音楽教育活動奮闘記

不定調性論からの展開~音楽思考の玩具箱

不定調性のつくりかた一策〜新学期一講

25年夏休み企画。

不定調性音楽の作り方の秘訣と、なんかやる気がない、みたいな話から始まるこの時期。ほんとよくわかります。

そんな話の行き着く先と不定調性という音楽の不完全さとの相性について。

 

今回の完成品「渺迷宮」

再生できない場合 渺迷宮.mp3

このフレーズには元のフレーズがあります。

古くは「脱構築(Deconstruction)」などと言われます。

カッコよくいえば。でもただ自分が存在してることを確認したい独りよがりです。

 

元のフレーズ

再生できない場合081801.mp3

これです。

とある打ち合わせでこのお題をもとに作ったメロディです。

和音上にそのままピアノのメロを乗せたので一台では弾けません。ご容赦を。

最後だけDm/C∇と禁則気味です。拙論記号例ならCqul54または/C|qu5。基音cにおける下方領域が少し目立つ和音です。響きにくぐもりが生まれ、体に力が入らないような感じになります。暑さに疲れた感のある和音で終わります。

 

不定調性の造り方〜今の自分に即した、と感じる表現にする

大切なポイントを述べます。楽曲が不定調性になってしまうのは、作り手の気質です。

わざとそのように外しているのではなく、むしろ不定調性感覚の方がその人にとって安定した響きであるから、それを選んでいるのです。わざわざ"既存の技法から外して良いものを作る"という感覚ではありません。

ジャズの世界では、アウトサイドという考え方があるにはあるのですが、使っている側は外れているとかアウトしているという感覚はありません。それがしっくりくるからその音を選んでいるんです。だからこのページで示す方法ご自身でやってみてしっくり来ないと思ったら、不定調性の音楽をわざわざ目指す必要はないと思います。あなたにとってしっくりくる音楽が何であるかということがわかった上でその音楽を極めていかれれば良いと思います。

「不定調性」とは、外部一般の概念から眺めると「調性が不定に見える」だけです。

私には調性音楽は、絵の具が絵の具セットに収まっているように感じるんです。絵の具は混ぜて、ミックスして何色だかわからないような無限のグラデーションを作りながら、目的に風景を描くのが楽しいんです。

 

ここでも、最初のこの「元のフレーズ」から脱構築します。自分が求めるサウンドに変えてゆきます。

例えば、本棚に本が理路整然と並んでいるとしましょう。

誰かが並べたものです。

でも、自分が普段読みやすいように、と思ったら、図書館のように整然と並んでいても、本の並びを変えたくなると思うのです。

この旋律変えも似たような感じなのです。

不定調性音楽は私のセルフセラピーなんです。だから、誰も求めてなくても、自分が求めるので、つい作ってしまうのです。

 

どこを変えてもスイッチが入る

じゃあどこをどこから変えるのがいいか、なんて考えません。

お腹が空いて、近くにコンビニがあったらサンダル引っ掛けて出かけるでしょう?

そこに理屈はないと思います。そこに行けば、何かはあると知ってます。だから、どこを変えたら不定調性になって、それが素晴らしい、みたいな体系化を行わないんです。

それじゃあ不定調性を学びたい人が的確に学べないじゃないか、と思うかもしれません。音楽性とは、その人が"その人に成る"ために必要な概念です。自由に作って自由に感じて、自分にしっくりくる音楽があなたの音楽です。

 

具体的に私がどうやっているかを書いた記事が近々にあったのでリンクしておきます。

www.terrax.site

上の記事でやっていることは、例えばDm7-G7-CM7が下記にあったとします。

再生できない場合

これを1音、または2音、変えてみます。

再生できない場合

これはD7(9)-Db7(9)-CM7(9,13)です。裏コードを使った比較的セオリー通りですね。

この進行感覚を覚えます。この上記二つの進行感をご自身の中でリンクできますか?

Dm7→D7(9)に変えた理由を創造できますか?

G7→Db7(9)に変えた理由を創造できますか?

実際は、論理的に、こう考えると、それなりに面白い響きになると知っているから、こう変えたのですが、変えても
D7(9)(乾いたざわつき)

Db7(9)(微熱のある抵抗)

CM7(9,13)(病み上がりの安息)

みたいな「進行感」をあなたが感じれば、この進行は、あなたの中で音楽として成り立っています。さらに変形します。

再生できない場合

強いてコードネームにすると、D7sus4(9,10) Db7(9,11) Cm7(b5,13)です。
これでも何らかの「進行感」を感じるなら、あなたの中でこの進行が成り立っています。

まずは、普通のメロディ、コード進行を作ってみて、ちょっとずつ音を変えて自分が許容できる範囲を見つける、というやり方が初心者にはオススメです。

 

どうしたいかは自分で決める、やりながら決める

 

という蒙昧作業に早く慣れてください。それ以上のセオリーはありません(途中でよくわからなくなってしまうようなら、少しジャズ理論や19-20世紀のクラシック音楽を深くまで勉強してみると、音集合に対する感覚の幅が広がると思います)。

あとは作った回数だけ上手くなれます。そのことを方法論の真ん中にあるようにしたくて不定調性論は「音楽的なクオリア」と「独自論論」という考え方を導入しているのだと自己分析します。

 

実践でやってみましょう

(以下2フレーズは実は後で作っています。作成作業例を示すためです)。

私は和音の響きを変えるのが好きなので、それを行うだけです。

再生できない場合kzs1

仮にこんなふうに和音だけいじったとしましょう。

この辺から変えてみて、自分がどう思うか見守ろう...

ぐらいから始めます。

まず自分が何をしたい人間かを認めて、自分と折り合いをつけます。

初めは「理想的でなかった自分」を許すのが最初の仕事です。

私も自分を正当化したくて、不定調性論というセルフセラピーの場を作りました。

 

学生さんは、新学期に向けて、自分が作った自分のイメージを覆すのが恥ずかしいから今学校に行くのが嫌になっていませんか?学生時代から自分に向き合うことができたら、その後すごく楽ですよ。自分だけではどうにもならないこともありますが、正直に生きていると周りが助けてくれます。学生時代には自分に嘘をつかないことを身に付けてほしいです。多分それが最初の勇気です。

 

先は、和音だけいじってみましたが、これだとメロディが和音と呼応していない、と感じました。感情と表情が一致していない状態。

そこで、元のメロディも呼応させます。

 

再生できない場合kzs2

最後の和音は/C+wq\u5

最初よりC∇に対してより全方位の領域に拡散しています。

元のフレーズが持つ呼吸や合いの手が活きるように考えて揃えます。

理想をおって、カッコよく見せようとしたり、思い込みを自分に実践しようとしたりするものです。まさに1学期に友達に見せる"演じてきた自分"への疲れが夏休みに出ます。「ちょっと違うなぁ自分」と。

前の生き方からちょっとずつ、周囲にバレないように変えてゆきましょう。すぐにみんな慣れます。

自分にしっくりくる方向を見つけるだけでも、学生時代は有意義になると思います。夢は見つからなくても。

 

 

アレンジを進める

再生できない場合08803.mp3

さらに変形させます。最後の和音も/C+wu7(/+Qh+/とよりきめ細かい配置に。

不定調性論が完成した後で、自分の嗜癖に気がついたのは皮肉ですした。

もう方法論も「不定調性」という語も世間に知ってもらった後、やっていたことが自分の箱庭セラピーだった、と知って、壮大な見切り発車です。恥ずかしいなぁ、と今は感じてます。

 

 

コンテンポラリーに寄せて

ほかにも話の流れでいろいろ作ったので聞いていただきたいです。

再生できない場合08104.mp3

すこーしバップ的。後半はマルチハーモニックインターチェンジ?みたいな処理。

 

ヘテロドクシーコンテンポラリー

再生できない場合081802.mp3

少し今っぽい感じ。

VImにたどり着くIII7(9)がやっぱりいいですね。歯痒さが生まれて。

 

半信半疑は独自論で判断する

奇しくも教育業に携わっていますと、二学期前には生きる目的を失った学生と話すことがあります。

悩む彼らを見ていると、自分ですら信じられない方向に自分が歩いていることを受け入れられず、ショック状態で生きる目的を見失っている、と"錯覚しているタイプ"がいます。

新学期怖いですよね。本来の自分がバレてしまう恐怖。

でも、自分という存在と現実に気がつく最初のチャンスでもあります。これは早いほどいいんです。

背景には親に、兄弟に、こう生きるべし、みたいな指針があって、それを矯正されて苦しんでいるのでしょう。新学期前に苦しんでる子供を作った大元は、親だった。先生だった。あるあるです。

新学期は本来の自分を上手に少し取り戻す、とてもワクワクする自由な時間だと思うのです。その感覚が新鮮すぎて、落ち込むんでしょう。それだけ今までが甘かったんです。

本当の自分を知ると、人生が不思議な感じになります。楽しいとかワクワクではなくて、不思議な感じ。その感じに対して不安とか不満とか感じるんですね。でもただ不思議なだけ。世界はどこまでいっても不思議だから。

 

その後40過ぎて、誰もが妄想した予測通りの人生を歩いてる同級生なんて誰一人いません。

人生計画や指導は大人が安心したいだけで、子供にとっては迷惑。

指導した親や先生はすでに認知症で、私たちの子供時代より手に負えないモンスターになってます。

 

もし今、半信半疑でも半分信じている自分の道があるなら、答えを求めず、自分のリズムやビートが聞こえる道に、まず体を揺らしてみるのも手だと思うのです。

進みながら自分の未熟さに直面し、それも受け入れて、また考え、また進む。その過程で自己の卑劣さや、素直さ、弱さ、強さを発見して自覚できたら満点です。それについては「批判的独自論」としてまとめています。

 

今日はコンビニのおにぎり10個食う、とかでいいので、まずはそういうところから自己の「生欲」を取り戻してのびのびしていただきたいです。

 

25年度後半、大人が求める答えなんか出そうとしないで。少しずつ自分に成りましょう。