2017-12-02→2019-10-10更新
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不定調性論における、ブルーノートの活用は反応領域という考え方からスタートできます。
<不定調性論用語/概念紹介18>反応領域で発生音をコントロールする★★★★★
またはブルースにおける平行ハーモニーを根拠に生み出すこともできます。
西洋音楽に対等する原初ブルース音楽の芸術性〜不定調性論全編解説28(動画解説・補足)
などをご参考に。
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”音楽理論は自然科学と接する場面もあるが、理論を提唱する人の感じる音響のイメージをシステム化したもの以外ではない。"
『ブルーノートと調性』
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これは92年の言葉です。何気ない一文のように見えますが、現代において、不定調性論のような個人の方法論の具現化が可能になったのも、こうした指摘を展開した結果です。"自分の方法論など、他者にとって何の意味もない"という見方もできますが、これを突き詰めるとその先にもっと面白い価値観が待ってるんです。「自分というのは面白い」ということを理論学習の先に知るんです。「人間は理論より自在な何らかの範疇を持っている」んです。カオス理論を制御でもするような何か別の仕組みを。別の判断基準を。音楽理論はそれを極力単純化したものに過ぎません。
「私は正しくて、君は間違っている」という立場が生まれるのは、「個人の音響のイメージ」が一人一人違うからだ、ということになり、違いが出るのは当たり前で、それを議論するのは意味がない、ということになります。
これはある意味でタブーなのかもしれません。教育システムへの反乱ですからね。
社会学習と並行していち早く自分追求をしましょう、と当ブログでも訴え続けています。
ブルーノートと調性 インプロヴィゼーションと作曲のための基礎理論(CD付)
「音楽には伝統的な価値を置かねばならない」と反論なさるかもしれませんが、その"伝統的価値"に頼ることをやめる、というような人が、一定数常に現れ続けることはとても大切であると思います。新しいものはそこから生み出されます。
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想定された世界を提示すること
"ブル調"(とあえて呼ばせてください)のポイントはいくつかあるのですが、まず下方領域を想定し、それに基づいて結論を出した、という実績です。
当時は「そんなもの存在しない」という批判がトレンドでした。
上方倍音だって本来非常に複雑な集合として存在します。現代ならそれらをEQで変調しながら様々な音を作ることができます。削ったり、低次倍音より、高次倍音を重要視することもできます(不定調性論でいうところの『高音優先』)。
こうした独自的システムで存在していたのは、それまでリディアン・クロマチック・コンセプトしかなかったわけです。個人のイメージから一貫した自分論を展開することは大変難しいです。世界は矛盾(我々がまだ理解できていないだけ)で構成されているからですね。
相対性理論だって反証がなくなることはありません。
いろいろな見方をすれば異なる意見が出るのは当たり前です。批判はあってよいと思います。
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V7-Iを前提にした想定世界
p44「この上方倍音列の領域は、本来はIとV(Iに最も強い自然倍音としての帰属性を持つ音程)による音的な世界である。」前提①(前提①はブログ主が便宜上付けたもの)
としています。
「ブル調」は機能和声論の大前提V7-Iのみを用いる、という形態を持っています。これが前提とされることをよく理解して進んでください。
これがなければ同書の下方倍音列世界はこの本で想定できないからです。
不定調性論は、機能和声論も一旦フラットにしますので、同著書の「本来はIとV(Iに最も強い自然倍音としての帰属性を持つ音程)による音的な世界である。」という前提も疑います。
これは個人の信念の置き所の違いだけで、皆さんは皆さんで設定を考えてください。
ここですでに意見がぶつかることでしょう笑。
上方と下方を三和音として作る想定世界
そして基音cの上方にC△、下方にFmというトライアドを想定する、としています。
これも第七倍音は近似値であり、除く、という信念を優先しています。
不定調性論では、cから数理で生成できるc-g-cの2-4倍音で現れるc-gの完全五度、g-cの完全四度を平等に扱うために、8倍音まで均等に活用します。「自然倍音」としてではなく、数理としてです。結果、
c-e-g(完全五度領域)
g-b♭-c(完全四度領域)
を全て近似値として用います(不定調性論)。
本来音はすべて近似である、と考えるわけですね。「ブル調」が排除するところを補うことで、微分音的世界とか、民族音楽的世界を視野に入れようとしています。
この辺が「理論を提唱する人の感じる音響のイメージ」をまず明確化する、ということに繋がります。
「ブル調」に戻ります。
そして基音のcの上方にはC△を「作り」、下方にはFmを「作る」としています。
決定的なシステムの構築ですね。これにより画期的な世界観を生み出した、と思います。この「作る」を、自然が作る、という意味ではなく、「理論を提唱する人の感じる音響のイメージ」として「創る」ということを同時に理解してください。
そして学ぶ人は、それを了承できる人であれば、問題なくこの世界を理解できます。当然それを「創らない」人は了承できないでしょうから、"自分が了承できる世界"を自分で何とかしてください。
ここで納得できない人は、自分のシステムを作ったほうが良いと思います。
このとき機能和声のivを導入したとき、この想定世界では、上方にIV△、下方にVIIbmを作る、ということになります。
そしてV→Iが成り立つのですから、例えばキーCにおいてなら、G△→C△はgの下方のCmが誘発したcに帰着しているという考えを行うことから、Fの出現によって想定したVIIbmは基音viibを「誘発する」という発想になってしかるべきです。
そう考えないと、なんで下方のVIIbmは基音のviibを「誘発」するんだろう、が理解できません。なぜなら「F△があるなら、基音cの下方のFmが誘発する」「基音gの下方のCmが基音cを誘発する」という表現がないからです。そして基音cがgを創り出すなら、gもdを創り出しているはずです。ここで混乱する理由は、最初の前提①がある事と、「理論を提唱する人の感じる音響のイメージ」をごっちゃにしているからです。
しかも前提①は、ある程度の音楽人にとって当たり前のことなので、上記の、Cmがcを誘発するのかしないのか、という問題点などはスルーされてしまうことでしょう。
機能和声論で絶対としている前提が「ブル調」でも前提として用いられている、ということを認識しましょう(不定調性論ではそれをしません、全てなかったことにしてから方法論構成をリスタートします)。これは絶対的法則ではなく「理論を提唱する人の感じる音響のイメージ」である、ということも理解しましょう。そうすれば悩むことは無くなります。あとは、その考えに共感する人が、その方法論を理解しようと試みればいいだけです。
これが一番議論をされてしまうところでしょうが、それを容認できるようにしたのが不定調性論における「反応領域」という考え方です。
これについては今は省きますね。
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そしてここからが独自の想定世界
拡大したら読めますか??
まずこの図が理解できないと、ブル調は1%も分かりません。
(「ブル調」で直接言及していない点も書いてありますが、こう考えることでこの表は『閉じた表』になり、最終的なブル調世界観を導き出せます。)
ここには前書「ベースラインブック」から繋がる低音進行のアイディアが盛り込まれています。
ここでは新たに
IIb→I
という半音下行進行も、解決力のある機能和声進行の前提として先の前提①の応用編として用いられています。
またパッシングディミニッシュが用いられています。これがいったいどこから来たのか、というと、「ブル調」はあくまで機能和声進行V-Iのみを前提として認める、というスタンスが拡張され、進行を補完するためにこれらの方法論はこれまでのベースラインの慣習として用いられてきたので、ここでも流用されている、という理解になるわけです。
この辺が多分理解の好みが分かれるところでしょう。
子供にどこまで自由を与えるかが父親によって差があるのと同じです。
IV-Iもアーメン進行などで、慣習として認められているではないか、という意見も少し違います。前提①はあくまでV-Iのみを認める、としただけです。IV-Iは認められていません。同様にこの図で用いられているのもV-Iのみ(IIb-Iを含む)に関する方法だけです。
この辺の「理論を提唱する人の感じる音響のイメージ」と前提となる部分の範囲をしっかりと押さえないと、この図が理解できないでしょう。というかその人の考えていることが理解できません。もしあなたが、自分が容認できる範囲しか理解できなかったら、どうやって他者との違いを容認できるでしょう。
不定調性論では、この図の外側にまで範囲を広げ、「そう考えない人全てのそれぞれの考えによって自分の方法論を作れるように」という理由から
"反応領域"
という考え方で、たとえば、先の図のIIIbはなぜVIbを想定しないのか、VIIbmやIIIbmは使うけど、なぜIV-IでIV-IVm-Iは用いないのか、という疑問を解決できるようにしました。
同書での下方の複調性、というのは、このようにしてモデル化されるわけです。
IV-Iというものが
解決しているように心が感じるのは、
その裏で、
VIIb-IV
IIIb-VIIb
が複数同時に解決しているからだ、という発想で理解するわけです。
これは画期的でした笑。そんなこと考えもつきませんでした。
そしてこれらの発生音に基づいて
ブルーノートスケールが複層的な音の集合体として現れる、と指摘したわけです。
もう目が眩みましたね。
(しかしこの発想はブル調的過ぎるので拙論では一切用いていません。これを用いると前提範囲まで全て従ったしまいただの流用になるからです。流用になれば、いずれ自分のもともとの感性が拡張したときこの方法論が衝突します。独伊方法論は常に自分の感性が求めるものを見極めるのがとても難しいです。)
この複層状態は、縦にいくつものコードスケールが列をなしていて、それらを重合させると、ブルーノートスケールが現れるではないか、という指摘です。
そしてこれらの発生音を主観結合音によって証拠づけたわけです。画期的でした。
未だにほとんど理解されていないことが不遇です。それが苗か理解できませんでしたが、私自身「方法論を作ることにニーズはない」ということを不定調性論を作ったことで納得しました笑。
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コステールの親和性について
コステールの親和性のポイントは親和性の換算をすべて1という同率にしたことがどうなのか、という点です。
つまり親和性は8度、5度、4度、半音をすべて等しい価値1で計算する、という点です。
cにとってcとgとf、d♭とbが等しい価値を持つ、となります。まあこれについてどう解釈するかだけなのですが、もし時間のある方は、たとえば8度を4、5度を3、4度を2、半音1として色々表を作ってみると自分なりの価値観が反映された表を作ることができるでしょう。
不定調性論では、例えばこのやり方なら、だれがどの数値をどんなふうに設けてもいいようにしました。それで自分自身の価値が反映された音構造が理解できるからです。
(が、親和の種類が限定されますのでコステールの番号親和的手法も拙論は用いていません。)
ある意味ではコステールも遡ってシェーンベルクも「こうあるべき」と唱えた全ての音楽方法論が、理論を提唱する人の感じる音響のイメージ」である、というところで解決してしまうんです。音楽理論神話の半分が崩れ去ったわけです。
またブル調が使用スケールを一般的に存在が確立されているダイアトニックスケール、ジャズモードなどに絞っている点も、機能和声論を前提としているからです。
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近似性について
「ブル調」では、
たとえば
Dドリアン≒Dメロディックマイナー
という近似を提示しています。
あとはあなたがそれを受け入れるか、受け入れないか、ということです。これもスルーすると、どんどん理論書のままを受け入れてしまうので、実際自分の耳にはどうなのかを確認してください。これは抽象性がどの位の程度でその人にあるかを探る基準になるでしょう。
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DmにおいてDドリアンを弾いたときとDメロディックマイナーを弾いたとき、音楽性の上でそれらのフレーズはほぼ同等である、と思えるかどうかをこの段階で吟味しておかないといけません。最終的に「ブル調」はかなりの包含性を活用していきますので、最後の最後の段階で「むむむ、この響き、いいのか??」ってもしあなたが思ったら、それは近似性のどこかで筆者と違う意見を持つべきところをスルーしていた、となります。
そしてこの近似性の性質に同調できないと、
IIm7=IV
にも同調できません。
一番最初に
IV→I
を作るのに大立ち回りを演じました。ではそれらを応用し、
IIm7→I
はどういう解釈になるのか、は、単品で考えるのはなかなか理解し難いでしょう。
例えば、
Lovin' youのような
IVM7-IIIm7-IIm7-I
に代表されるダイアトニック進行です。
IIm7は当然メジャーコードではありません。IIm7=Dm7とすると、基音はaであり、これを最初のような考え方に導入すると、
aは上方にA△を生み、下方にDmを生む。
はてDmはどうIに進むのか、はてA△は関係ないのかな????
と全く理解できなくなります。
そこで機能和声の論理体系を用いるわけです。
IIm7≒IV
とすれば、この進行はIV-Iに置き換えられます。これで最初の複調性が活用できます。
あとはこの代理を容認できるか?です。不定調性論ではあえてこれを容認しない場合どうなるか、ということも範囲に納められるように作りました。なぜならIIm7とIVでは使用感がまるで違う(と私が思っている)からです。
同書ではこれらの近似性の前提の癖をちゃんと把握しないと後半のsus4の代理がちんぷんかんぷんになります。
ここでは、さらに
IIm7≒IV/V
にまでその近似性が拡張されます。そしてこの一見前提①を無視するような解決問題を収めるために、「複調性」を用いるわけです。
つまり音階によって解決させるわけです。本来
IV/V-I
は複雑な処理を想定しなければなりませんが、それをせず、最初に作り出した複調的な音階=ブルーノートスケールによって解決させることによって、その和音的解決の論理性を代弁させよう、というわけです。
こんなこと誰が当時理解できたでしょうか。
でもこうしないとIV/V→Iは理解できません。低音にvがあり、上部はIV、解決できるのか、出来ないのか、低音にvがあれば解決できるなら、なぜIV→Iは解決感を持つのか??とか、「理論を提唱する人の感じる音響のイメージ」もこの問題を解く中でかなり研ぎ澄まされたであろうことが想像できます。
コルトレーンは、「旋律でコード進行を作る」という"シーツオブサウンド"の概念を完成させました。単音で和音を表現する試みです。それが「Giant Steps」の分解コード的な進行アイディアの最終奥義だったわけです。
そしてこの「ブル調」は、
ブルーノートのカッコよさは
複調的な解決感を具現化した響きである
という思想(?)を発明したわけです。
なんであんなハズレた音がカッコイイとかんじてしまうのか、というその感性に理解の道しるべを与えたわけです。
そうか、ブルーノートフレーズがカッコいいって思っちゃうのは、オレは知らずしらずに複調性感覚という感覚をブルーノートのカッコよさって言う理解で身につけたってことか!!!
という理解だ、ということなんですね。不定調性論的にいえば、これは
理解感の代理。
です。
チョコレートがおいしい、って言う理解をしているのは、おそらくチョコレートの何らかの美味しさを、舌の何らかの機能と、脳に送られる何らかの伝達機能が生み出しているのですが、その仕組みは分からないけど、チョコは旨い!って理解できているのだから、それでいいじゃないか!!それを大事にしようぜ!!みたいな把握の仕方です。
実際これが感じられない人はチョコを食べないし、ブルーノートに何も感じない人は音楽をやりません。感じる人は感じる、感じない人は感じない。これもまた「人の感じる音響のイメージ」です。きりがないですね。
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現れる音階集合を活用していくためには、ブル調独自の近似性のシステムへの理解と共感が条件である、と言えます。
もちろん、ドリアン=メロディックマイナーは認められない、という人は、そこをまた別途分けた表をご自身で作れば良い、というだけです。その分使用可能スケールが増え煩雑になる事を覚悟してください。これらの交換性は、収録CDのインプロヴィゼーション時の活用などで差異が出てきます。でもこれは「合わない」のではなく、あなたにとってそれが適切かどうか、スケール概念を決めるところからじっくり自分論を創造していかないといけない、という意味です。
ブル調は、上方のVsus4→Iと下方のIV-Iが同一タイプのスケール表が出来上がるのだとおもいます。
これは近似性や、代理性に一貫したスタイルが存在するからです。
Vsus4=IV/V→I
は前提①により、ブルーノートスケールを用いない分、様々な複調的なモード使用が可能であり、
IV→I
においては、複調的なモード使用によって解決感を生み出すため、ブルーノートスケールでその解決感を出すことができる
となります。でも
二つの表はディグリーが違うだけで全く同じ種類が現れるんです。
つまり
Iブルーノートスケールは複調性音集合の上方への抽出。
上方のsus4からの解決で生まれる複調性音集合はモードの集合として用いる、
つまり
「なぜ一つのコードでいくつものモード使用が可能なのか」
ということをブルーノートスケールの存在と、複調性の存在から導き出してしまっているんです。
ちょっと神降臨かよ、的な感じになりません??
ジャズのいろんな側面の概念を一つにまとめて、一冊で構築してるんです。
ブルーノートと調性 インプロヴィゼーションと作曲のための基礎理論(CD付)
そんな本に影響をされて、私は「ブル調」が設けている制限の部分に注目し、そこをさらに解放したら、もう音楽はほとんどあらゆる部分が体系化できるんじゃね??
と考えました。
なお上記の音階論や複調論は機能和声論を前提としない拙論には、音階集合、調そのものを前提としないので残念ながら一切用いていません。その代わり上下の領域の想定というアイディアは全くもって自分のイメージと合致したため、活用して展開しました。
勝手な妄想になっていたら、ご指摘ください。。吟味して責任をもって直します。
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