"''完璧なんだけどつまらない"'
こういうちょっとおかしな文章を「準矛盾構文」としてみましょう。
音楽制作時や表現を評価する時、何とも言えない感情や表現をしてしまう時があります。適切な表現が生まれる前の直感的な感覚を文字にしたものです。
定義は曖昧です。
なんとなく読んだ感覚感に、矛盾したような感覚、何も論理的回答は出ていないが、おふざけでないある種の解答の方向性がある文章とします。
矛盾的感覚は思考で感じるのではなく、クオリアで感じます。
そういうことは「社会外」の空間で思考することで初めて有効に活用できるのではないでしょうか。それ自体を社会で公言すると話がややこしくなりますが、思考の中で考えをまとめると端的な文章になって生まれ変わったりします。
頭の良い人はこんな表現などを用いないでズバッと適切に言えると思いますが。
文章の論理はある意味で破綻していますが、言いたいことがなんとなく伝わる表現。
この記事の「"」二重引用符と「'」引用符を重ねた三重引用符の文章は準矛盾構文です。ここではあえてその文章のニュアンスを「解釈しようとして」みてください。
よりわかりやすい表現もあります。
'"あなたのことは好きでも嫌いでもない"'
たとえばこれです。
こう云われて、好きでないのなら、嫌いなのか?とか詰め寄ると話が混乱します。逆に強くどちらかの感情に決めることを迫れば、より嫌われます。
好きになってもらうことも可能性としてはあるが、現状の条件では数年は好きになりそうもないからやんわり拒まれていることを意味する、と解釈すると話がこじれません。
有名すぎて矛盾でもないかもしれません。
また、「矛盾」の故事自体を理解することについては以前書いていました。
この矛盾構文、つい気持ちがこんがらがって「矛盾する、と捉えられても仕方ない文章」を述べてしまったり、実際に矛盾を感じる感情の併立を感じ、矛盾とわかってて言ってしまう場合などがあると思います。
不定調性論では、矛盾を容認するので、矛盾だからとおざなりにせず、そのニュアンスを丁寧に感じながら(直感)、確かに答えの方向性も感じる時があります。そうやって矛盾自体の意味、それが心に発せられた意図、本当は何が言いたいのか、自分は深層でどんなクオリアを感じているのかを探るとっかかりにするために矛盾自体を容認する方法を考えています。
だからこうした中途半端な文章は、もっと良い表現で言い直されなければなりません。
好きでも嫌いでもない、つまり何とも思っていないのなら、これから好きになってもらえる可能性の方も十分にあると考えて良いか?と聞けば具体的に考えてもらえるかもしれません。
'"ここはめちゃくちゃ低音の不協和音にすることで恍惚の協和まで底を突き抜けたい'"
実際に自分が制作時に感じた矛盾構文です。不協和音を協和に感じるまでにしたいという、わけのわからない欲望です。
でもこれを受け入れ、そのようにトライしていくと、実際「表現」は生まれます。
それが自分なりにうまくいって、それから結構同じようにやったりしましたが、最初に感じたのは、「DANNY BOY」だったと思います。1:15頃の'"澄んだ泥水"'に沈んでいくような感じ。解説記事ではもっと気取って書いてますね。
皆さんは「自分ワケわからんな」という願望や感情を感じたことありますか?
それがもし犯罪行為でないなら、ぜひ深く探究してみてください。
矛盾を感じる時というのは、矛盾ではなくて、何らかのもっと他の少しややこしい技法や感覚で表現されるべき方法論が隠れている、というヒントみたいなものだと思います。
普段はギアを落として生活していますが、危機に直面した時、人はもっと鋭い感覚を持って生きることができます。矛盾を感じる心も本来ギアをあげないとわからない感情に直面しているよ、という心のサインなのではないでしょうか。そこでギアをあげて対処できれば、心の負担や、わだかまりを行動によって昇華できるかもしれません。
'"仕事に行きたくないけど金は欲しい'"
時に誰でもこう思います。
最初は高いギアでこなしてましたが、仕事に慣れてギアが下がってしまったのでしょう。
こうした感情を認めてみてください。これには仕事に飽きた、楽して稼ぎたい、好きな仕事をしたい、人に認められる仕事をして大金を得たい、というような欲望が混じっているかもしれません。その詳細を突き止めてみてください。
まぁ私は仕事大好き人間なので、仕事が嫌だとは感じませんが。
突き放してすみません。(⌒∇⌒)ゞ
しかし、不満を認めてもらえないと、感情が抑圧されてゆきませんか?
「そんなふざけたこと言ってないで黙って働け!」
と言われるとちょっと辛いですね。
時には義務を怠って欲望を叶えたいと渇望するのが人間です。一応哺乳類ですから。
一方で報酬系、という高度な快楽を感じることも人はできます。
こう感じた人は休んでもらうのが一番です。
'"有給休暇"'だってあるのですから。
そうか、有給休暇って日本人には準矛盾構文だから、内心蔑んでいるのではないか?
仕事休んで金もらうなど!!!的な。
どうしても有給取れない人には、この矛盾感覚願望を認めてあげることから絡んだ糸をほぐすしかないのではないでしょうか。
'"不協和音"'も矛盾かも?ですね。
協和ならず、とは協和がさも前提にあるように感じさせます。
例えば、斥力和音と引力和音とか、本来は不協和音も協和音も磁石のSとNのように対極に振る舞うものだ、とか別の発想でいろいろ考えておくと、和声学論争に巻き込まれなくてすみます。西欧美意識が彼らなりの定義をしたにすぎないだけで、あとは自分がどう扱うか、だけです。
生きようとする、と死に一歩近づきます。
人の意思に時間はありませんから、この矛盾を作り出すのは人間ではなく人間と時間との兼ね合いの結果です。
人は元々矛盾の中にいて、普段はそれを感じないように脳が構成されているようです。
世の矛盾て、万が一の時のストレス発散/自己顕示欲の達成のために人が存在を許しているのでは?と思ったり。ルールの一つの側面からのみ人は見てしまうから矛盾のように見える時がある、とか。
'"今日は朝から夜だった'"
文章としてはおかしいですが、絵にはかけると思います。朝日なのに空に星が輝いている そんなイメージを浮かべることもできます。現実には宇宙には朝も夜も混じり合い絶対的な朝も夜も決まってはいません。
この文章は正しいことを言っていますが、言い方が面白いので準矛盾構文と考えた方が適切だと思います。この時なぜ人は矛盾よりも面白さを優先して捉えてしまうかという点は、さらに別の領域の知識が必要そうなのでここでは省略します。
そもそも宇宙から見て地球の昼夜の意味ってどれほどでしょう。
論理的に考えないで、その言わんとするところをなんとなく自己解釈してゆく、というのが不定調性論的思考による作曲、表現においては有意義です。人にそれをぶつけてもその矛盾はその人の今には矛盾でないかもしれません。
自分の思考は普段考えていることが引き起こすあなたなりの結論であり、これからの発展の何らかのヒントであると思います。
自分自身のために上手に活用して斜め上な答えを降ろしたいですね。