音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

<不定調性論用語/概念紹介3>「音楽的なクオリア」について

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音楽を行っている人は、音楽で何らかの感情や風景感、質感や感覚感を味わうと思います。音楽現象に対して心を動かす、という意味や意義が分かればこの記事はご理解頂けます。

さまざまな音楽理論で音楽を語ることもできます。でもなかなか持って難しい少数派の世界です。でも「音楽が呼び起こす想い」に涙しない、と言う人はいないでしょう。

知識も経験も関係ありません。人は音楽に涙します。

不定調性論は、直接その現象、その感覚自体を「音楽的なクオリア」として方法論の真ん中に据えました。まずそうした感動が起きれば、その人にとって必要な音楽はしっかり受けとっています。それ以上は何も要りません。その感情が心を動かし、明日を動かし、人を導きます。世界が導かれれば、それ以上に理屈は必要はありません。

 

「クオリア」という存在自体を信じる必要はありません。

拙論で用いているのは、その「質感を感じる心の状態」をこう呼んでいるだけで「クオリアのリアルな存在の実在」を肯定しているわけではありません。クオリア信者の方はごめんなさい。私は用語を流用しているに過ぎません。

 

この感覚は日頃の社会的常識や植え込まれた教育に基づく感覚ではなく、本当に自分自身の中から生まれた、現状の言語にはならない感覚、普段は外に見せてはいけない 自分だけの感覚と対峙し、考え、それに対して思いを巡らす、という社会とは全く関係ない自分の中の心情について考えることを大切とすることについて述べています。

感覚派から見ると、音楽の感動を論理的に説明するなんて恥ずかしがり屋さん、だな、と思います。理論派から見ると、音楽に感動して人目を憚らず大声で喘ぐなど破廉恥で品性のかけらもない、なんて思うのでしょうか。どう説明/表現するかにこだわっていると感動は絵に描いた餅になります。

 

それは自然に起きるべきであり、理解されるべきではなく、いつも心と一体です。

理屈の世界は、人が言葉を話すようになってから生まれた補足的な存在です。

「音楽的なクオリア」は人が言葉を使う以前から持っていた自然と感応する精神です。

 

その精神をベースに方法論を作るとどうなるか、を拙論は真面目に考えたわけです。

 

鋭敏に感じていればバンド演奏でメンバーの体調や気分まで解かるでしょう。

音楽だけじゃなく、たとえばサッカーなら離れた仲間の意図を感じるとか、

研究なら、ある朝突然何の根拠もなく閃いたり、

相手の声で意図がわかったり、相手の触れる手で意思疎通ができたり...

そういった鋭敏な感覚を軽んずるのではなく、経験値として適切に理解し伸ばす、と言うことに集中することで音楽も豊かになる、と言う発想です。

感覚派は勉強しなくていい、と思っているととばっちりを食い、

理論派は万人に共通する理論が存在すると思っていると、愛する人に想いを伝えるタイミングを逸するでしょう。

だからしっかりと勉強しつつも体の芯を感覚派で野太くするある、というスタンスを作りました。多くの優れた音楽家がそうです。それをモデルにしただけです。

 

クオリア

クオリア - Wikipedia

音楽を聞いた時、制作中、思考中に感じるさまざまな個人的心象(共感覚的知覚、メタファー認識、意味論&記号論なども含めた論理的思考を超えた感覚知覚全般)を感じる方のための記事です。

科学の領域において完全にその存在が特定、証明され定義されているわけではないのでこの言葉をアカデミックの領域で力点を置いて用いると論理が破綻する場合もあるので、充分にお気を付けください。またSNSの会話で用いても議論にならない領域に雲隠れできてしまう用語ですので使用にはご留意ください(確固たる議論のために理論的言説がある)。

意識という存在は十分に科学で解明されていません。

人が本来何をどのように自覚して、どのような反応が体内で起き、どのような感情が生まれているか、その仕組みを人はまだ知らないのです。

この感覚は個人の制作作業の枠組みの中でその作業自体を推し進めるための道具として用います。分かるからすごいとかだめだ、というジャッジはしません。

 

音楽的なクオリアは、美学、哲学的にはいろいろな分類がされるでしょうが、そういうこととは関係なく、心象として浮かんだもの全て、場合によっては生きていること全般を指します。この感覚の詳細を考えるのは認知科学とか、脳科学の分野であるべきです。

野生的論理性と読んでもいいです。人の本能が弾き出す計算結果を研ぎ澄ませた結果、人が作り出す限界の美がある種の論理性、統合性を作り出すだけで、その理論を覚えても、訓練が未熟であれば、実演で来ません。誰もが訓練したら100mを9秒台で走れるわけではありません。

 

それらの感覚は誰かの定義を用いず、自分で感じなければなりません。

 

美が共感を呼ぶのは、こちらが共感したいからであって、そこに共感すべき絶対的な美があるわけではない、と考えます。「共感」を喜びとしたい時、互いに美は生まれます。そこに美があるのではなく、共感したいという想いや対象を「美」として喜ぶわけです。本当に美しいなら、庭に落ちている石を拾雨だけだって一日中感動できるはずです。

あなたを誘拐した誘拐犯が「ほら、このナイフは美しいだろう?」と言っても美しいとは思いたくないから、それは美しくないんです。

 

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好きな音楽を聴いて「やっべ!!」と思ったその感覚も音楽的なクオリアと言えます。それはあなたの中に確かに起こったのです(または何らかの理由により引き起こさせられたバイアス的、錯覚的存在)。

その存在の絶対的意味は証明できません。それに対して共感できる人と共有できる(必ずしも同一の感覚度ではない)だけです。そこに意義を求めるのでなく、起きたことを実感すれば良いだけです。

 

現実的に、共感した時すぐに心を動かし、行動するのか、意欲を持つのか、思考を前進させないと美を感じた意味がありません。目の間の料理を美味しそう!と感じる理由が判明できてから食べよう、と考えるのはナンセンスです。

好きな人ができてもそっぽを向いて逃げていたら恋は成就しません。

拙論は、その「感じたら即行動して検証」と言うやり方を取ります。理由は行動しながら考えたり、感じたりしてゆきます。そのディメリットを感じる方は、ご自身なりの論理性をベースにご自身なりの方法論をお造りになれば良いだけです。

 

 

共感覚 - Wikipedia

www.terrax.site

 

雷を聞けば恐怖を感じます。

子猫の鳴き声を聞けば、社会的には「ああ、かわいいなぁ」「守ってあげたいな」と思うことでしょう。人はそうした経験から生存欲求のために外部の振動現象を音として知覚し、その意味を把握できるように進化してきました。

しかし意図を受け取っているのではなく、解釈しているだけに過ぎません。

また、人は解釈や発信を誤る(勘違いする)こともあり、それによって生き物は争わねばなりません。様々な性癖から自分の心に浮かぶ感覚に抗うことは大変難しいと思います。

 

音情報から得られる認識は時に直観的で、理由など感じる暇もなく結論がわかったりします。それが誤っていたとしても、さまざまな前後関係からそれを感じてしまいます。

「レミオロメン」という語を聞くだけで、まろやかな質感を感じる人もいれば、彼らの音楽のなんとなく温かい質感を感じる人もいるでしょう。それが好きだった別れた彼女を思い出す人も。とにかくこれはこうだからこうだ、といいきれない、言い切りたくない感覚。

社会はそこにこう感じるべきだ、という圧力を人に与える時がありますが、上手に作られた常識と自分自身の感覚を分けてください。

言語は後から汎用的なものに割り当てられた概念ですから、言語化できないのは当然です。ゆえに時には"考えるな、感じろ"というニュアンスがとても重要な時がある訳です。感じてしまうことを感じることがクオリアの自覚の第一歩だと思います。

 

音楽を表現する際にも、音楽理論や既存の価値や先例に根拠を求めるのではなく、この"自分が感じた感覚"に強く惹かれる時があるでしょう。

 

この感覚が音楽行動の動機になります。

そう感じたから何かやってみる、そういうタイプの人に拙論的思考はおすすめです。

 

 

日ごろ感じる「お腹すいた」「眠い」「好きだ」「気に食わない」といった感情は自分にとっての紛れもない事実です。

社会は「この和声は美しいとされているから美しいと思える人間になりましょう」と教育をすることで秩序を作ろうとしているだけで、極論、あなたはそれに従う必要などありません。その自己満足欲求が肥大すると犯罪になり、社会で生きてゆくことはできませんが。

社会においてバランスを作るというのは、個人のバランスを無視せよという意味も含まれていると思います。

 

もし自分勝手に社会の中で作品を生み出してゆこうと思うなら自分勝手の様を懸命に社会に属せる形で創造する必要があります。

 

そこから直観的感覚経験を鍛える、という指針が生まれます。

 

しかし方法は簡単です。経験を積み重ねる、だけです。

そこから自分が何を聞いているか、自分が何に興味を持ち、どのような反応を示すか、を自分で探り当て、解明し、スキルとして活用できるようになる必要があるわけです。

あなたが、お腹がすいたらお腹が空いたと素直に思うこと、が大切です。

逆にお腹が空いたら、友達を誘い、ご馳走してあげることで相手と自分を満たすことは欲望の社会化だと思います。これが上手な人もいます。

 

これは時に自分の弱さ、自分の性癖、自分の悪いところを認め公にすることになるので非常にストレスを感じる人もおられるでしょう(逆に論理的思考に逃げる人も)。

向き不向きがあると思います。

自分を認めると今持っている社会的地位や自分の存在を全て失うことにもなる場合があります。自分自身の程度を探し当てると自分が思っていた以上に大したことがない自分に出遭うことになることに耐えられない人もいるでしょう。

その瞬間から競争することを諦めねばならない場合もありますし、自分自身という存在の不可解さに飲み込まれてしまう場合もあるでしょう。

 

あとは食欲を感じた時、

「今は我慢せにゃ」

と思うか

「20分後にコンビニ行こ」

となるか、皆それを実感して社会生活していることでしょう。それが社会の中で許された自由意志です。隣の人のバックを中に入ってる弁当を食べようと思う自由意志は社会では認められません。

自分の感覚を知るということはそういった反社会的思想が自分に存在することも認めることになるわけですから、かなり余裕がないと自分自身を正確に見つめることすらできないかもしれません。だから感覚派は時に糾弾されます。

表現者はそれを形にしないではいられません。そこに努力が必要であり、そこに独自性が必要であり、そこに自分の心象を確かに具現化するための下地が必要になるわけです。

何かを感じ、何か行動したいと思うその一連の反応に対して拙論は"音楽的なクオリアを大事にする" というような表現をしています。

 

「自分の感覚を知る」ことは「自分の程度を知る」ことです。

非常に恥辱的な結果になることもあります。

社会人としてストレスを感じ、自分を殺していると、自己の表明自体が難しくなります。

逆に権威を学びすぎ、惹かれすぎても自分や他者を低く見すぎて強いもの、大きなものに従属して自己を歪めてしまうタイプがいます。

 

現代音楽の大家シェーンベルクをして「最高司令官からのプレゼント」と呼ぶのがこの直感的知覚です。

(出典)

 

気がついてたら人を殴っていた、という人はカウンセリングをお勧めします。

また、何も感じない、ということも選択です。

決められない、はっきりしない、どうでも良い、これらの感覚もあなたにとっての意志です。そういう人は音楽ではなく、あなたが"興奮して感じ入ってしまう"存在を探していただければ良いと思います。

 

また生育環境によって根本的に自分を認めることが難しいということもあります。そしてそういう対応でもその経験によって作品が生まれることもあります。

 

クオリアを自覚したところからがスタートです。

そうするか、そうしないか、まず一つ一つ感覚的に決めていく

ということ(トレーニング)がもたらすもの、結果、自分の中で生まれる感情を受け入れる毎時刷新してゆくことで直観的熟慮能力(瞬間的に深い判断をするような意識の意)を磨き、音楽的なクオリアに対して少しでも豊かにイメージングできるようなれば、その悪き欲望も犯罪にせず、もっと巧みな方法で発散できるようになると思います。この辺は表裏一体なので、気をつけて!としか申し上げられません。

 

 

私の中学時代の最初の疑問は、ギターを弾きながら、

C  G7  C

Cm  G7  Cm

この二つのG7に対して違う印象を持ったことでした。

同じコードなのに違う印象を持つのはなぜか?でした。これはまさに直感的知覚でした。

でも周囲でそんなことを言っている人は誰もいなかったし、音楽に興味のない人に尋ねてみても「別にどっちもおんなじだけど」と言われた時、「ああ、自分がなんかカッコつけてるだけなんだろうな」ぐらいにしか思わず、しばらくはこの感覚自体を忘れよう、と思ったほどでした。わたしはこの時、いとも簡単に自分の直感を放棄していたことになります。

 

そして、きっと音楽を勉強していたら、こういうことも音楽理論で学習できるのだ、と信じて勉強していましたが、どうも先生が言うことと自分は合致しませんでした。

 

よくよく調べてみれば、脳科学でもまだ解決できていない問題らしいということがわかりました。

今も新しい脳科学の本を見つけてはそうした内容への言及や新たな解答が載ってやしないか探しています。

 

あと100年もすればそういうことはすべて小学校から教えてもらえるとしても、今はほとんどの人がその科学的理由を理解することができません。

 

じゃあ、今の時代に何が出来るか、と考えたら、その感覚的存在をストレートに認知する事ではないでしょうか。

自分の脳の中で起きていることを自分が信じる…少しおかしな話ですが、まだその段階しか人は自分の脳について知らないのかもしれません。宇宙の構造を人は知らないのに、人は宇宙の構造によって生かされているからだと思います。

 

私は何十年もモヤモヤしたところからようやく解放されました。

それをそのまま使えばいい、使いながらその感覚感を鍛えてゆくことが個性と付き合う行為なのだ、と。

 

個性を伸ばす、なんて簡単ではありません。だってこんな個性嫌いだもん...ということもまず理解する、いう方法論を作りました。

おそらく多くの達人が同じように"足らない自己"を研磨して傷だらけで邁進なさって個性や作品を仕上げたのだ、と感じます。

 

Cm  G7  Cm

におけるG7で、自分が「セツナイ」と感じるのは、そういった要素を持つ曲を沢山潜在意識に埋め込んできたからそのように感じているだけ、と理解すればよかったのです。

曲を作らず、「なんでこのG7はセツナイのか」について考えていても答えは記号論的にしか出ません。真の根拠は無限に、そしてかなり抽象化された形で、まだ未解明な科学的な概念で体の奥底で発動しているからです。

それ以前に「音」そのものが脳で作られている、なんて思いもしませんでした。

どおりで好き嫌いで喧嘩になるはずです。

本人は確かなことと信じ込んでいるから恥も外聞もなく他人に主張できるのです。

 

また「この曲のこの部分、セツナイよねぇ」とAさんが言った時、Bさんもそれに同意するのはなぜでしょう。

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これもAさんの感じた「セツナイ」とBさんが感じる「セツナイ」は微妙に違う、と考えれば良かったのです。印象が似るのは生育環境の類似の度合い、受容してきた教育や文化の類似性、どのくらい同じような音楽を聴いて育ったか、で考えればいいだけです。

共感によって生まれる「仮想的な論理性」もあるでしょう。

 

そこがわかれば、G7が切なく感じる本質的理由を追いかける必要はありません。

ただ、そういう気分になる音楽をたくさん聞いてきただけと考えることができるからです。脳にプログラムされたことですから、これを急に変えることはできません。

そして、あなたの表現に共感できる人が、あなたの音楽を好きになります。

だから、これだけ音楽の種類があり、これだけ好みが分かれる訳です。 

 

これを展開すると、

「このメロディで使うシンセの音色はAがいいかBがいいか」

も自分の音楽的なクオリアに順じて選べば良い、となります。

 

その時の根拠は、なんとなく「Aかな」って思う。

しかし明日の朝「やっぱりBかも」になるかも。

これらが繰り返されてケーススタディの中で脳内回路が成熟します。

判断力が付いてきます。自分の癖も把握できます。なんとなくいい、って思ったのとは逆のほうをまずは作る、とか。それで一旦作って経験すると、何回目かには、ちゃんと自分の好みを真ん中に置いて作れるようになります。思考や判断力は一直線ではありません。人の学習能力は、学校で教わる「考える」という行為では測れない不思議な性質を持っていると思います。

 

作曲中すぐにシンセの音色が選べるようになれば、秘伝の作曲術や科学的根拠や理論的根拠は必要はありません、自分の確信が真ん中に置かれるからです。

ただその選択に根拠がない時も多いので、最初は非難を受けます(社会化して、外部発信用に其れっぽい根拠を捏造して発信/説得したりします)。

直感は場合によって否定されます。社会は慎重だからです。

それを押し返すためには、どれだけ自分の音楽的なクオリアを信じてこれまで戦ってきたか、という戦歴に頼り、堂々と根拠を捏造し、人を説得するしかない時もあります。

それによって大きな事故になる時もあります。

自分だけが気分の良い身勝手は大きな事故を誘発します。

感派は責任について学ぶ必要があり、理論派は寛容について学ぶ必要があります。

 

最初はどんなに恥ずかしい表現力であったとしても、まずそれを自分が認めてあげるというところから、自分の表現が創造されていくのだと思います。

 

 

音楽的なクオリアを把握する作業は、「自分の使い方を知る」ことです。

 

 

 

後半に続きます。

www.terrax.site

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