前回の続きです。
例えば音楽制作時に、
"よーわからんけど、最終的にこうなった"
等の説明不能な感覚/確信も「音楽的なクオリア」としましょう。
そこからちゃんと勉強するかその感性のまま研ぎ澄ますかはその人次第です。
こうした感覚タイプを理屈無視の天才とか、頭空っぽの直情タイプとスルーせず、その人が実際にはどんなふうに感じ、どのような感覚でそれを選ぶのか、感じているのかを知ることができれば、感性タイプの真の行動指針や、気質、体質などを知ることができると思います。
前回
この概念は完全に個人の制作作業の枠組みの中でその作業自体を推し進めるための道具として用います。
と書きましたが、じゃあどうやって「音楽的なクオリアを鍛える」のか、ということを改めてまとめます。
まあ答えは前回も書いているのですが。
しかし方法は簡単です。経験の積み重ね以外にはないのですから。
ちょっと分かりづらいですよね。
直感的選択で選ぶ、という行為を意識してひたすら発信し続けることで、その表現物に現れる
「雰囲気の良し悪し」
「全体感の自分の満足度」
「細部の連鎖感がもたらす「これでよし」という快感」
「社会的価値への従属、反発、転用のバランスへの直感的満足感」
など言語や数値的成果として具体化できないさまざまな「脳でしか処理できない情報」を体験/更新続けることで作品のクオリティが上がってゆく、という考え方です。
もちろん個人ができる限界はあります。
人生で押し広げられる個人の才能にも限界があります。それも理解し受け入れることで、自分が得られる満足の範囲でより上を目指すようになります。
誤った方向にいくことを防ぐのではなく、自分にとって不自然な方向に行かないようにクオリア経験を育んだ結果を受け入れ、その状態を信じ高めていくことで、そこで生まれる独自性を、自分の美の建造物、として受け入れる覚悟を持つ、というような意味になります。
自分の社会性と自分の野蛮さをマッチングさせて、折り合いをつける、と言えばいいでしょうか。
ゆえに伝統に沿って生きていかなければならない場合、独自性は影を潜めますし、より伝統に近いところで納得をしなければならない状態もあるでしょう。
これでいいのだ、と思える覚悟だけです。
その気付きと鍛錬の過程に入れば、この話は終了です。
そのまま一生、生ききってください、としか申し上げられません。
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・この技法を使えば、音楽は良くなる
・こういう時はこのナントカ理論を使えばいい
・こんな時はこう考える
こうしたtipsはそれを発信した人の成果であり、それを苦なく手に入れたあなたにはその価値を十分に享受できません。10日後には抜けていることでしょう(だから自己啓発は儲かる)。
学校や、なんとか講座、とかも全て気休めです。「お得な情報を人から教わる」は幻想です。早くブログなんか閉じて自分の作品作ってください笑。
勉強やセミナーに行くのはほどほどにして、いち早く自分の作品の発信研磨段階(音楽的なクオリアを鍛える作業)に入ってください。
自分の作品を通して学ぶ段階に入れば、どんどん頭と身体に染み付きます。
自らの作品と向き合う研磨過程で一時期に「まとまりすぎた」り「ひとつの快楽に寄せすぎた」りして、自身の方法論やその時の感情、欲望に縛られたりします。「音楽理論に縛られる」のもそのひとつの例でしょう。
しかしそこでまた学校に行ったりしないでください。そのままもがきながらどんどん作って作りまくって、考えまくって、そのなんとなくの雰囲気感、なんとなくの全体感、なんとなくの細部の良し悪し、それらの全てのバランス感についての「あなたの音楽的なクオリア」を働かせ続けてください。作る手を止めないでください。止めるなら海でも眺めてください。脳科学のページで書きましたが、ちょっとした休息は次の集中力につながります。
続けないと体の中にその「バランス感」が入ってきません(体得する)。
その部分が上質になっていかないと、「音楽的なクオリア」の精度も上がりません。
これらの「音楽的なクオリア」感覚は「具体的に言えない全てのことを含んだとても便利な総合評価指標」です。
やがて、少しずつ「満足できるものができた感」を覚え体得します。
あなたの作品を追いかけている人は似たような価値観を持っている人も多いわけですが、「あ!それ!それが欲しかった」と共有してくれることでしょう。
しかしその時、
「どうすればあなたのような作品ができるか」
を問うのは「宇宙の果てはどうなってますか?」と聞くぐらい無謀で答えづらい質問です。
無意識にモーダルインターチェンジを使ってしまっていることを指摘された時、「どういう時にモーダルインターチェンジを使えばいいのでしょう?」
と言われても
「使いたくなった時」
としか答えようがないでしょう。
「その感覚を身につけるにはどうすればいいですか?」
という質問も
「ひたすら作り続けて、"なんとなくの判断力"を鍛える」
としか答えられないでしょう。拙論はこの"なんとなくの判断力"を導き出す「音楽的なクオリア」の存在を具体化し言及しています。"なんとなく"を見つめ、具体化することに意味を持たせているわけです。それを何らかの技法や知識や理論で説明しません。体得できた時が理解できた時です。その時楽譜が読めなくても、耳が聞こえなくても関係ありません。
それを一般的にわかりやすく誰でも理解できるような概念に落とし込まなければならない、という強迫観念は忘れてください。
それを確かに教えられるほど残念ながら科学自体が進化していません。
最終的には言葉ではないところに行き、考える前に手が動くようにして、考える前に決断できるようにします。
そして才能という壁が立ちはだかります。自分の力量を思い知りながら、自分の人生で行けるところまで行く覚悟を決めて、あとは黙って切磋琢磨の段階です。
最初、日々の作品は、一つの的に向かって自動小銃を放つように、どれか一つでも的の中心にあたれば良い、ぐらいの気持ちで作っていかないと作品は進みません。
繰り返しになりますが、何も考えないでそれが作れるようになるまで、ひたすら繰り返し、脳の中にそのクオリアが即表現に変わる回路を作っていくイメージです。
(「考えないで作る」なんていうとちょっと眉唾ですが、難しい哲学や達人のzoneについて話しているのではなく、本当に「体が動いた」「思考が動いた」ような感覚と一緒に作ることです。こちらのページでは武蔵の言葉「有構無構」を使って表現しています。人によっては「作品が呼び込んだ」「神が作った」「降ってきた」などというような表現をするかもしれません。自分らしさ、への覚悟みたいなものって、そういう瞬間に試されるので、精神的にも実に創作に取り組んだふうな気分を味わえます。そしてそれはとても大切な感覚だと思うわけです。)
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あとは作品というご自身の定義のハードルを下げてください。そうすれば「作品制作活動」に入るハードルも下がります。
あなたが音楽が好きで、作品を作りたいと願うなら、
・あなたが何かを発したらそれは全て作品になりえます。
スマホに鼻歌を録音したら作品1−1です。
手拍子を適当に3回打ったら作品2−1です。
ピアノの鍵盤の上をネコに歩かせたら作品3−1です。
酔っ払って踊ったら作品4−1です。
こうした作品を「自分の作品だ」と意識できないと、どこか「あんなコード進行で、あんなアニメで使われそうな曲ができたらそれが初めて作品だ」という「社会的価値への迎合が成し得た時しか作品と呼べない身体になります。こうなると音楽自己啓発者の餌食です。というか自分の作品を作る才能よりも音楽を学ぶ才能の方が上、というしかありません。頭でっかちになって作品が作れないのは頭でっかちになったことが問題なのではなく元々作品を作る能力が低かっただけです。自分のことだからよく分かります笑
次に上の四つの作品のうち、自分の嗜好に最も合う作品をビルドアップしましょう。
作品1−1よりも長い鼻歌を録音したら作品1−2です。
手拍子を適当に6回打ったら作品2−2です。
ピアノの鍵盤の上を二匹のネコに歩かせたら作品3−2です。
酔っ払って逆立ちして歌って踊ったら作品4−2です。
こうやって「自己表現」欲望は自発的な欲望の解放から始まります。
決して音程を勉強して、コードを勉強して、先例をまねて作るのが作品、ではありません。それは社会的価値を作る音楽を作る行為であり、どちらかというとビジネスです。
ビジネスにはビジネスの才能がないと、結局上記のような自己欲求の作品発表に戻ってきます。あなたが望む表現活動になるからです。
この布陣ができた上で
・もっとグレゴリオ聖歌みたいな鼻歌の曲を作りたい、次はそれができたら作品1−3にしたい
・もっとリズム感を鍛えて、1分ぐらい正確に手拍子が打てるようになったら作品2−3にしたい
・ピアノと猫を使った歴史の中の芸術作品を模倣して、自分なりの意義を追加できたら作品3−3にしたい
・シラフの時にちゃんと踊って歌えるようになったら作品4−3にしたい
という欲望になるかもしれません。こうした自分の表現欲求が進化具体化(自分の音楽的なクオリアの進化)したら
・教会音楽の勉強するために大学に行く
・リズム感を鍛えるためにドラムの先生に習いに行く
・現代音楽の歴史を学ぶために市民講座を受ける
・ちゃんと踊れるようにダンススクールに通う
となれば、社会的価値の迎合に汲みすることなく「自分が最初に思った自己表現の完成のために必要なスキルや知識を学ぶ」となります。
その過程で「やっぱり第三者に心底認められたい」と持ったら、あなたは社会的な人間ですから、苦しくても理不尽でも我慢して業界に入り、戦ってください。
中途半端に「自分のやりたい音楽をやる」というのは業界内でも迷惑なので、「認められたい」と思うなら認められるまでは自分の音楽欲求は封印してください。
「認められる」というのは社会的価値を巧みに再生産できた人にだけ当てられる称号です。社会的でないと認められません。
そして認められた後に好きなことをやるのは、もうその人の生き方ですから、個人の責任にお任せするしかありません。
封印に耐えられなければ、業界では生き残れません。
音楽教育は、自分の望むことをやるために勉強する、みたいなニュアンスで伝わりがちですが、「好きなことで生きていく」は「まず社会的価値を創り出して認められた後に」という前提が省略されています。ご注意ください。
作品制作と発信、それにともなう学習欲と向き合いながら、自分がどういう表現活動をやりたい人間なのかを「音楽的なクオリア」も駆使してわかってくると、どういう全体像、雰囲気、価値観を自分の音楽に当て込めば良いかもなんとなく見えてきます。
自分がパッと作れるものが作品です。それをどの方向に、どういうふうに磨き上げてゆきたいかを探すために努力と勉強をする訳です。
特に目的もないのにセミナーに行くのは、海を眺めるのとあまり変わりません。
もし「自分勝手にやりたい」と思うなら、早めに安定した制作時間が取れる仕事や資格を別途持って創作時間を作れるように人生設計する、ということも並行して考えておくと良いと思います。
また私のように最悪のケースも稀にあると思います笑。
それでも自分がやりたいことに進んできたのでさほど後悔も落胆もありません。
どう転がっても自分で決断して生きれば、さほど不幸にはならないのでは?と私の直感は言っていますがはてさていかがなものでしょう。所詮自分もまだまだ磨いていかなければならない身です。
<参考>