寒いにゃ2025冬。
- 導入
- 独自論が作る小さな破綻
- 緊張と緩和
- フリーコンストラクション
- フリーコンストラクションを整える
- 小品にする
- ア・プリクオリア(a-pre-qualia)〜初期素描を前に進める感覚感を言語化する
- 非現実的なア・プリクオリア由来の音を記号化する意味
- 内部生成型の人へ
導入
カノン進行の話題で、不定調性感覚でこの進行を「自分にとってのリハモ」感覚で考えていったらどうなるか、という話になりました。
実はこれは結構深遠な話で。
通例仕事での音楽アレンジは、方向性が決まっています。
どうアレンジして欲しいか、というリファレンスも大抵明確です。だから、そういう場合は既存理論でやれば難なくできます。
不定調性論というのは、音楽的なクオリア頼り、というか、全部ひたすら感覚です。
だから「リハモ」ではなく「フリー・コンストラクション(Free Construction)」です。カノン進行が結局変態してしまいます。通例のジャズアレンジ程度であれば、通例の方法論を用いれば良いと思うのです。それ以上に展開して、個性を加えたり、自分の思いを加えたりという場合、自己独自の方法論になります。自分が今どうしたいのか、というのは人それぞれです。そしてそれが強く明確に心象に浮かぶ人は、既存の方法論で作る音楽表現とは分けて「自分の音楽を作る」というステージを別途設ける必要があると思うのです。気持ちのままに、思いついたままにアレンジする、という行為です。これは仕事的構造とは全く異なる心境です。不定調性論による展開は、その辺の破天荒な意識意思まで網羅できるものでありたい、という思いがあります。
今回はその感覚をちょっと説明してみます。といっても散々概念説明では述べているんですが、なかなか非現実的かもしれません。
まずは次の"カノン進行"を聴いてみてください。

多くの人が自然に受け止められると思います。そういう音楽経験慣習にどっぷり染まっているからですね。これを良しと言っている分には、社会で迫害は受けません。
C G/B Am Am/G FM7 C/E F F/G
独自論が作る小さな破綻
次に、同じ流れにノンダイアトニックの和音を構築します。不定調性の最初の一歩です。

C GM7/B Am Am9.11/G FM7 CM7(#5)/E F Faug7/G CM7(#11)
少し異物音が入ってきましたね。
人によってはギリギリ“破綻しているわけではないなぁ”とも感じますか?
個人差ありますでしょう。
音の景色にひっかかりが生まれ、そこから別の情景が立ち上がってくる人もいれば、せっかくの幾何的に美しい映像がダダ滑りだ、と感じる方もあるでしょう。
もし元のカノン進行を「清楚」とか「神聖」と感じているなら、それはこれまでこの進行を繰り返し聴いてきた社会的経験が、個人の感覚の上にどっぷり乗っていることに気がついてください。先入観です。
一方、違和感を拒まず、観察して、自分の中で新たに意味づけ音楽の流れを「自分のもの」にできる人もあるでしょう。そういう人は私に似てます。
この「プライベートルーム=自分で良し悪しを創り決められる場所」を持っている人は、自分で何を心地よいと感じ、どこで変化させたいかなど全部自分で決められます。
それはあなたが「あなたの独自論」を持っていて、これまで丁寧に育てて練磨してきたからです。
それはともかく、ここでの意図は、
「最初のCM7は活かして、二番目から変えたいなぁ」
という気分から入っています。普段は二番目のコードに色々音を変えたり足したりして考えるのですが、G7のところにはGM7と決まっています笑。リディアンぽい響きが何ともいえません。自然なようで、不自然に感じる先入観が私たち調性音楽圏内に育っているからです。それを利用するんですね。
そこから全体の響き感を決めながら、整えてゆきます。整える基準は、
・協和過ぎれば不協和音に違和感が生まれる
・不協和過ぎれば協和音が台無しになる
です。先入観と自分のカスタマイズの間を上手につないでいって、社会の中に自分の存在意義を置きたいと言う欲求がここにはあります。実に自己調整的な作業だと思います。
"自分がどう感じるものを作りたいか"に常に意識が向いており、"人がどう聞くか"とか"どう説得力を持たせるか"は考えません。そういう他者のための音楽は既存理論で作ればいいんです。不定調性論は、まさに"汝の欲するところを為せ"の実践です。
そして、社会があまりに社会的人間を求めるが故に、最も肝心な社会的エネルギーを生み出す「個」の部分が、おろそかになっているのではないかと思うのです。
緊張と緩和
C GM7/B Am Am9.11/G FM7 CM7(#5)/E F Faug7/G CM7(#11)
これは先の進行ですが、この時、通例のカノン進行に対して赤・橙字の和音のところで、「ほのかな緊張」が起こることでしょう。最後の和音がアルペジオ的になっているのは、違和感の連続が文脈を破綻させないように波状にして少しずつ響きを伝えようとする行為です。「ブレークヴォイシング」とかいえばいいでしょうか。違和感の衝撃を和らげる効果があり、自分が受け入れやすい効果をもたらします。拙論におけるリズム的な指摘とも言えるでしょう。
さて、音楽は緊張と緩和から成り立っています。これをなぞらえ、
「静」→「動」→「静」
としてみます。例えば、
Dm7 ( ) CM7
とあったら( )の中にはG7が入りますね。そこを( )の中に「トイレに行く」みたいなことまで含めるのが現代音楽です。その辺のコンセプトはジョン・ケージが全部やっているので、私は、そこに行く中途のステップをもう少し丁寧に扱いました。
C GM7/B Am Am9.11/G FM7 CM7(#5)/E F Faug7/G CM7(#11)
この進行も
静 動 静 静 静 動 静 動 動
と書けるでしょうか。コード進行のどこに「動」を置くかは、
「この辺りでなんか起きそう」
という弾きながらの感性が絡んでいます。お化け屋敷や、アクション映画で「そろそろくるぞ!」って身構えたりできる人は、こうした動コードを自在に置けます。
また期待通りに違和感を置いたり、逆に期待を裏切ったりすることも簡単でしょう。
やっていることは従来の音楽とほとんど変わりません。
同じ段階で、次のようなものも作りました。

旋律的になるところがありますね。これも「違和感のショックを成り立たせるための仕掛け」です。
通常の音楽表現であれば、違和感のあるところは即却下です。そういう作曲家にしかわからない主張など必要ないからです。
そこで不定調性論と言う"イベント"を作ったわけです。このイベントの中では、自分のやりたい方向性をいかに実現するか成り立たせるかと言うことに頭を使います。今日もどこかで誰かが自由な音楽を作っている、そういう輪が生まれるのは大切です。チャーリー・パーカーの時代、夜な夜な客がいなくなった深夜、音楽家が自分の技巧を披露するためだけに、セッションをやっていた行為にヒントを得ています。そういうトレーニングミュージックをより趣味化したようなものかもしれません。
フリーコンストラクション

最終的にこれがいいかな、と落とし込めました。
もうカノン進行の当初の印象からだいぶ変わりました。
結局、最初のカノン進行は不定調性論で言うところの「マザーメロディー」です。
そこを起点に考える最初の一歩に過ぎません。だから仕舞いにカノン進行であり続ける必要もないし、こんな作業とっととやめて、ご飯を食べて寝てもいいわけです。多分そういうことが本来の自由であり、好きな音楽と向き合う自然な形態です。
たまたま今回はこうした進行に落ち着きましたが、これがベストであるとか、こうすべきだとかというものではなく、それがそうして生まれたことを"いいな"と感じるだけです。これもまた音楽文化が進化した先のあり方の1つではないかとは思っています。
こうした作業で満足して、社会にて依頼を受けた音楽は、しっかりと相手の願い思うままにアレンジをさせていただけます。
フリーコンストラクションを整える

あとは、それぞれの不協和度、違和感、連鎖性、進行感が成り立つように細部を整えていきます。凸凹サッカーチームを県大会に出すためには、しのごの言わずチームを一丸にしないと勝てません。自分が置いた音に責任を持って、推敲です。
映画『小説家を見つけたら』でコネリー演じる小説家が「最初はハートで書け、リライトは頭を使え」みたいな文章が印象に残っています。最初はその勢いで作っていかないと、全体が仕上がらないからですね。天才のやり方ではないと思いますが、これなら凡人でもある程度できます。
メロディーらしき流れや分散和音的な演奏部分もありますが、これもあくまでそれぞれの和音のつながりが持つ進行感の変化のショックを和らげるために置かれた音であり、メロディーというよりも「関係性保持音」です。ハーモニクスがメロディーや和音リズムを一体にして考えるという言い方をしましたが、ここでやっている方法はまさにそういうことです。
音楽の流れを成り立たせるために必要な音を加えた結果、解釈によってはそれがメロディーに聞こえたり、和音に聞こえたり、リズム的アプローチに聞こえたりするだけで、やっている事はその音楽の流れに自分自身が意味を持たせるための行為です。これらの行為自体は、既存の音楽をたくさん聴き、作る訓練をたくさん積まないと生まれてきませんから、決して社会的な音楽教育や音楽経験が否定されることもありません。
その結果として生まれる旋律が、まるで自分が"社会的に承認されてきた"ような感覚になることがきっと嬉しいのだと思います。
小品にする

あとは作品にするだけです。
これがなんだと云えるものでもないのですが、結局私にとっての音楽活動というものは、こういうところに見つけたり、と言うことしかできません。
歴史には、ビートルズみたいに複雑なジャズ進行をあんなにポップに、あんなにシンプルに置き換えられる私とは真逆の歴史的才覚もあるにはあります。しかし、仮にあのように生まれたとしても、あれほどの器量を私は持っていません。やっていることが同じだから憧れるのですが、やればやるほど違い、というか根本的な差異を感じずにはおれません。彼らがやっていることもジャズを自分の音楽に変えるというやり方であったと思います。
そうこう長年やっているうち、音楽制作はある種のヒーリング行為となってきました。聞こえはいいですが、ただの自己満足です。
商用音楽とは異なる位置にある個人の存在表現習慣ですから、ここから社会性を求めたい人は、人様に理解していただけるように翻訳して表面を整えて発信していくべきではないでしょうか。
色々調べたら「外側の価値では心が動かず、自分の内部で整合性が取れて初めて安定する(内部生成型)」気質ではないかと思い至りました。
自分で味変したい人、車をカスタマイズしたい人、とにかくこだわりの点に自分で手を加えたい人またはそれ以上の領域にいっちゃう人...はきっと私と似た気質です。
私は"君がそれをするのは勝手だけど、人に勧めないで。”と言われ、ピンときて「独自論」という存在のありようを意識するようになりました。
ア・プリクオリア(a-pre-qualia)〜初期素描を前に進める感覚感を言語化する
色々理屈を述べましたが、ポイントは、こういう作品になっちゃうのは何故か、という点です。
フリーコンストラクションでは制作中置いている音の心象はもちろん、クオリア自体感じる猶予も自分に与えず音を置いていきます(それもクオリアかもですが、なんか違う感...)。以前「構造源」と申し上げた自分の心を突き動かす力に従って音を置いていく感覚です。構造源と言うと少しオカルティックなので、もう少し脳科学寄り?の概念にしたいと思い、今回改めて言葉にしてみました。
実際、置いた音のクオリアをいちいちはっきり感じすぎてしまうと、整合性のズレを見つけてしまって制作が失速することをすごく恐れてます。
ある程度全体像が見えた後に各音のクオリアははっきりと整合性を取っていくので、初期段階で「そのクオリアで本当に良いのだろうか」などと思わないように作る癖が習慣化した結果です。
それでも音を置きながら「あ・きっとこれだ」という感覚は確かにあります。逆にそれさえなく音を置くのははもっと怖いです。
では、これはどういう現象なのでしょうか。
クオリアの前の段階の直感を私たちはなんと表現すれば良いのでしょう。そこで...
<ア・プリクオリア(a-pre-qualia)>
としました。クオリア(明確な主観的質感)が形成される直前に生じる、未分化で予兆的な感覚を指すものとします(拙論造語)。
まだ心象として説明することはできないけど、「あ・これかもしれない」 と瞬間的に判断できる微細な手応えを伴う現象です。
「ア」とは「あっ!」を着想して付けました。「〜前」の意もあります。
〜心象ではない、粗いが習慣的に組み込まれた判断を伴う〜
色・方向・質感などの明確なクオリアはまだ成立していない。言語化はほぼ不可能。しかし判断は可能。「違う」「これは行ける」という意思決定は起こる。直感的選択だけが自動的に生じる段階。
ア・プリクオリアによる選択がある程度積み上がった後、全体を聴いたとき、本来のクオリアが形成されやすく、そのクオリアはかなり整合化された感覚として伝わってきます。あとは前後の進行感に応じて、その進行感が自然につながるように細部を整えてゆきます。
皆さんも「直感になる前の直感」みたいな感覚、少し熱にうなされるような力を原動力にささっと曲のデッサンを作っていませんか?
非現実的なア・プリクオリア由来の音を記号化する意味
そのようにして自分が置いていった音を通常のコードネームで表記することも可能ですが、既存理論に従っているわけではないので、私が置いたCM7は、皆さんが感じるCM7ではないとも言えます。アルペジオもアルペジオではなく、メロディーもメロディーではない???そういう存在になっている可能性もあります。
既存のCM7という表記を当てはめないのは、皆さんが知っているCM7という情報が持つ「機能」「重力」を持たない可能性があるからです(CM7(b9)とかも使うので)。
人に伝えるために結果的にCM7と書いても良いと思うのですが、本来の正体も書き記す必要を私が感じているだけです。
アルペジオがアルペジオではない、とも表現しましたが、これも先に述べた通り、「分散和音にしたかった」のではなく、前後の進行感の流れにある違和感を分散和音で懐柔できるなら分散和音にして進行感をスムーズにしたから分散和音になっている、と言えます。その場合、各音の演奏ニュアンスは分散和音の場合とは異なるでしょう。
不定調性論で開発した表記法は、
・音の実体をそのまま記述
・楽譜ではなくコード進行の私的発展板
・既存理論との対比を含んだ誤った文脈の回避(CM7(b9)と書くのもいいが、この表記しかないのが自分には頼りない)
・個人が感じた質感や構造/意図に寄せた表記も可能
・表記により、表記者が音を「所有」できる(他者との隔絶にも見えるが、そもそも他者を対象としていないので、その表記自体を他者が理解する必要自体がない)
・他者の追随や模倣を前提としていない(他者は、他者自身の方法論を作って良い)
・内部生成型の創作に必要な内的純度保持(同じ表記法ですべて統一できることで、創造性のイメージの分化が少ない)
などの目的を提示したくて作りました。
シンプルに「クオリアの言語化できない部分を記号化する」等と表現しています。この「とりあえず」行っておくことが、連綿と続く制作行為をつなぐ確かな存在にもなってくれています。

中心音名をカノン進行のコード連鎖に寄せることで、不定調性の音構造が可視化されます。
内部生成型の人へ
私は商業音楽そのものに特別な情熱が持てないままに、音楽制作に没入しました。
運良く音楽教育業の仕事を通じて音楽制作をさせていただく機会も多くお仕事をいただく立場にもなれました。
私は「外部基準では安定できないタイプ」で、自分の内部で価値の体系を生成しない限り、世界が整理されないと思ってしまう気質です。大それた意味ではなくて、全部それが音楽構造に集中してしまったようなのです。たまたま「君は内部生成型だよ」と教えてくれる人がおらず、自分で見つけるしか方法がなく、見つけるまではずっと違和感の中で社会の人を見つめてきました。
一般的にはCやFといった和音は「安定」「無事」とされますが、私にとっては、むしろそれが異様・所有できない部外者として知覚されます。
社会が「よし」と定義しているものを、私の内部は必ずしも「よし」とみなしません。
私は自分の外にあって自分が扱える「音現象」を「自分が所有できると感じる姿」に置き換える行動をとってしまいます。自分が程なく探求できて、法律の許す範囲でこの置き換え作業を最も精密に行える場が、偶然にも音楽だった、ということなのでしょう。これを行う自分が理解できなくて困っていましたが、「内部生成型」だとわかってしまえば、他愛ない普通のめんどくさい人にすぎません。
音楽は、緊張と緩和という微細な差異を扱う文化であり、その差分を観察する行為は、私自身の内部の思いや欲求を可視化する作業とリンクしてしまったのでしょう。
C G7 CとCm G7 CmのG7がなぜ異なって聞こえるのか、を感じた時から。
私の内部生成型としての気質が、必然的に私のための音楽のつくりかた=不定調性論を生み出した、ということになります。
だから、一般的に社会的に価値のあるものを、その枠組みのまま吸収し、それに基づいて新たな価値を作り、社会に還元するという生き方(外部参照型)ができないわけです。この手のタイプは社会生活で苦労します。ドロップアウトしてしまう人もあるでしょう。あなた自身の考えの方向が社会が重きを置く事柄とずれているためです。
多分私は、いつの間にか自然と自分が上手に社会を泳ぐことのできる道具を、不定調性論を手始めに作ってきたのだと思います。
・独自論を設け、それに社会的耐性を与えられるまで磨く「独自論論」という信念を持つ
・独自論を整理して生まれた方法論(私の場合は不定調性論)を社会的な場と分けて私的に用い、自分が自由に扱える「場」を作り、そこで一定程度の表現活動、承認を満たす活動ができるようにすることで社会生活が会になりこだわりや衝突が減り平易になる
・他者には他者の独自論があり、考え方が類似することは求めない。自分を理解しようと努力するのと同様、他者を理解しようとする習慣が生まれる。
・さらに優秀な人は、自身の独自論を外部翻訳能力をもって社会に発信し、参与を得て、社会貢献までできることでしょう。
私は翻訳力がゼロです。しかしこれは意外と大きな強みにもなります。フォロワーを増やす必要がないわけですから、収益をそこに求めず仕事はなんでもやって生活は確保してあります。よって、
→外部の評価構造から自由→長期的にぶれにくい→精神的負荷が低い→自分の探求を最優先→外部の需要に合わせる必要がない→収益とは関係ない
という完全独自論特化な自由時間を設けることが可能です。
● 私の方法論は、あくまで私の内部構造に最適化されたもの
● あなたはあなた自身の内部構造に最適な方法論を作るべき
● 追随は求めず、各自が独自化に向かうストレスを減らす参照点
中には「社会に自分を認めてほしい」という外部承認欲求が強いタイプもいるでしょうし、「自分の独自論こそ、より一般性の高い至高の方法論だ」と思っている普遍化志向の権威化タイプ(多分この手の人は内部生成型気質は弱いかも)もおられるでしょう。
そういった複合型の場合も、自身の気質を起点に、どういう立ち位置で音楽を行えば良いかが「内部生成型」というキーワードを起点に見えやすくなるのではないでしょうか。