音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

<不定調性論用語/概念紹介3>「音楽的なクオリア」について

2018.6.5⇨2020.8.20

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クオリア

クオリア - Wikipedia

ここでは音楽を聞いた時、制作中、思考中に感じるさまざまな個人的心象(共感覚的知覚、メタファー認識、意味論&記号論なども含めた論理的思考を超えた感覚知覚全般)を「音楽的なクオリア」という感覚として銘打って考えてみましょう。

 

音楽鑑賞をした時の言語にする前の実感、音楽行動への雑然とした動機、そこから生み出される名前がつけられない意図、それによってなんとなくの行動が生まれ、それによって生み出された旋律が制作作業の段階を経て持ってくる意味、周囲の人と生み出される後づけされる体験感、自分が思いもしなかった効果が生み出される一体感、興奮、意義、幸福感、そう言った音楽行動全てによって生まれる「確かに体感できるもの」を「音楽的なクオリア」と拙論では呼んでいます。

そういった体験は知識と無関係に脳のさまざまな部位を瞬間的に刺激してきます。

美学、哲学的にはいろいろな分類がされるでしょうが、そういうこととは関係なく、心象として浮かんだもの全て、すなわち生きていること全般を指してしまうかもしれません。

 

この定義は、誰かの定義を用いず、自分で感じなければなりません。

この感覚の詳細を考えるのは認知科学とか、脳科学の分野であるべきです。

また、哲学や美学でこれを扱おうとすると紛糾します。なぜなら各個人でこの「音楽的なクオリア」の外観がその都度微妙に異なるからです。

だからあくまで付随的な存在としてありのままをふわっと扱ってください。そこから生まれる定義はあくまで個人のための定義、とします。

 

好きな音楽を聴いて「やっべ!!」と思ったその感覚も音楽的なクオリアです。それはあなたの中に確かに起こったのです。

しかし証明できません、それに対して共感できる人と共有できる(必ずしも同一の感覚ではない)という行為自体も証明できない行為の連続が起きただけです。そこに意義を求めるのでなく、起きたことを実感すれば良いだけです。

しかしそれがあるからこそ音楽という存在、意義を認知できます。

 

そんなふわふわとした人間の認知が作り出す感覚を丸っと「音楽的なクオリア」と呼んでいます。学術的な意味ではなく、この不定調性論、という存在の意義を感じて頂くためにも、どうしてもこれが必要なのです。

 

共感覚 - Wikipedia

www.terrax.site

 

音を聴くと、気持ちや心が反応する人は多数おられると思います。

雷を聞けば恐怖を感じます。

子猫の鳴き声を聞けば、「ああ、かわいいなぁ」と思うことでしょう。人はそうした経験から生存欲求のために外部の振動現象を音として知覚し、その意味を把握できるように進化してきました。意図を受け取っているのではなく、ただ音を解釈しているだけに過ぎません。解釈や発信を誤ることもあり、それによって生き物は争わねばなりません。そうしたことも全て人の心象から始まっています。

 

音情報から得られる認識は時に直観的で、理由など感じる暇もなく結論がわかったりします。それが誤っていたとしても、さまざまな前後関係からそれを感じてしまいます。

「レミオロメン」という語を聞くだけで、まろやかな質感を感じる人もいれば、彼らの音楽のなんとなく温かい質感を感じる人もいるでしょう。それが好きだった別れた彼女とかも。とにかくこれはこうだからこうだ、といいきれない、言い切りたくない感覚、そしてそれは確かな実感を持って本人の中に生まれます。

 

音楽を表現する際にも、音楽理論や既存の価値や先例に根拠を求めるのではなく、この"自分が感じた感覚"に強く惹かれる時があるでしょう。

その仕組みは脳科学でもまだよく分かっていません。 

 

この感覚が音楽の動機になります。

そう感じたから何かやってみる、全てはそこか始まり、そこから「音楽的なクオリア」が鍛錬されていきます。

 

 

日ごろ感じる「お腹すいた」「眠い」「好きだ」「気に食わない」といった感情は自分にとっての紛れもない事実です。

社会は「この和声は美しいとされているから美しいと思える人間になりましょう」と教育をすることで秩序を作ろうとしているだけで、極論、あなたはそれに従う必要などありません。

その自己満足欲求が肥大すると犯罪になり、社会で生きてゆくことはできませんが。

 

ゆえに自分勝手な直観はストイックにトレーニングされる必要があります。

もし自分勝手に社会の中で作品を生み出してゆこうと思うならなおさらです。

 

そこから直観的感覚経験を鍛える、という指針が生まれます。

 

しかし方法は簡単です。経験の積み重ねです。

あなたが、お腹がすいたらお腹が空いたと素直に思ってあげること、です。

それを表明しなくてもいいです。あ、腹減ったなぁ泣、と思うことを認める、という作業です。これは時に自分の弱さ、自分の性癖、自分の悪いところを認めることになるので非常にストレスを感じる人もおられるでしょう。あとは

「今は我慢せにゃ」

と思うか

「20分後にコンビニ行こ」

となるか、それを実感して社会生活していることでしょう。

こうした実感がどんどん深くなったり、いろいろな部位と反応してさまざまな想いに変わります。創造的作業ではとても重要です。お腹が空いてきてパンを思い浮かべると、同時にまろやかなアレンジの感じが浮かんで作業が進む、なんてこともあります。「早く終わせたいから」とかいう理由もありましょうが。

そういう方はむしろ伝統通りの音楽制作をお勧めします。

 

逆に自分の感覚を知るということは「自分の程度を知る」ことになるので、非常に恥辱的で、セルフイメージを下げる行為になることもあります。

でもそこに「本来の自分=社会的生活とは無関係な生命としての自分」がいるので、勇気ある人は自分に向き合ってみてください。未知との遭遇です。

 

社会人としてストレスの中にあり、自分を殺して生き過ぎると、この自己の表明が難しくなります。

 

自分に劣等感があると、自分の直感よりも音楽理論的根拠の方が正しい、モーツァルトの方が正しいと思ってしまいがちです。

 

不定調性論では、自分がその音をどう感じるかを真剣に捉えます。

これが最初は難しいです。教えられた価値観、刷り込まれた常識、無意識に持ってしまった偏見・先入観などがあなたの認識を無意識のところから指示してくるからです。

偉人の言葉の方が立派に見えるし、偉人の選択の方が魅力的に見えてしまい、無意識に流用してしまいます。

現代音楽の大家シェーンベルクをして「最高司令官からのプレゼント」と呼ぶのがこの直感的知覚です。

(出典)

 

個人が感じる音楽的な意図や確信を拙論では「音楽的な脈絡」と表現することがあります(これも音楽的なクオリアと言えます)。この脈絡はあなた自身が感じる意味の流れ、脈絡の流れを漠然と感じること自体を指しています。後からそれを後付けすることもありますし、飾った言い方に勝手に直されることもあります。しかし何かをそこに感じたからそうした行動が成り立ちます。

逆に気がついてたら人を殴っていた、という人はカウンセリングをお勧めします。

 

理論的な解説がはっきりとできなくてもいいんです、理論的な解説ができることは、音楽理論的な学問で学べますが、理論的な解説ができないなんらかの脈絡はあなた自身が確信を持って、それを感じていくしかありません。

 

また正直、何も感じない、ということも選択です。

決められない、はっきりしない、どうでも良い、これら全てがあなたにとっての「音楽鑑賞感覚感」です。そういうひとは音楽ではなく、あなたが"興奮して感じ入ってしまう"授業を選択すれば良いとおもいます。

また生育環境によって根本的に自分を認めることが難しいということもあります。そしてそれが作品になることもあります。多段階的なクオリア思考の人もおられることでしょう。

 

 

そこからがスタートです。

そうするか、そうしないか、まず一つ一つ感覚的に決めていく

ということ(トレーニング)がもたらすもの、結果、自分の中で生まれる感情を受け入れる毎時刷新してゆくことで直観的熟慮能力を磨き、音楽的なクオリアに対して少しでも豊かにイメージングできるようなれば、その悪き欲望も犯罪にせず、もっと巧みな方法で発散できるようになると思います。この辺は表裏一体なので、気をつけて!としか申し上げられません。この時理論的に思考してもOKです。それが今のあなたの志向です。

それらを理論化した伝統的知識にも興味が向かうのは、知識がないことの面倒さを自分が感じるまでは勉強する意義がないでしょう。

 

 

私の中学時代の最初の疑問は、ギターを弾きながら、

C  G7  C

Cm  G7  Cm

この二つのG7に対して違う印象を持ったことでした。

同じコードなのに違う印象を持つのはなぜか?でした。これはまさに直感的知覚でした。

でも周囲でそんなことを言っている人は誰もいなかったし、音楽に興味のない人に尋ねてみても「別にどっちもおんなじだけど」と言われた時、「ああ、自分がなんかカッコつけてるだけなんだろうな」ぐらいにしか思わずしばらくはこういう感覚は忘れよう、と思ったほどでした。わたしはこの時、いとも簡単に自分の直感を放棄していたことになります。

 

きっと音楽を勉強していたら、こういうことも音楽理論で学習できるのだ、と信じて勉強していましたが、どうも先生が言うことと自分は合致しません。

 

よくよく調べてみれば、脳科学でもまだ解決できていない問題らしいということがわかりました。今も新しい脳科学の本を見つけてはそうした内容への言及や新たな解答が載ってやしないか探しています。

 

あと100年すればそういうことはすべて小学校から教えてもらえるとしても、今はほとんどの人がその科学的理由を理解することができません。

 

じゃあ、今の時代に何が出来るか、と考えたら、その感覚的存在をストレートに認知する事ではないでしょうか(美学的分類まで学ばないレベルでも感じることは鍛えられる)。

自分の脳の中で起きていることを自分が信じる…少しおかしな話ですが、まだその段階しか人は自分の脳について知らないのかもしれません。

 

私は何十年もモヤモヤしたところからようやく解放されました。

それをそのまま使えばいい、使いながらその感覚感を鍛えてゆくしかないのだ、という方法論を作りました。おそらく多くの達人が同じように研磨されてずっと先まで進んでおられたと思います。

チープな方法論にしてすみません、という感じもあります。

 

Cm  G7  Cm

におけるG7で、自分が「セツナイ」と感じるのは、そういった要素を持つ曲を沢山潜在意識に埋め込んできたからそのように感じているだけ、と理解すればよかったのです。

曲を作らず、「なんでこのG7はセツナイのか」について考えていても答えは記号論的にしか出ません。真の根拠は無限に、そしてかなり抽象化された形で、まだ未解明な科学的な概念で体の奥底で発動しているからです。

それ以前に「音」そのものが脳で作られている、なんて思いもしませんでした。

どおりで好き嫌いで喧嘩になるはずです。だって本人にとっては絶対的確信があるのですから。「あなたが言っていることはおかしいですよ」は真実かもしれませんが、彼が勘違いしたこと自体がとても重要なのです。

 

 

また「この曲のこの部分、セツナイよねぇ」とAさんが言った時、Bさんもそれに同意するのはなぜでしょう。

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これもAさんの感じた「セツナイ」とBさんが感じる「セツナイ」は微妙に違う、と考えれば良かったのです。印象が似るのは生育環境の類似の度合い、受容してきた教育や文化の類似性、どのくらい同じような音楽を聴いて育ったか、で考えればいいだけです。

 

そこがわかれば、G7が切なく感じる本質的理由を追いかける必要はありません。

ただ、そういう気分になる音楽をたくさん聞いてきただけと考えることができるからです。脳にプログラムされたことですから、これを急に変えることはできません。

そして、あなたの表現に共感できる人が、あなたの音楽を好きになります。

だから、これだけ音楽の種類があり、これだけ好みが分かれる訳です。 

 

これを展開すると、

「このメロディで使うシンセの音色はAがいいかBがいいか」

も自分の音楽的なクオリアに順じて選べば良い、となります。

 

その時の根拠は、なんとなく「Aかな」って思う。

しかし明日の朝「やっぱりBかも」になるかも。

これらが繰り返されてケーススタディの中で脳内回路が成熟します。

判断力が付いてきます。

すぐに音色が選べるようになれば、科学的根拠や理論的根拠は必要はありません、自分の核心で鍛えあげてきたからです。

ただそれは根拠がないので、非難を受けます。否定されます。それを押し返すためには、どれだけ自分の音楽的なクオリアを信じてこれまで戦ってきたか、という戦歴に頼るしかないのかもしれません。

このような"感じ"をこのサイトでは「音楽的なクオリアの鍛錬」という言い方をしています。

 

感じ方はどんどん創造されて展開していきますから完成することもないので、追求をやめなければ、飽きることもありません。

 

どんなに恥ずかしい表現であったとしても、まずそれを自分が認めてあげるというところから、自分の表現が創造されていくのだと思います。

 

音楽的なクオリアを把握する作業は、「自分の使い方を知る」ということなのかもしれません。

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