2017-05-30→2019-7-20(更新)
導入
あなたがもし音楽を聴いて思い出や情景、見たことも風景、意味の解らないイメージ、匂い、味、感情、言葉が浮かぶのなら、それは共感覚的な知覚と言われるものではないか、という話です。
そもそも聴覚と色は脳内でリンクして反応している可能性がある、ということです。
だから音を聞くと、色、またはそれにリンクした記憶、映像、などが想起されるのは特殊でもなんでもなく、脳のバグ、というか自然な連鎖反応です。あとはそれをどのように捉え、一時解釈し、それを重ね深化させ、自分の人生でどう活かすか(音楽、小説、絵画、映像、デザイン...)?というところは個人の素養や嗜好によるのだと思います。
この話はこれで済んでしまうので以下は読まなくても良いです笑。
映画が好き、音楽が好き、小説や漫画が好き、という方は幾度も経験することで進化させられるのでしょう。
脳にはエピソード記憶、という記憶方法があり、"恋人と喧嘩したあのレストランで流れていた曲"を今聴くと、急に当時の風景が鮮明に思い出されたりします。ストーリー全体で記憶するシステムがあるからです。
こういったことも共感覚的知覚と混ざってしまうのではないかと思います。
例えば
「この曲、なんか中学の時の裏山の夕日って感じ」
「うわ、このコード進行なんか青っぽくてエモい」
「彼女の声はふんわりくりーむみたいな質感だね」
みたいなことをはっきり感じることがまるっと共感覚的知覚とされてしまうかもしれません。
個人では区別がつかない(判別する必要もない)ので、不定調性論はこうした感覚自体全てを音楽を作る時のモチベーションにしよう、という方法論です。
音楽はそれぞれ違って聞こえている
「クールなジャズ」
って言葉がありますね。この言葉、皆さんはどう理解しますか?
音楽が冷たいわけない、とか思わないですよね。
ああ、クールね、ってそのニュアンスを理解できると思います。具体的に説明できなくても「クールである」とは、別に冷たいという意味ではないのに、理解できる感覚。
こうした言葉が共感覚的な人間の感覚から生まれているのではないか、と『脳のなかの万華鏡』(リチャード.E.サイトウィック&デイビッド.M.イーグルマン著、山下篤子訳 2010-参考文献①-)書いています。著者二人は共感覚研究の第一人者だそうです。
音楽を楽しめる人は、程度の差こそあれ、共感覚的な感覚を有している、と言えるのではないでしょうか。
参考文献によれば、脳の左半球に色を知覚する領域と文字や数字の認識に欠かせない領域はすぐ隣どおしに存在しているそうです。だから文字の外見が引き金になって、色覚領域が活性化するというのです。
同著書より。
2005年の研究(エディンバラ/ジュリア・シムナーたち)では、何らかの共感覚を持っている人は23人に一人の割合でみられるそうです。
なぜ和音はそう聞こえるのか
不定調性論を考えていた時、自分にとっては明らかなことなのに、他の人はさほど気にしていない、ということが気になって「ああ、きっと自分はくだらないことを考えているんだろうな」と不定調性論研究は何度も挫折しました。
自分が悩んだ問題はこうでした。
「ある和音αが、ある和音βに移行した時、その時自分はある印象を鮮明に感じる。」
そして
「C-G7-CとCm-G7-Cmにおける二つのG7はそれぞれ異なる雰囲気を与える。」
というものです。意識したのは中/高校時代でした(ギターを弾き始めた)。とくにこのG7の印象の差異は明瞭でした。外見は同じでも全く風景が違うわけです。色合いも情感も、とにかく心に感じるあらゆる情景が異なる、と感じたのです。
なぜ同じ和音なのに、こんなに表情が違うのか。この和音には今何が起きているのか。
自分の音楽活動の出発点でした。
やがてそれは自分の外で起きているのではなく、自分の中で起きていることだ、と知りました。研究発表を経る中で教えられたのです。
そうなると、音楽の印象には個人差があることになり、この個人差は相互が言い争って解決する問題ではない、と感じました。
ゆえに不定調性論は最初から「個人の感覚に委ねるためのプログラム」を設定していました。
文字を見るとイメージが見える、というようなことは自分は「頭の裏のスイッチを押す」感じです。見ようとする必要があります。そうしないと感じられても読解できません。
映画の字幕がありますよね。あれが映画の邪魔だ、とは感じないでしょう?
必要だと思えばそれが見え、必要でないときはみません。
そういう感じ。
そしてそれを見続けると非常に頭が疲れます。でも共感覚とは違うと思います。単にイメージ力だと思います。
共感覚ではないと思いますが、自分の共感覚的な発作状態の頭の中というか耳の中の音のざわめきも音楽にしてみました。
是非聴いてみてください!
人それぞれ(オンリーワン)でいい、という意味
この意味は、ものを感じる際の感じ方が一人一人違うから、それで良い、という意味だと思います。オンリーワンというより多種多様であり「俺の感じ方には価値がある」というオンリーワンである事の価値ではなく、それぞれに別の世界観がある、ので争っても解決しないし、争わないでは済まない、という世界線がそこにあることを理解せよ、という意味です。
当初「リズム協会(現、リズム学会)」に提出したレポートは、私がまだ自分の感覚が「(エセ)共感覚的なもの」というのを知らずに提出したものでした。
発表時、みんながぽかぁんとしていたのを覚えています。
「何を妄想しちゃってるんだコイツ」
と。「共感覚的なもの」と述べれば済んだ話だったのですが、当時はなんと表現していいかわかりませんでした。と言って私は共感覚者ではありません。
以後、この感覚が個人それぞれのものである、と分かったので、以前から他の動機も感じており一般的な研究を辞め、不定調性論を推し進めようと現在に至り「音楽制作心理学」として脳科学とリンクして旧来の音楽方法論を超えていこうとしています。
この話はどんどん続きます。
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<こちらも>共感覚テスト