音楽教育活動奮闘記

不定調性論からの展開~音楽思考の玩具箱

原理の行き着くところ〜エージェンシー連動エピステミック閉合(原理編6)

原理編まとめです。

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結論

記号化によってクオリアを曖昧なまま扱えるようになり、その筆記段階で表記の整合性まで創り出せるようになりました。私にはこれが大きな節目となりました。

つまり、不定調性論は「和音を組み合わせる方法論」以前に、私自身を整合させ、自己存在の輪郭を確認させる行為として機能してくれていたのです。その輪郭は、私が作った記号とルール(=自身のシステム)を介して、より鮮明になるわけです。

この記号化と整合性の確認作業を「収束閉合(Convergent Closure)」とします。

この行為で得られる感覚全体を、私の用語で『エージェンシー連動エピステミック閉合(Agency-Coupled Epistemic Closure)』と呼びます。シンプルに言えば「閉合快」とでも言いましょうか。

作業の結果、納得が閉じて自己輪郭が立つ状態です。

その結果が私にとっての不定調性論です。

感情はどうしても感じてしまうものだから、それを逆に記号化することで定義から逃れて、その確かなものをあえて構造だけ残して仮固定します。わかりづらいものや、わかりたくないもの、実際にわからないものをわかろうとせず、構造だけを受け入れる行為です。結果として、人間が受諾できるものはそれで全て受託できます。自分が固定できたものをベースに自分の生き方を考えていきます。

 

私のような内部生成タイプは、この快(納得、手応え、整理・順序付け、緊張の低下、疑念の低下)が連続することで「未踏解への漸近(Approaching an Unreachable Solution)」が起き続けます。つまり、真理の答えは出なくても、次の行為が可能になる(前に進める)ということで、私にはどうやらそれがとても重要なプロセスのようなのです。

楽曲分析をしているように見えて、同時にそれはは自己輪郭の確認作業だったわけです。

「快」と言っても溺れるような快楽ではありません。

不確定がいったん収束し、生活と行為が再開できる実感を得ること(疑念の回避、不安の収束、決定する手応え、考えて実行する体感)、その手応え自体は、皆さんも日々求めておられるのではないでしょうか。日々の実践(食事、趣味、スポーツ、旅、勉強)は、その手応えを更新し続ける行為でしょう。それによって生の基本的バランスや循環を保つ働きを身体のどこかで感じているのではないでしょうか。

私にとって不定調性論が、その手応えを作り直すための実践の一つだった、というのが自分でも驚きで、「何でこんなことに自分は固執してるのか...」みたいな疑念からこの原理編を書き始め、何とかこの記事でまとまりました。

 

 

簡単な例として

もっと簡単な例なら、料理の味見(味見→微調整→再確認)や、筋トレで「今日の自分のここまで、を決めて負荷を積む感覚が近いです。
要するに、答えが出るまで追求するのではなく、今介入できる範囲で小さく試し、暫定の納得を作って、また「自分を前に進める」という行為です。

至高の解は得られませんが、小さな前進を日々繰り返すことで、人智の及ばない解にちょっとずつでも近づいている実感が「解の獲得」に代替されるんですね。

算数の問題だったら0点ですが、哲学の問題だったらそれで100点満点でしょう。

みなさんそれぞれに、重んじてるルーティーンがあると思います。

困ったことに私はそれが不定調性論の探究だったのです。

 

 

拙論における例題

問.C→Dmという流れにおいて何が起きたのか、自己仕組みがエージェンシー連動エピステミック閉合を引き起こす収束閉合事例を挙げよ。

私の「手応え」はこうした問いを組み直して整理した時収束するのです。

噛み砕くと「CからDmに流れるとはどういうことか説明せよ」って意味ですが、通例は「(キーがcなら)CメジャーキーならトニックIからサブドミナントIImへの変化」等で済みます。既存学習から得たこうした知識で説明など事足りますし、それ以上の意味を求める必要は全くありません。

 

しかし私(内部生成タイプ)はこうした説明だけでは不安なのです。

「快」がなぜかくすんでしまいます。ほんと不思議です。そこで不定調性論を使って、この問いに回答してみます。

==収束閉合==

このように拙論のモデルでは、Cu5のSHスピンドルの表面領域側においてDm=/C|qは下方空象領域和音の関係がある、と把握することが私の快になります。

一方でDmをIとする場合も考えられますが、

上記のようにC=Iとした時ほどの対称性や関係性が連関表上で把握できないため、このモデルの上では、Cを中心とみなすほうが強い関係性が閉じ、納得の快が生まれます。

後者は一次的収束閉合では閉じないため、今度は別の収束を創造します。これを副次的収束閉合としましょう。連関表を拡張した表を使います。

これでそれっぽい対称性が生まれます。これで満足。明日も頑張れます笑。
eを上部にもっていくことでも対称性はできますが、同じ和音の集合が固まっていた方がスッキリするので、こちらを選択しました。

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絶対的な解答(自分の思考が至らない)は見つけられないので、「しっくりくる解」を見つけ続けながら音楽に対し思索をして、思索が行き渡ったら生活に戻れます。

これが日常生活を脅かすようになるとカウンセリングを受けた方が良いと思います。

 

 

未踏解への漸近

そもそも真理の解は、人間の思考の及ばないところ(少なくとも私が生涯かけても辿り着かない高み)にある、と考えると楽です。ここで不安になる人は、考え方を工夫する必要があります。

生涯到達できない解があるとしても、「今日はそこに少しだけ近づいた」という前進感が得られ、それによって次の行為が可能になることもあります。

この現象を「未踏解への漸近」と呼びます。

失恋で苦しんだけど、美味しいものいっぱい食べたらなんか明日も頑張れそう、みたいにしみじみ思った経験した人いませんか?それが未踏解への漸近の快です。

「これがあればその日をまた前向きに暮らしていけるといった手応え」を人間は持っているはずだ、ということを言いたいわけです。

すべて幻想なのですが、こういう非社会的行為が日常の社会的行為を作っていた、という構図が見えてくると、なかなか味わい深いものがあります。

この探索システムが私にとって不定調性論を成り立たせており、飽きずに何十年も運用できていた理由だったのでしょう。私にとっての「美味しいもの」です。

 

 

まとめ

 

M.フーコーも同じようなことを言っています。

自己のテクノロジーがあって、そのおかげで個々の人間は自分自身の手段を用いたり他人の助けを借りたりすることによって、自分自身の身体および魂、思考、行為、存在方法に働きかけることができるのであり、そのねらいは、幸福とか純潔とか知恵とか完全無欠とか不死とかのなんらかの状態に達するために自分自身を変えることである。*1

 

この原理編の完成で、不定調性論は私個人に閉じた実践として確定した姿となり、私はそれを俯瞰できたことになります。これも快でした。
これについては個人の話ですが、各人が自分のエピステミック閉合を見定め、それと付き合いながら日々を前進させてみるのはどうか、という提案の構造もはっきり見えました。おそらくそこで必要になるのが、独自論論であり、その更新作業こそ、各自の閉合点の発見なのではないかと思うのです。

これらの行為は、食事や歯磨き、睡眠といった生活サイクルそのものと全く同じ価値を持ちます。それをしなければ、自己の健全性が維持できないレベルにまで食い込んでくる話です。 私は普遍的な価値を提供したいのではなく、 その行為が健全性を維持できる位、生活サイクルや自己保全に役に立っているならば、社会的な協賛や理解は全く考えずに、社会的破綻を起こさないよう気をつけながら、 そのサイクルを精緻に練り上げて、独自論として、社会から切り分け、その先に社会的自己の確立を豊かに行っていけば良いと思うのです。

つまり、私にとっての不定調性論は哲学とか社会的行動ではなく、もっと内的な行為で、 私を健康的に成立させ続けるために、必要な毎日の歯磨き行為みたいなものです。

それは自己運用を昨日より明晰に行なっていくために、欠かせない行為みたいになっています。 方法論がどんどん精緻になっていくのは、 登山家が難しい山を登るために用いる道具がどんどん精密になっていくようなイメージです。

独自論ですから、他者からの理解を求める必要がないので、 余計なノイズに流されず、生活の許す範囲でとことんまで精緻に作り上げることができます。

 

もしあなたが、自分のやっていることの意味を見失った時などに、私のやっている 遥か彼方まで無駄な行為(笑)をご覧いただければ、多少の慰めになるんじゃないかと思います。 それによって、自分をより穏やかに運用できることのメリットを知っているのは、私とあなただけかも知れませんね。 それによって、自分をより穏やかに運用できることのメリットを知っているのは、私とあなただけかも知れませんね。

 

またこの仕組みは、みなさんからの今後のご批判を通じて更新され得るでしょう。私の場合、他者の介在に敏感なので、変化も早いと思います。

 

私は哲学者ではないので、個人が持っているシステムの個々の起動パネルを特定して、その基本構造の一般理論を解明しよう、という意図はありません。

 

学生の頃は、音楽理論の中の哲学に没頭し、その探求に明け暮れましたが、理論的概念うんぬんと悩み議論していた理由は、結局、エージェンシー連動エピステミック閉合という概念がわからず彷徨い歩いていた、ということだったのでしょう。

よく「そんな難しいこと考えるよりどんどん作品を作れ」と言われたものです。

作品を作ることが「快」な人は、どんどん作るでしょう。あの時、「商業音楽を作る仕事には向いていない」と、とっとと知るべきだったのです。

作曲/演奏家なのに音楽分析や体系作りにハマる人、医者なのに受診システムの構築や症例研究とかにハマってしまう人、作家なのに文法、表現技法に凝ってしまう人、営業マンなのに異様に接待や顧客管理に凝ってしまう...etc

世の中の仕事の隙間を縫うように個々人の「快」はランダムに存在しているでしょう。そのとめどない思索の果てにそれぞれの(誰もあなたに教えてくれない)独自論があると思います。

上手に生きる道を作っていきましょう。

 

私にとっての不定調性論は、私自身を健全に保つためのシステムだと思います。そしてそれこそがこの方法論の根本原理であると思います。

 

以上で、不定調性論の原理編を終えます。

 

 

 

造語について

エージェンシー(agency)

「自分が枠を作動させている感覚」
(=注意の向け方、選択、操作が“自分の手元にある”という実感)

ここでの「エージェンシー」は、心理学・行為論でいう 、sense of agency(自分が行為と結果をコントロールしている感覚) の意味で用いる。

エピステミック閉合(epistemic closure)

元は哲学(認識論)の用語です。ここでは原義の技術的定式化ではなく、
「関係が一つのまとまりとして収束し、腑に落ちることで納得的快が生まれる」
という体験上の意味で用いる。

エージェンシー連動エピステミック閉合(造語)

「自分が作動させた枠の中で関係が閉じ、納得が成立することで、自己輪郭(=自分がここにいる/自分が自分を扱っているという輪郭)が立ち上がる」

→私は不定調性論を通して、この自己輪郭の立ち上がりを、日常的に点検していたことになる。

 

余談

「夢を諦めるな」と教わりますね。でももしその夢が「世間体」や「借り物の価値観」で作られたものだとしたら、それを必死に追いかけることは、自分自身から遠ざかる行為になってしまいます。

逆に、うまくいかない道を潔く「諦める」ことは、「これは私の道ではない」と明らかにすることであり、結果「本当の私の道(自分自身)」が見えてくる行為かもしれません。

「諦めることは、自分に還る(かえる)こと」

そう考えると、挫折や断念といったネガティブな経験も、全て「不要な荷物を下ろして、身軽な本来の自分に戻るためのプロセス」になります。

ただ、諦めるタイミングは誰も教えてくれません。だからこそ、夢をあきらめないで突き進みながら何もかも自分で決断しなければならない、という意味だったのでしょう。

世の中の9割が普通の人と言われますが、皆それぞれが自分の道を見つけたからこそたとえ多少の不満があっても、普通に暮らしていけるのであり、そこで上手に笑顔で生きる工夫をしたほうが、個々人にとって、大事なものを何か見つけやすくなるのではないでしょうか。

 

学術的な方向性を挙げるとすれば...

エナクションの現象学 身体的行為としての事物知覚と他者知覚

pooneilの脳科学論文コメント: 吉田+田口「行為する意識: エナクティヴィズム入門」 アーカイブ

『自己のテクノロジー』研究の位相」

*1:フーコー, M. (2004). 『自己のテクノロジー—フーコー・セミナーの記録』 田村俶・雲和子 訳 岩波書店 岩波現代文庫