音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

誰かにとって不可解な音が置かれた時〜欠陥は存在しない

音楽には「変な音」って思う音が入っていたりします。

先に結論を書いておきます。不定調性論的な設定によって

・不快に思ったら不快

・不快に思わなかったら不快ではない

というところでまとまる話です。でもこれ意外と難しいんです。

同調圧力がこの世にある限り。

「根拠を出せ」って言われてもその根拠を了承する(社会に準ずるか)かしないか(個人を優先するか)、という選択肢があることを根拠を求める人は知らないのです。

 

現代の音楽だけではなく、きっと古来からそういう音楽はあって、、あんまり大勢にウケないから知られていないだけでしょう。または注視されていない。

 

そういう音を音楽理論的に解析したいと思う場合があるでしょうが、伝統技法の研究家でもない限り、不定調性論的な独自論的把握が便利です。

 

音楽の流れの中で時折挟まれる「自分には認めることができない表現」に出会った時、あ!って思うかもしれません。

それをなんとかブルーノートやカラートーンで説明しようとしたりするかもしれません。

でも歌い手は、弾き手は、演奏者はそんなこと意識していないかもしれません。

わざとかもしれません。ミスだったかもしれません。事故だったかもしれません。

画期的すぎて理解されていない可能性は?

この話は、Let it Beのミストーンをミスに捉え方と、ミスにしない捉え方が二つ合うことを教えてくれます。それを言い争う意味がないことも判明します。

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不定調性論的に考えると、これらの音には、ミスや事故以外に、表現を創造する過程で入るように定まった音もあります。正誤での判断はせず、心地よければ意味を見つけて後に活かそうとします。

自分にとっての価値判断で正誤を判断するのは独自論です。

独自論と社会的価値をごっちゃにすることがよくあります。私も・・。

必要ならチームで良し悪しを決めるのみです。

 

ギター演奏におけるフレットノイズであったり、感情を中心に、"考えず"表現していく不定調性論的な思考で考えれば、これらも意思や欲望の延長で解放された感覚の表現です。

青枠のところだけ理論的に考えて、他は感性でやってる。。ではありません。

元々全部感性だけど、伝統的な系統分析しようと思えばできるところとできないところが分かれて見えるだけです。その分析者にとって。

表現した本人には一貫した流れがあることでしょう。

 

拙論ですと「ハーモニックインターチェンジ」と銘打っている部分で起きるさまざまな出来事です。感情が音楽とクロスする時に発せられる"稲妻"です。

上記の赤色枠がハーモニックインターチェンジポイントです。

ここでは何が起きても表現だ、とあらかじめ認めておくのです。

トイレに行ってもいいし、銀行強盗してもいい、みたいな。その上でルールを決めます。「刑法に違反しない範囲で」とか。

これはこうした解釈を行うための補助輪的なもので、どんどん発展させます。

完全即興に向かう人には必須です。

ルールがあるのが社会的表現ですが、本来はそんなものないんです。と言って「ルールはないんだ!」って社会に訴えるから話がややこしくなります。

ルールがないのはあなたの中だけです。

「ある」と「ない」の世界観をごっちゃにしないで済むのが独自論の存在です。

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ライブで起きることもあれば、制作過程の事故が気にいって、それをそのまま採用することもあります。

他の部分と同様に音楽的なクオリアで感じ、技法としてその後使いたい時にまた使えばいいだけです。

 

失敗にも価値があるなら

そうなると失敗、ミストーン、事故も全て価値あるもの、表現、自己主張、意図、と言えてしまいます。欠陥というものが存在しないことになります。

 

欠陥車の事故は最悪です。ブレーキを踏んだら効く、という思い込みが起こるべくして起きた事象を「欠陥」にします。しかしこれは、事故を通じて人間が成長できれば、とか、その事故を通じてより良い車が開発されれば、みたいな理屈になって、個人の痛みを識別できない話のレベルになってしまうので、その次元は一旦ここで傍に置いて。

 

欠陥があるかもしれないと想定して行動すれば、欠陥は欠陥という価値である、みたいな言い方の方がいいのかもしれません。怖いですね。

 

しかしながら社会的価値の中でこの感覚は嫌われます。価値の基準がなくなるからです。

皆全て平等など私には不公平だ、と思うからでしょう笑。

だからこうした表現は「独自論」の中でのみ解釈します。

これを棲み分けせず、音楽は自由だ、表現は自由だというとこんがらがります。

話が上手い人はこの使い分けが巧みです。つい惑わされます。

理屈の上では自由ですが社会的に損を与える違法行為であるために必ず排除され独自論を行使できない未来につながるだけなので、私はそういう自由の肥大は容認しません。

これは独自論を最後まで維持させる工夫こそ大切、という発想の私の独自論からくる判断なのですが。

 

スキルのある人なら、音楽で起きた、自分のミス、仲間のミス、スタッフのミス、をカバーしあっていると思います。

それを具体化したのがハーモニックインターチェンジです。

 

しかしいきなり失敗も価値として認めることは無理かと思います。

 

だから芸術の鑑賞、スポーツ、料理の体験の中で思想を深めていくわけです。

例えば映画の中で主人公に起きる悲劇とかもその価値を認めやすいと思います。

自分のことではないので笑。音楽の短調の悲劇も同様でしょう。

 

著作権を犯したわけでもない、ただ音楽表現のダサいダメは別に違法ではないんです。

それを排除しようとする排他主義はあくまでその人の独自論であって、すごい人がすごい独自論と唱えてるけどあれは正しい?間違い?と決める必要ないんです。

「あなたの独自論はあなたが用いればいい」

で済みます。

 

普通に暮らせている人が当たり前に気遣っている話ですけどね。

つい家族のこと、仕事のこと、組織の中、では正誤を判断したくなりませんか?