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「自身の感覚で音楽を捉える」基準は、あなた自身です。
例えば、あなたが目が見えないとしたら、楽譜はあなたにとって基準にはなり得ません。あなたが音の振動すら感じないとき、音認知はあなたには関係ありません。しかし周囲の人の表情、あなたの手を握る手の感触があなたに美しさを感じさせてくれます。
それがあなたにとっての"音楽(または表現物)"となることでしょう。
あなたが音楽がよくわからない、と感じるなら、あなたがおかしいのではなく、あなたの身体の現状がそのように理解させている、というだけです。
個人の数だけ音楽の理解の仕方があり、個人の脳で作られる音楽的印象の全てが共有しづらい、個人情報であるとも言えます。
音に対する印象はすべて脳の中(身体?内)で作られるからです。
音楽は全て錯覚として楽しまれるもの、と心得ても良いのかもしれません。
以下は訓練過程で用いた、いくつかのアイディア集です(教材より抜粋)。
12音をモデルに音集合の敷居を取り払う
これらは音楽的和音も、海の波音も「自分が感じる音である」と説明するための材料です。
和音/和音進行を二種類に分類する
<参考>
楽曲解釈の心象表現化
楽譜から読み解ける一般音楽理論的解釈以外のこと、例えば、コンプがきつい、ピッチが悪い、グルーヴが良い、表情がいい、ダンスが良い、衣装が良い、等言語化/非言語な感覚も人は音楽に感じます。
失音楽症の人がショパンを聞いた時、ショパンはただのノイズだ、と判断すればそれがその人にとっての現状のその曲の心象であり事実です。
あるコード進行に対して、
HM7 |Jm7 |KM7 |Lm7 |
(寒々しい冬のような)
と思えるなら、この感覚は自身の冬の作品で応用できます。
小さな子供のパフォーマンスが未熟でも、笑顔が素敵だ、衣装が素敵だ、と指摘できるスタンスは誰でも持っています。
ライブで音楽はよく聞こえなくても観衆の熱狂が最高だ、と感じる人は、それもその音楽の心象です。
自己の心象を開いて感じるまでトレーニングします。言葉にしなくても良いです。
"アート思考"のその先へ
アート思考=自分なりの意見を持つ
しかしそれだけでは、バッハの作品を聴いて「くだらない」と意見を持って良い、となります。以下を追加します。
・自分が感じることを受諾しその"価値"を創造する(自覚)
・価値を自分の生活/活動に具体化できるよう訓練する(活動)
・次なる価値観を与えてくれるものを見つける(冒険)
バッハに感動しないなら、今無理にバッハを理解する必要はないと思うのです。
今のあなた自身の美意識、フェティシズムを満たしてくれる存在を探してください。
自己を探究していったその後でバッハの価値を理解(共感?)できるようになります。
感受性教育のその先へ
誰もが音楽を聴いて情緒豊かに感じるわけではありません。
音楽を聴いて情緒豊かに感じる人が音楽を通して人生を構築すれば良いだけです。
教師は学び手の感受性の性格を引き出し認めてあげる役を負っています。
それぞれが価値を見出せる分野に門を開いてあげたいものです。
全ての音楽制作は独自法
全ての民族が英語を選ばないのと同様、それぞれの文化があります。それぞれの神様がいて、それぞれのしきたり、常識、価値感があります。
独自解釈は社会に対する自分なりのセカンドオピニオンです。
知識も経験も完璧になることはなく、人は未熟なまま決断していかなければなりません。自身の「確信」を根拠にして行動しても、様々な認知バイアスによって判断が曇ることもあります。全てにおいて完璧はあり得ません。鍛錬と学究をやめては独自論は成り立ちません。
不完全で無知で未熟でも前に進もうとしなければ前に進めません。
自分の未知の判断に頼るということは、リアリティーに満ちた体験です。
不定調性論は、私にとって有意義なスタンスであり、皆さんには「独自論作成事例」です。
独自論から生まれる行動指針をこのブログでは「不定調性論的思考」と特化して表現しています。これは「自分の価値観で考える」というニュアンスで捉えてください。
他者を必要としない音楽へ
普段作る音楽にはリスナーが必要です。一方で、自分が書き残す音楽、自分の思考がそう有った結果書き残された音楽、という存在もあります。誰かに聞かせるものではなくて、自分のありようを記録した作品というものも存在すると思います。
私の作品も他者を一切求めない指向性を年々強く持っていく傾向があるので、参考事例としては適切でないかもしれません。
音楽的なクオリアが作る音楽の性格は個々人で変わると思います。感覚に従った結果、ロックになる人もいれば、現代音楽になる人もあると思います。
<さらに具体的詳細>
動画シリーズでも概略がつかめます。