしながらも質を落とさぬ努力をし、かつ社会性のための付随努力を行い、無駄なく、だれかのためにひたすら努力できる人です。そうして初めて趣味やマニアックな気質発作を仕事にできるのだと思います。それをなんとなく願望して、過去の私のような質の低い欲求と憧れを抱いてなんとなくハマってしまう、という方も多いことでしょう。

 

尋常でないこだわりを持つこと自体は大切なのではありません。

どういう形で社会に貢献したいと思っているか?が大切なわけです。

 

音楽理論を生涯研究したい、というその学生さんの話を聞くと、私に相談してくるだけあって、ご自身の趣味や欲望が、私と同様の「気質発作」に基づくものではないか、とお話しました。

 

気質発作からくるものだと、依存性が高く、人生の大半の時間が奪われ、人によっては社会性を見失い、仕事に困り、路頭に迷う可能性があります。

私も早い段階で、社会性と訣別してしまったのに、現状なんとも思っていないので、そうした人に社会性を要求することがなんのアドバイスにもならないことはよく分かっています。場所が場所なら生まれついての落伍者、と言われたりします。

 

のめり込んでfしまう生活(依存症状態=これができてしまうと戻れない可能性が高まる)が習慣化する前に、現存の社会、歴史の中に理想的なロールモデルを探してください。必ずあなたと似たような人が何人かいて、その中でも社会的に安定した立場を確立している人がいると思います。ぜひその方に生き方や努力の仕方の教えを乞うてください。

そして最後は自分の決断=独自論なので、自分で責任を執ってください。

私が何か言える、としたら、そういうことだけです。

 

この気質は、一周回って、自分を気質を呪い、社会を呪い、ネット上で誹謗中傷に明け暮れたり、同じ趣味のものたちで集まり「自分のやっていることに意義がある」と言い合う、みたいな傷舐め合い生活になると厄介です。

私自身全て経験し、運よく全て排除できましたが、ここからどこに向かうのかなど分かりません。

 

こだわりがあれば良いわけではない

あの人のこだわりはすごい!という著名人がいます。

しかしすごいのはそのこだわりの部分ではなく、それを社会的価値に変換するために重ねてきた努力の側面だと思います。

私にはそれが丸っと欠けています。

音楽理論にのめり込む!ことを「頭でっかちになる」「理論が個性を邪魔する」というなんとなくの曖昧な言い方がされることもありますが、本当に音楽理論好き=気質発作の人にとっては、音楽ではなく音楽理論自体の社会学、組織学の方が人生の全てなので、それを音楽表現につなげる、とか、それを用いて音楽を作ることなどはっきりいってどうでも良いと思ってしまう場合があります。それが社会性の欠如です。

その部分をどうにかしないとこの気質発作は病のように人生を蝕みます。

 

この気質、研究への渇望をしっかりと見定めて、社会性を帯びた成果に向かえるように学生時期から欲望と社会性をコントロールする術を身につけていかれると良い、そのことに尽きます。ぜひ新しい研究分野や教育視点、社会貢献の場を作ってください。

 

結局欲望をコントロールしてほしい、という話になります。

でも犯罪ではないのだから、かつそこを探求できる人生を迎えた入れたのであれば、もうそれこそ運命としか言いようのない巡り合わせです。

中途半端にせず、本人が今出来ることをひたすらに生き、堪能できる上手な生き方を釣っていただきたいです。落伍者は落伍者である位置に収まった上で、改めて周囲にあるものを使って人生を作っていくしかないと思います。



次の記事で独自性を生み出す 解釈のあるようについて 細かく見ていきたいと思います。

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