音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

不定調性論ってなに?-2(2022) 詳細編

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売れるもの/ニーズのあるものを作るという世界があります。

大いに才能に依存し、それを教えようとする教育システムもあります。

拙論はそれらとは別に、個人が個人のために何かを行う時に必要な部分を方法論化しています。

 

「自身の感覚で音楽を捉える」基準は、あなた自身です。

 

例えば、あなたが目が見えないとしたら、楽譜はあなたにとって基準にはなり得ません。あなたが音の振動すら感じないとき、音認知はあなたには関係ありません。しかし周囲の人の表情、あなたの手を握る手の感触があなたに美しさを感じさせてくれるなら、それがあなたにとっての"音楽(または表現物)"となることでしょう。

あなたが「音楽はよくわからない」と感じるなら、あなたがおかしいのではなく、あなたの身体の現状がそのように理解させている、というだけです。

個人の数だけ理解の仕方があり、個人の脳で作られる音楽的印象の全ては共有しづらい個人情報です。

あまりに社会で体良く生きる情報ばかりが溢れています。皆が(自分が興味を寄せるコミュニティが)良いという音楽を"聴けなければならない"社会です。その同調圧力は狡猾で常軌を逸しています。

 

音に対する印象はすべて脳の中(身体?内)で作られます。

それぞれの価値観、それぞれの身体性によって無数の音現象の真実が存在するのですから、本来それらは独自的に一時解釈され深められてゆくものに決まっています。

誰かに舌が痛くても従えない、と感じる人が一定数いてもおかしくありません。"社会"からの脱落者は意見を封じられるのでそんな特異な人は存在しないと思われています。

 

音楽は大いに錯覚として楽しまれるもの、と心得ても良いのかもしれません。

 

 

以下はいくつかのアイディア集です(教材より抜粋)。

12音をモデルに音集合の敷居を取り払う

これらは音楽的和音も、海の波音も「自分が感じる音である」と説明するための材料です。

 

和音/和音進行を二種類に分類する

<参考>


聴覚と脳と心


 

楽曲解釈の心象表現化

楽譜では読み解けないこと、例えば、コンプがきつい、ピッチが悪い、グルーヴが良い、表情がいい、ダンスが良い、衣装が良い、等言語化/非言語な感覚も人は音楽に感じます。

失音楽症の人がショパンを聞いた時、ショパンはただのノイズだ、と判断すればそれがその人にとっての現状のその曲の心象であり事実です。

あるコード進行に対して、

HM7  |Jm7  |KM7  |Lm7  |

寒々しい冬のような」と思えるなら、この感覚は自身の冬の作品で応用できます。

 

小さな子供のパフォーマンスが未熟でも、笑顔が素敵だ、衣装が素敵だ、と指摘できるスタンスは誰でも持っています。

ライブで音楽はよく聞こえなくても観衆の熱狂が最高だ、と感じる人は、それもその音楽の心象です。

自己の心象を開いて感じるまでトレーニングします。言葉にしなくても良いです。

自分が体感したものの中で一番印象に残ったのがあなたが感じたことです。

「何も感じない」もその一つです。それは今だけです。今後あなたの人生の変化によって信じられないくらい豊かに感じることもあります。

 

 

"アート思考"のその先へ

アート思考=自分なりの意見を持つ

しかしそれだけでは、バッハの作品を聴いて「くだらない」と意見を持って良い、となります。以下を追加します。

・自分が感じることを受諾しその"価値"を創造する(自覚)

・価値を自分の生活/活動に具体化できるよう訓練する(活動)

・次なる価値観を与えてくれるものを見つける(冒険)

バッハに感動しないなら、今無理にバッハを理解する必要はない、と理解することもできます。それが自分の知識、経験、熟考の甘さ、浅さからくる判断である、とも言えます。この矛盾のニュアンスをその時々で柔軟に推し量り思考を落とし込んでください。

 

「自分で自由に解釈して良い」だけでは自己の成長がありません。解釈は一時的なものであり、理解ではありません。そして理解などできません。

「今バッハに接する機会を持った、ということは、何か今自分がこれを聞く意義があるのではないか、それを探そう」ぐらいの認識で余裕をもって接する必要があります。

 

そうしながら同時に今のあなた自身の美意識、フェティシズムを満たしてくれる存在を探してください。

自己を探究していったその後で必ずバッハの価値を理解(共感?または自分なりの理解)ができる日が来ます。それはバッハに価値があるのではなく、世間が感じてきたバッハへの価値を俯瞰することができる、という意味です。

 

感受性教育のその先へ

誰もが音楽を聴いて情緒豊かに感じるわけではありません。

音楽を聴いて情緒豊かに感じる人が音楽を通して人生を構築すれば良いだけです。

教師は学び手の感受性の性格を引き出し認めてあげる役を負っています。

それぞれが価値を見出せる分野に門を開いてあげたいものです。

 

全ての音楽制作は独自法

全ての民族が英語を選ばないのと同様、それぞれの文化性があります。それぞれの神様がいて、それぞれのしきたり、常識、価値感があります。

独自解釈は社会に対する自分なりの一時的なセカンドオピニオンです。

知識も経験も完璧になることはなく、人は未熟なまま決断していかなければなりません。自身の「確信」を根拠にして行動しても、様々な認知バイアスによって判断が曇ることもあります。全てにおいて完璧はあり得ません。

鍛錬と学究をやめては独自論は成り立ちません。つまり自分自身を自分が発見できないことになります。不完全で無知で未熟であることを認め、それでも前に進もうとしなければ前に進めない、という話です。

自分の判断に頼るということは、リアリティーに満ちた体験です。

不定調性論は、私にとって有意義なスタンスであり、皆さんには「独自論作成事例」です。

独自論から生まれる行動指針をこのブログでは「不定調性論的思考」と特化して表現しています。これは「自分の価値観で考える」というニュアンスで捉えてください。

 

他者を必要としない音楽へ

普段作る音楽にはリスナーが必要です。

一方で、自分が書き残す音楽、自分の欲望で描いた音楽もあります。誰かに聞かせるものではなくて、自分のありようを記録した作品。自画像のような。

 

音楽的なクオリアが作る音楽の性格は個々人で変わると思います。感覚に従った結果、ロックになる人もいれば、現代音楽になる人もあると思います。自分が望まない作品になってしまう場合もあります。

それを受け入れるか、発展させるかは個人の性格によるところです。

独自論を作れるタイプとそうでないタイプがおられると思います。

 

もしも、普段から寝食忘れてのめり込める存在があれば、それはあなたの独自論に関わるものだと思いますので、大切にしていただきたいなと感じます。

 

犯罪は表現か

独自論による独自欲求の究極の発現が、社会秩序を乱す行為です。

当の本人には信念と自覚があり、それを叶えたい強い欲求と行動力があります。

それらの行為は社会的には「表現」などと認められることはないので、表現行為として成立しない事実を与えられてしまうただの犯罪行為です。

そうした独善的自由を制御するために、理論があり、常識があり、伝統があります。

それゆえに独自論を認可しない社会組織である方が安全です。

何百年も経てば、文化としてそれを表現と考える人があるかもしれませんが、そこを賛美し、独自論の体現こそ優先される、という主張を私はしたいとは思いません。

それは私の気質です。

生命を脅かす独自論的欲望の社会的害悪となる行為の発現については断固反対です。

 

 

<さらに具体的詳細>

不定調性論の方法論的展開その1

不定調性論の方法論的展開その2

用語/概念紹介記事目次一覧

動画シリーズでも概略がつかめます。

 

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