音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

不定調性論で読む『20世紀の和声法』1-音程の不協和度-

ブルーノートと調性」で紹介されてる本でしたので以前より購入しておりました。

ただ近年国会図書館のデータベースで見ることもできるようになりました。

登録すれば、ネット上で誰でも読むことができます。

ndlsearch.ndl.go.jp

ということで、誰でも閲覧可能、という前提でこの名著の参考作品集とYouTubeの連携を載せておきます。全部ではなく、極力ポップス系の音楽理論で用いられそうなトピックにからんだ素材に限っています。

興味があれば上記で元著データをめくってみてください。

参照にしたい、という受講者がおられましたので代わって作業しました。

 

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私は音楽理論書の価値とかはわからないのですが、同書よりも松平氏の『近代和声学』の方が遥かに濃密だな、と感じたことも間違いありません。こちらも『ブルーノートと調性』にて紹介があり、探してすぐ買いに行ったのを覚えています。以前はもっと安かったような。

松平和声本は逆に膨大すぎてブログで紹介できるレベルのものでもなく、まさに書物として持つべき存在です。

 

さて『20世紀の和声法』ですが、昨今の用語ニュアンスと比較してしまうと希少本ゆえに解釈が時代に置いていかれ、少し"旧式"な心象を持ってしまう要素も否めません。

現代のジャズ理論がこれらの著作から方法論を発展させ一般化してしまっているので、今のジャズ学生さんとかは、歴史資料として読む視点が必要になるかと思います。

 

この記事も私の手に負えないので、ご批判いただいて、年々文章を仕上げて参ります(気に入らないなら君が書け笑)。

 

種々な和声技法それら自身は何ら独創的な作法を説明するものではない。理論と技法は想像性と才能に結びついてはじめて重要な働きをしうるのである。

理論書は想像性(創造性)を持てる人が読むべき読み物である、です。

こういった気高い精神を真似て(?)不定調性論も最初は「わかるやつが読めば良い」みたいなスタンスでした。

しかしそれは傲慢さを孕ませるだけでした。インターネット/DAWの発達で「誰でも音楽を作れる」ようになったからこそ、音楽教育ビジネスも成り立っていることを知らねばなりません。

 

和声研究においては厳格な原理に基づく先決的指針にのみ追縦することは避けられるべきであって、これは和声上の創造性が個々の楽曲においての和音と和音の関係に依存するからである。すなわちいかなる和音も他の和音へ進みうるし、また表面上対立するような技法も、ある形式的、かつ劇的条件のもとで組み合わされることが可能である。結論的にはまず独創的な構想と作曲上の刺激に重点がおかれるべきである。

 

(赤文字ブログ主付)
この感覚は結構無視されます。
これを言ってしまうと何も言っていないことと同じだからですね。

"「ルールはあるが何をやっても良い」発言"

 

いかにこの矛盾をうまく取り繕うかが音楽理論書の表現力であり、教師の伝えるスキルに依存します。読み手側にも深い理解が求められます。ルールが膨大なので、教師がいかに自由を尊ぶタイプでも受講期間まるまる使っても一冊集中して俯瞰し共有することは難しく、結局ルールだけを教える授業でクライマックスを見ることなく皆去ってしまうでしょう。

ここで述べられる「作曲上の刺激」こそ、このブログで謳う「音楽的なクオリア」を指すと考えられます。この「劇的条件のもと」がいつなのかを判断するのも「音楽的なクオリア」です。

つまり表現者の直観です。

音楽理論書は「直観」についての扱いをもっと詳しく書く必要があったのですが、脳科学や生体科学による論拠が当時は不足していたので、高度な脳機能と音楽理論を連結することができなかったのでしょう。

 

そのクオリア感覚を掴めたらあとは降ってきた判断/着想/直観をもっと深く丁寧に冷静に体感する習慣(直観的熟慮=瞬間的熟考??)をするスキルを磨きます。

 

同書はその点でそれこそ直観的になりやすい20世紀作曲の作曲技法を技法ごとに解説しています。

 

なんらかの技法を覚えたら、それを使ってみて、自分がどう「判断」するか、を見定めるところまで繰り返し続けることが「音楽的なクオリアの鍛錬」であり、引用にある「まず独創的な構想と作曲上の刺激に重点がおかれるべき」視点です。現代音楽教育では、この知識導入後の独立作業の中で個々人が感じる様々な心理ステップがあまりに千差万別過ぎてコントロールできない、と云うところまでは理解が及んでいるように感じますが、圧倒的に生体科学や脳についての理解を音楽理論学者が行なっていないため、人が矛盾や、口語化できない実体なき直感を音楽制作に活用している点を無視し続けています。

 

ともかく、音楽理論を学習し、いち早く制作の作業経験を通して感覚を活かせる脳回路を作っていくべし、というところまではわかるかと思います。

そして最終的に独自論作成を念頭におく、と良いと感じています。

 

第一章

同書では倍音によって和音の元が構成されるラモー的思想が冒頭で踏襲され、次のように音程に対する感覚を述べています。

 

完全五度及びオクターブーーー開放的協和(Open Consonant)

長及び短の三度と六度ーーー柔軟な協和(Soft Consonant)

短二度と長七度ーーー鋭い不協和(Sharp Dissonance)

長二度と短七度ーーー温和な不協(Mild Dissonance)

完全四度ーーー協和、あるいは不協和

(完全4度は不協和音に取り巻かれれば協和的に、協和音に囲まれれば不協和的に響く)

三全音(増四度あるいは減五度)ーーーあいまいな、中立(Neutral)あるいは不安定(restless)いずれにもなり得る。

(三全音はオクターブを中途で二分し、各音程中もっとも最も安定性の少ないものである。半音階的経過の中では中立として、全音階的経過においては不安定に響く)

引用、一部編集あり。

 

これは当然著者の個人的感覚に則しているわけですから、あなたの個人的感覚と則しているとは限りません。

しかしこのように冒頭に示されることによって著者がどのように和音を捉え、どのような感覚を持ってこの書を書こうとしているかが分かります。

(この捉え方も個人主義の台頭によって勝ち取られました。以前は「この理論書はこう書いてある、お前は間違いだ」と云う圧力が常にありました。)

 

不定調性論では、和音に対する感覚(音に接する全ての感覚)はその都度変わり定義不可能、としていますから上記のように確定的には申しません。

ブログではその都度「私がどう捉えたか」を書いてますが、それに対してあなたはどう思うか?を考えて頂く方が重要です。

 

三全音は半音階的進行においては中立性があいまいになり、あるいは隠されてしまい、全音階的進行においては、その不定性がなおさらに解決を望まなくなってくる。

こういった表現も「有識者の個人の判断」と捉えることによって、あなたがどこまでそれに同意でき、あなた自身はどのように感じるかを考えることができます。

彼は私より優れているから彼の判断の方が優先されるべき

という思いは、ムラ社会でリーダーに従属しようとする本能?哺乳類の習性?です。
それと読書をごっちゃにすると独自論は曇ってしまい、著書からの洗脳になってしまいます。または「この著者は誤っている」「この者は未熟で愚かだ」という最も原始的なリアクションしか生まれません。それはあなたの感想であり、そう思うなら自分でやればいいだけです。

自身の感想を誰かに認めてもらいたい、という承認欲求が強い主張があるだけです。

自分もこれですねきっと。

 

独自の判断は個人の限界があるので、いつかはその信念を貫くことによって逆に「有意義な失敗」をします。"読書はより適切な失敗をするためのガイド"です。

失敗して、強いもの(より向いているもの)だけが信念をバージョンアップできます。

失敗するまでは信念を変えることは難しいものです。

 

一般的にはすべての和音は少くとも1個の鋭い不協和音程を含んでいるか、含んでいないかという二つの範疇のいずれかに落ち着いてしまい、さらにそれぞれの範疇は少くとも1個の三全音を含むものと、含まないものに細分されよう。

("すくない"の送り仮名は当時は「少い」であったと思われます)

 

不定調性論では和音種類の分類を増四度を含むか含まないか、で考えていますがここに同様な表現があったことになります。

 

パーシケッティは和音がどのような不協和のニュアンスを持つかについて細かく説明していますが、不定調性論ではそれらの和音は一つ一つ違うニュアンスを常に聞き手に与える、としているので、響きの分類はせず、増四度を含むか含まないかだけの分類、というやり方になっています。

 

音色に留意することはよい和声技法であるために本質的なことであって、演奏媒介で示される音の良否は、和声進行の中における機能的な役割を左右する。ピアノ用に書かれた音楽はピアノでは効果的であるが、オーケストラ用に書かれた楽曲をピアノで演奏すれば誤った印象を与えるであろう。和声的作法は用いる演奏媒介に適して考慮されるべきである。

あるあるですね。

同書の指摘の1つで、ポリコード(多和音)は三和音(または和音のユニット)をオーケストラの別々の楽器で鳴らすことによって分かりやすくなる、等が書かれています。

 

和声の書き方は学んだけども、実際に理論通り書いて鳴らしてみたら酷くつまらないサウンドになった、というのは誰でも経験するでしょう。これは一番最初に書いたことです。

「理論に従って作った曲が型にハマってしまうのは、誰かの言い分に従っていれば価値は生まれるはずだ、という自分と向き合おうとしない身勝手があるからです。」

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同様なことにアンプの売り場でのデモンストレーションの音と自宅での音が違う、試食品の味と自宅で食べた味が違う、的なことは、心象反応自体のランダムさ、環境の違い、本人の疑り深い性格、セッティング/調理過程のちょっと勘違い、などが引き起こします。

その辺も「音楽的なクオリア」??を磨いてうまいこと感情処理するのも上達の過程だと思います。

 

この記事の趣旨としては、同書に収められたポピュラー知識でも参考になりそうな楽曲の参考例wのyoutubeと紐付けた列挙にあります。

youtubeのなかったの時代に、当時得体の知れない現代音楽を、しかもこれだけの参考曲を探し出し列挙して体系的にまとめる、という化け物のような作業が可能になったのも氏の比類無き初見力、ピアノによる総譜演奏能力から培われた博学に依存するところが大きい、ということです。

 

とりあえず学問的見地から何かを述べるとき、「リディアンやロクリアンが使われた曲」とか「モーダルインターチェンジがある現代曲」を指摘するのは普段は困難ですが、すでにそれを終えている名著があるので、それらを引用、参考にしつつ、その周辺から紐解いていかれると良いと思います。

 

また引用元はこのブログではなく、必ずご自身で国会図書館の資料を閲覧頂いた上で確認ください。

 

次回

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