原理編まとめです。
結論
記号化によってクオリアを曖昧なまま扱えるようになり、その筆記段階で表記の整合性まで創り出せるようになりました。私にはこれが大きな節目となりました。
つまり、不定調性論は「和音を組み合わせる方法論」以前に、私自身を整合させ、自己存在の輪郭を確認させる行為として機能してくれていたのです。その輪郭は、私が作った記号とルール(=自身のシステム)を介して、より鮮明になるわけです。
この記号化と整合性の確認作業を「収束閉合(Convergent Closure)」とします。
この行為で得られる感覚全体を、私の用語で『エージェンシー連動エピステミック閉合(Agency-Coupled Epistemic Closure)』と呼びます。シンプルに言えば「閉合快」とでも言いましょうか。
作業の結果、納得が閉じて自己輪郭が立つ状態です。
その結果が私にとっての不定調性論です。
簡単にいうと、音楽行動たのしー!ですね。その背景に「売れたい!」とか「みんなに聞いてほしい!」という感情が抜け落ちていた理由がこれではっきりしました。
私の音楽行動は、自己省察による自己表現であり、一般的な音楽活動とは似ても似つかない活動だったわけです。単にオタクですね。
音楽表現におけるメッセージや感情は重要ではなく、確かなものをあえて構造だけ残して仮固定していました。それがどうも解せなかったのですが、「音楽表現行動ではない」と分かれば簡単です。
音楽的に固定しなければならない何らかを、わかろうとせず、構造だけを受け入れる行為によって自分の気質にあった音楽方法論体系が生まれた、というわけです。
そして、
私のような内部生成タイプは、この快(納得、手応え、整理・順序付け、緊張の低下、疑念の低下)が連続することで「未踏解への漸近(Approaching an Unreachable Solution)」が起き続けます。つまり「答え」は出なくても、それによって段階的に次の行為が可能になる(前に進める)ことが、私にはとても重要なプロセスだったのです。
楽曲分析・楽曲制作をしているように見えて、同時にそれは自己輪郭の確認作業だったわけです。
不確定がいったん収束し、生活と行為が再開できる実感を得ること(疑念の回避、不安の収束、決定する手応え、考えて実行する体感)、その手応え自体は、皆さんも日々求めておられるのではないでしょうか。日々の実践(食事、趣味、スポーツ、旅、勉強)は、その手応えを更新し続ける行為でしょう。それによって基本的バランスや循環を保つ働きを身体のどこかで感じているのではないでしょうか。
私にとって不定調性論が、そうした"手応え"を作り直す日々の実践だった、というのはなんとも自分でも驚きでした。
「何でこんなことに自分は固執してるのか...」みたいな疑念は、「こうしないと先に進まないヤツなのだ」という現状の答えに落ち着きました。
簡単な例として
料理の味見(味見→微調整→再確認)や、筋トレで「今日の自分のここまで、を決めて負荷を積む感覚が近いです。
要するに、答えが出るまで追求するのではなく、今介入できる範囲で小さく試し、暫定の納得を作ることで、また「今日も自分を前に進められる」という感覚です。
至高の解は得られませんが、小さな前進を日々繰り返すことで、人智の及ばない解にちょっとずつでも近づいている実感が「解の獲得の悦楽」に毎日小さく代替されるんですね。
拙論における例題
問.cセクタのC→Dmという流れにおいて何が起きたのか、自己仕組みがエージェンシー連動エピステミック閉合を引き起こす収束閉合事例を挙げよ。
私の「手応え」はこうした問いを組み直して整理した時収束します。
こうしたことと、現実の音楽活動を切り離しておかないとおかしなことになります。
普通に社会的に認知度の高い活動が「個人のど真ん中の快」にフィットしている人が羨ましい!
この問題文、噛み砕くと「CからDmに流れるとはどういうことか説明せよ」って意味ですが、通例は
「(キーがcなら)CメジャーキーならトニックIからサブドミナントIImへの変化」
等で済みます。
既存学習から得たこうした知識で説明など事足りますし、それ以上の意味を求める必要は全くありません。しかし私への問いはこうした「学問」ではなく、私の中で何が起きたのか、を明らかにする。という意味なのです。変わってますよね。
だから私(内部生成タイプ)は
「(キーがcなら)CメジャーキーならトニックIからサブドミナントIImへの変化」
という説明だけでは不安なのです。無意味ではないか、とすら感じます笑。学問がそれでOKって言っているのにそれより奥に入り込もうとするから、社会で出遅れるんです。
まぁそういうことがわかっただけよかったです。
不定調性論を使って、この問いに回答してみます。一つの回答例です。
==収束閉合==

このように拙論のモデルでは、セクタcのCu5のSHスピンドルの表面領域側においてDm=/C|qは下方空象領域和音の関係がある、と把握することが私の快になります。
一方でDmをIとする場合も考えられますが、問題文と異なるため対象外になります。

これは一次的収束閉合では閉じないため、別の収束を創造します。これを副次的収束閉合としましょう。連関表を拡張した表を使ってみます。

eを上部にもっていくことでも対称性はできますが、同じ和音の集合が固まっていた方がスッキリするので、こちらを選択しました。
これでそれっぽい対称性が生まれます。これはこれで満足。
こうして私は今日も一日頑張れます。こんなモチベーションで生きる人間、流石に進路指導の先生も手こずるわけです。
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絶対的な解答(自分の思考が至らない)は見つけられないので、「しっくりくる解」を見つけ続けながら音楽に対し思索をして、思索が行き渡ったら生活に戻れます。
自分が組み立てた内部の答えやヒントを組み合わせて、見えてくる「何か」がそこにあることで、私は自分の輪郭を明確にできます。まさに自己確認作業に不定調性論を使っています。もちろんこうした問答だけでなく、制作作業も同等の効果を作ります。
この作業社会生活や日常生活を脅かすようになるとカウンセリングを受けた方が良いと思います。一歩間違えば犯罪行為になるタイプの指向性を持っていると自分でも感じます。
未踏解への漸近
そもそも真理の解は、人間の思考の及ばないところ(少なくとも私が生涯かけても辿り着かない高み)にある、と考えるわけです。
ここで不安になる人は、考え方を工夫する必要があります。
生涯到達できない解があるとしても、「今日はそこに少しだけ近づいた」という前進感が得られ、それによって次の行為が可能になることも人にはあります。
この現象を「未踏解への漸近」と呼びます。
失恋で苦しんだけど、美味しいものいっぱい食べたらなんか明日も頑張れそう、みたいにしみじみ思った経験をした人はいませんか?それが未踏解への漸近の快です。
「これがあればその日をまた前向きに暮らしていけるといった手応え」を人間はそれぞれに持っているはずだ、ということを言いたいわけです。
自分だけの快、なんてほとんどすべて幻想に妄想なのですが、こういう非社会的行為が日常の社会的行為を作っていた、という構図が見えてくると、なかなか味わい深いものがあります。学校では一切教えない「もがいてでも生きる生き方」だと思います。
この探索が私にとって不定調性論を成り立たせてきたのであり、飽きずに何十年も運用できていた理由でした。おかげで音楽制作の一つの方法論として自分に成り立たせられたのは、全部が妄想となってしまうよりも少しだけ誇らしいです。
最初は意味が分からず、何の意味もないのに、意味があるように、見せかけるのに必死だったわけです。不定調性論を何らかの意義深いものにしなくてはならない、という思いしかなかったように思います。
しかしその全体像が見えてきて、肩の力が抜けました。ちょっと気づくのが遅かったですが、不定調性論は私が死んだ時が完成です。完成品を見ることはできませんが、その「解」に一歩でも近づけて終えたいものです。
まとめ
調べたらM.フーコーが同じようなことを言っています。
自己のテクノロジーがあって、そのおかげで個々の人間は自分自身の手段を用いたり他人の助けを借りたりすることによって、自分自身の身体および魂、思考、行為、存在方法に働きかけることができるのであり、そのねらいは、幸福とか純潔とか知恵とか完全無欠とか不死とかのなんらかの状態に達するために自分自身を変えることである。*1。
最近は、各人が自分のエピステミック閉合を見定め、それと付き合いながら日々を前進させてみるのはどうか、という提案の構造(独自論を持て)もはっきり見えました。
その先で必要になるのが独自論論であり、その更新作業こそ、各自の閉合点の発見なのではないかと思うのです。
またこの仕組みは、みなさんからの今後のご批判を通じて更新されていくと思います。
作曲/演奏家なのに音楽分析や体系作りにハマる人、医者なのに受診システムの構築や症例研究とかにハマってしまう人、作家なのに文法、表現技法に凝ってしまう人、営業マンなのに異様に接待や顧客管理に凝ってしまう...etc
世の中の仕事の隙間を縫うように個々人の「快」はランダムに存在しているでしょう。そのとめどない思索の果てにそれぞれの(誰もあなたに教えてくれない)独自論があると思います。社会から見た独自論は、一見社会的に意味をなさない行為や思想考え方を侮って表現しているのかもしれません。誰でも人に言いたくない自分だけの執着を持っていることでしょう。そして、それを死ぬまで誰にも言わないことがほとんどかもしれません。
自分が何を快に思うのか...最初はそこをと向き合うのが大きな課題になります。だから、まず"そういう問いがあるのだ"と理解することから、ゆっくり自分の生き方を作っていっていただきたいです。
以上で、不定調性論の原理編を終えます。
造語について
エージェンシー(agency)
「自分が枠を作動させている感覚」
(=注意の向け方、選択、操作が“自分の手元にある”という実感)
ここでの「エージェンシー」は、心理学・行為論でいう 、sense of agency(自分が行為と結果をコントロールしている感覚) の意味で用いる。
エピステミック閉合(epistemic closure)
元は哲学(認識論)の用語です。ここでは原義の技術的定式化ではなく、
「関係が一つのまとまりとして収束し、腑に落ちることで納得的快が生まれる」
という体験上の意味で用いる。
エージェンシー連動エピステミック閉合(造語)
「自分が作動させた枠の中で関係が閉じ、納得が成立することで、自己輪郭(=自分がここにいる/自分が自分を扱っているという輪郭)が立ち上がる」
→私は不定調性論を通して、この自己輪郭の立ち上がりを、日常的に点検していたことになる。
→私は、閉合を価値として特権化しません。人に特化した快楽や納得の仕組みそのものを否定するのではなく、それが人間固有の感覚として作動することを認めたうえで、そこに常に留まり続けないことを選びます。その自分の恥部(欲、見栄、未熟さ、傷つきやすさ)を批判され得る形にして(ブログ)外部に示し、その批判可能性と一緒に生きます。
実務としては、私はある種の「磁力」を頼りにします。ここでの磁力とは、納得の快、称賛の熱、反発の正しさ、居心地の良さが生むその時々の吸着事変です。その磁力を感じたら無理に留まらず、引かれるなら拘らず一度引かれ、そのまま反対側まで流されて、そこでまた磁力を感じたらまた戻ります。ただただこの往復運動、すなわち渦、螺旋、振動のように止めずに続けること、ではないでしょうか。閉合を結論にせず、今引っ張られた方向として扱いながら、次の磁力に出会い、また引っ張られること。
私が不定調性論を通して日常的に点検していたのは、結局この「この先も流れていける自分」だったのだと思います。
余談
進路指導の話が出ました。
ときに「夢を諦めるな」と教わります。でももしその夢が「世間体」や「借り物の価値観」で作られたものだとしたら、それを必死に追いかけることは、自分自身から遠ざかる行為になってしまいます。
逆に、うまくいかない道を潔く「諦める」ことは、「これは私の道ではない」と明らかにすることであり、結果「本当の私の道(自分自身)」が見えてくる行為かもしれません。
折や断念といったネガティブな経験も、全て「不要な荷物を下ろして、身軽な本来の自分に戻るためのプロセス」になります。
ただ、諦めるタイミングは誰も教えてくれません。だからこそ、夢をあきらめないで突き進みながら何もかも自分で決断しなければならない、という意味だったのでしょう。
世の中の9割が普通の人と言われますが、皆それぞれが自分の道を見つけたからこそたとえ多少の不満があっても、普通に暮らしていけるのであり、今たどり着いたその場所でなんとか笑顔で生きる工夫を構築し続けたほうが、個々人にとって、大事なものを見つけやすくなるのではないでしょうか。
学術的な方向性を挙げるとすれば...
pooneilの脳科学論文コメント: 吉田+田口「行為する意識: エナクティヴィズム入門」 アーカイブ
未講〜私は「わたし」ているだけ
作曲の時、音を選びますが、私は「自分が決めている」という感覚を持てない時があります。
ア・プリクオリアと呼んだ感触を手がかりにほとんど即興的に音を置き、響きを聴き、「いいね」という反応が自分の中から返ってきます。
音も即興的に直感(=ア・プリクオリア)に委ね、出した音の心象も、どこからともなく湧いてきます。
置いた音が私を起こし、心象を生み出し、その心象が次の私の作業を決めます。
私はただ、構造源からやってくるクオリアを身体に"渡し"、置いた音から湧き出す心象を構造源に"渡し"て、次に来るものを待っています。
構造源とは、私を突き動かす根本システムのことですが、私の中のどこにあるか、といえば、生命を働かせ、心臓をひたすらに動かしている存在に例えられます。
この制作作業の循環全体の中に、私はどこにいるんでしょう。
この作業全部が私だ、と訴えるのは、まるで三十人のチームが作った手柄と成果を、自分一人のものにしようとするリーダーの姑息さのようなものを感じるのです。
私は「操縦席」に座ってはいるものの、左手で受け取ったものを右手に渡しているだけで、なんかそれっぽい作業を任されているように感じません。
私はどこかに在る存在というより、構造源と世界のあいだで起きている出来事を傍観しているだけのようにすら感じます。まるで心臓が明日も動いていく理由を探していくように、何かしら意味を見つけて、その真偽が定かでない喜びを次の脈拍につなげているようにすら感じるのです。
私は、まるで自分が読むことのない手紙を自分の社内で配達しているようです。それは世界と構造源しか読めない手紙です。せめてその配達物を汚さないように、そして速やかに受け渡しを行うことで、そこで生まれる社内の雰囲気に、私も手応えを感じ、いかにも私がそこに存在できたことをつい、喜んでしまうわけです。
配達は大事なことですが(新聞配達やってましたが)、「わたし」はただ私の各部に構造源からきた情報を「わたし」ているだけなのではないでしょうか。そして「わたし」を覆う社会的私は私の知らない「自己の領分」を拡張され「その身体=自分」とさせられて、多大な責任の範囲を背負い生きているのでしょう。それゆえ大したことができない自分には、「社会的自分」という責任を負うには、あまりに未熟な存在なのかもしれません。
私にとって独自楽曲制作が、そのような在り方によって成立していることを、少しずつ受け入れ始めています。
これは死に向けた、私の「私からの剥離」が始まっているのかもしれません。最後に残るのは配達するものがなくなった郵便局員の私だけです。一切の仕事がなくなった私=死の床の私を受け入れるためにも、日々たとえ小さな「手紙」でも、丁寧に渡していきたいと、少しずつ思えるようになっています。
私はただ見知らぬ郵便を「わたし」ているだけ。それで本来十分、なのだとしたら、ここまでだいぶ大きなことを考えていたものです。
「考える」「味わう」「愛する」と言ったことを「私」のリアルとしてお得なものと「自分」は受け止めますが、それは配達員が「ごくろうさま」と頂いた一杯のサイダーなのではないでしょうか。それは本来いただくべきではない過剰な賞賛といえます。宇宙は私の中の別の器官をメインに動かし、私は工場の外から、何かが見えた喜びを人生の快にしているだけかもしれません。
私の中から生まれているから私には生きる権利がある、生きる権利を自分で放棄できる、と考えると疲れます。同時に社会が与える「個人=私の責任」が実は過剰な要求なのです。いずれそれがAIという自我が私をコントロールし始めた時新たに議論しましょう。
おまけ:外在化した無意識(構成中)
不定調性論記号で考える記号譜「クリプト・ノエマグラフ(内成象号譜)-Crypto-Noemagraph-」を考えます。
この記号(unicode)を読むことで、音の大体の配置を記録できますが、読んでもらうためというよりも、記録する事で生まれた形を外に示すと言う意味以上のものはありません。
ピアノの一番下のa a0
ピアノの一番高いc c8
全音符 ᚦ U+16A6
二分音符 ᚧ U+16A7
四分音符 ᛍ U+16CD
八分音符 ᛙ U+16D9
十六分音符 ᚨ U+16A8
三十二分音符 ᚩ U+16A9
六十四分音符 ᚵ U+16B5
付点 𐩺 U+10A7A
複付点 𐩻 U+10A7B
全休符 ᨄ U+1A04
二分休符 ᨁ U+1A01
四分休符 ꤱ U+A931
八分休符 ꥁ U+A941
十六分休符 ꤳ U+A933
三十二分休符 ꥀ U+A940
六十四分休符 ꥂ U+A942
三連符 ⑃3 U+2443
五連符 ⑃5
テンポ T=
ト音記号 ◓ U+25D3
へ音記号 ◒ U+25D2
拍子(例) 4/4
スタッカート «音を表記» U+00AB、U+00BB
トレモロ ⲿ U+2CBF
前打音(装飾音部分)⦉音を表記⦊ U+2989、U+298A
ペダル(音持続)⦋音を表記⦌ U+298B、U+298C
*1:フーコー, M. (2004). 『自己のテクノロジー—フーコー・セミナーの記録』 田村俶・雲和子 訳 岩波書店 岩波現代文庫