音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

不定調性論:非論理学のススメ〜芸術表現を構成する"矛盾への理解"について

2019.5.5⇨2020.3.8更新

矛盾への理解を”音楽表現の面で柔軟に理解すること"を推し進めた2019年の記事を更新いたしました。

パラドクスや論理学についての批判ではなく、現実的に真偽を満たす一般の話題について、アーティストがどのようにそれを越えていくのかについて理解を深めよう、という記事です。

 

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皆さんは「矛盾」の話を知っていますね。

どんな盾でも突き破る矛

どんな矛にも突き破れない盾

がある、という『韓非子』の一篇にある話。

 

この話の問題は、この商人がだいぶ大雑把な説明をしてしまった点と、非論理的な点=矛盾、を問い詰められて答えられなかったこの商人のトーク力の無さが問題でした。

 

どう答えればよかったかというと、

一級の矛の達人が扱えばどんな盾でも突き破る矛

一級の盾の達人が扱えばどんな矛にも突き破られない盾

である、と言えばよかったのです。そしてかつ、

一級の矛の達人と、盾の達人がたとえ同等の実力があったとしても、個人差は必ずありますし、ちょっとタイミングがずれたり、意識がずれたら、その呼吸のずれた方の矛あるいは盾が破られる、のが対峙対戦の道理です。

 

ちょっとでもポイントがずれればカオス理論に則って、場合によっては矛が勝つし、場合によっては盾が勝つ。後は扱う者の修行の度合いである。もちろん場合によっては両方が跳ね返ることもあれば、両方破壊されることもある。だからとりあえず負ける可能性が他の矛や盾に比べて極めて少ない、この矛と盾を持ってひたすら日々修行に励むべきだ。

と。付け加えるのが商才というものです。

そう、カオス理論はまだ当時存在していませんでしたね。

 

ルパン三世「グッバイ・パートナー」では、「絶対に斬れないクリスタル」が登場し、五右衛門は見事それをぶった切ります。コンピューターが絶対砕けな好物だと計算を割り出しても、達人の腕を持ってすれば「斬れることもある」としたわけです。これは寓話です。

 

カオス理論(バタフライエフェクト)は、ほんのちょっとした起点の差が全く違う結果を生むことが科学的に証明されています。

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ちょっとでも違う位置から振り子を離せば全く違う動きをします。この予測は困難だと言われます。

だから絶対に突き破れない盾は、商品の名目上、「まあだいたいの攻撃は防ぐが、分子の隙間を狙うことができる神の矛の使い手がいればおそらく突きやぶれる」ものなのです。

となると、「矛盾」というのはごくごく表面上の物理常識についての曖昧なたとえにすぎません。

 

どちらも同時に存在する、という量子力学的思考が現実にも必要になってきます。

というか、量子力学の事例があることで、人は矛盾を理解し安くなった、と思います。

 

また、命題という範疇があります。

物事を真か偽かで判断する、という話です。

芸術表現、芸術活動とは、この二つの範囲を超えることができます。命題を破壊することもまた表現活動の醍醐味でもあり、社会を惑わすことでもあります。インフルエンサーは常に命題を壊していれば注目されます。壊しすぎて「壊した命題」しか何も生み出せなくなる人もいるほど、これは「快」です。

 

 

よくありそうな命題を考えてみましょう。

「日本一高い山は富士山である」

これを絶対的に真と捉えることで論理学は成り立っています。

そうしないと始まりません。しかしもし富士山が爆発したらわかりません。また1億年後はわかりません。また日本が他の国を占領したらわかりません。この「真」は短い期間でのみ暫定的に成り立っているものです。

そのように想像してしまうのがクリエイターの性です。

そしてクリエイターにすれば、映画の中で「富士山よりも高い山を作ろう」と思って脚本を作ることができます。日本人の倫理観として、そういうことはやめよう、という人はいるかもしれませんが、この真を真と思わぬ人の出現を完全に防ぐことはできません。モラルを守らなければならない、という生物学的必要性はないからです。また僕が君への愛を積み上げたら富士山よりも高い、と表現することもできます。

これっぽいことを言われたことがある人ならわかるでしょうが、普段のようには笑えません。それが愛の力です。それが命題を超えているからこそ、人は数式にせず詩や音楽にするんです。芸術表現が存在しないことはありません。日常生活に不必要、ということも絶対にありません。人が人である限り。

 

「人は皆死ぬ」

この命題が現状は真とされるがゆえに人は心の中で不死身を作り出し、映像表現に表出させ、不死身を味わってきました。真実は人をそうでない方向に妄想させます。

表現者は真とされるものに異を唱えない限り新たな表現物を作ることができません。

「異を唱えると人に注目される」という快感に逆に呑まれてしまう人もいます。

 

同じようなものに「定理」があります。これも絶対的なものです。

三平方の定理非ユークリッド幾何で成り立たないのは有名ですが、私たちの頭の中もいわば、非ユークリッド空間と言えます。時間も空間もめちゃくちゃに自在です。ともすれば妄想が記憶になっていることもあり、多次元宇宙的です。

幾何的な面だけでいえばそれを具現化したのがマウリッツ・エッシャーでしょう。こうした定理を「絶対として諦めずに考えることができた人」だけがアートのその先に行ける、と信じます。ただし自然法則や自然の真の有り様に敬意を持っていないと、傲慢さを生み、結果として人を苦しめることになる("自然ではないもの"が生まれる)のではないか、と思います。

 

 

「1+1=2」

これはどうでしょう。りんご一個とみかん一個は「二個」でもあり、

でもあります。「りんごなどが2個あるよ」というのはどこか変な表現です。

「りんごとみかんが一個ずつあるよ」と言って「え?合わせて2個だろ?」とかツっ込んだりしません。これはこれでセコい冷酷さが面白いけど笑。

1足す1が「2」に完結しない、という状況があることを知っています。テストでは、2と答える人と、そうではない答えを出す人でその人のポテンシャルを判断すべきであり、2のみが正答、とするから人を裁く人間になってしまうのだと感じます。合理主義をどこまで採用するか、という課題に教師の方々も現在は立ち向かっておられると思います。

 


「目の前の椅子はいきなり飛び上がることはない」

まあ、普通ありえません。ポルターガイストでもなければ。

でも私たちは震災でそれを経験しています。

それらがありえない、と断言することができない限り、それらは当然真ではありません。

 

 

「別れた彼女はきっと僕の元に戻ってくる」

そんなことがあり得るわけがありません。これは偽です笑。

でもこの偽を本気で信じることができなければ、backnumberの「はなびら」のような曲を作ることができるでしょうか。

建前は分かるけど、気持ちの上では真か偽かだけで考えて音楽表現なんかできません。真偽を越えてどこまで妄想することができるか、どこまで偽を具現化できるか。

 

といってもちろん非現実的なことを優先せよ、とか、非科学的なことを自分が良いと思うから実践せよ、とか他者に強制するのはあまりゾっとしません。

反社会的な欲望を持つ人が、早い時期にそれを芸術表現に具現化できたらいいな、とは考えています。

だから不定調性論を礼賛することも誰かに薦めることも自分には気が引けます。

自分のやり方を作った事例、としてこれだけ変わったことをする奴がいるのだから、あなたも自分で自分の生き方を作ってほしい、という事例として観ていただければ幸いです。実際に私はこれを自分に認めることで、初めて作品に自分を投影することができるようになりました。自分の居場所を見つけたんです。まるで家を見つけたような安心感です。なんと例えればよいでしょうか。

 

 

人に「心」がある限り、意識の中で、真を偽に、偽を真に変えることができます。そしてそれを表現できます。またそれを求めている同じ人に共感を与えることができます。現実世界でこれを実践すると反社会的行為になりますが、詩を詠んだり、音楽にしたり、芝居にしたり、絵にすることは許されています。

アーティストは、矛盾を越えていけるんです。

 

「私は嘘つきである」

これが真であれば、この私は真実を言っているので、私=嘘つきではない、となり矛盾する、という発想があります。

これについて音楽家から一言言わせていただきましょう。

 

僕は普段すごく嘘をついていた、でも今日、彼女が僕に向かって微笑んでくれたから、僕は嘘つきをやめたんだ。でも僕はそんな日和見な自分が嫌いだ。

今日だけは懺悔する。悪魔が一瞬だけ誠実さを欲しただけなんだ。僕は嘘つきなんだ。認めないけど。

 

という意味だ、と言えるあなたは表現者かもwww

 

このように書くと、意味は伝わらなくても、この子の青春が、葛藤が、思春期がかいま見えます。この人の「嘘つき」とは、

ある条件のもとで発せられる心身の熱病である、例えば彼女に無視された朝は、僕は終日嘘をつく

とかなんです。人は複雑。嘘をつかない時と、嘘をつくときがあります。

なぜかって?

それは綺麗な嘘は人を傷つけるどころか、立ち直らせたりした体験を人はするからです。 そして人がついた嘘がわかっても「俺、この人にこんなに気を使わせちまって・・・苦しいぜ、よしこの人が二度と嘘をつかなくていいように頑張ろう!!」

とか思う、思わせた経験は誰でもあります。だから人は"嘘を肯定できる"んです。それが外れる時もあり、当たる時もある。真と偽が両方存在しています。それが人生のほろ苦いところじゃない?それが分からなかったらやっぱり一人前っぽくないですよね、まあ自分が大人になりきれてないけど。

 

また別の話、

昨日、僕の家の前にキリギリスがいた。僕がキリギリスに、そこで何をしているの?と聞くと、キリギリスは、じゃあ君はそこで何をしているんだい、と聞いてきた。だから僕は答えた、そんなの君には関係ない、僕が知りたいのは君がそこで何をしているかなんだ、とまた問い掛けると、キリギリスは、君と同じだよ、と答えた。

 

この文章に意味や込めたい意図は何もありません。

でもこれは歌になります。「キリギリス」という題名でしょう。歌になると、世の不条理を歌っているように聞こえさせることもできるでしょう。歌詞分析記事も書けそう。これが不定調性論でいう「音楽的なクオリア」です。意味ではなく、印象を相手に与えることで、聴き手は自分に内在する何らかの経験則から、印象を探り当て、勝手に意味を作り上げてくれます。この辺はユーミン研究で書きましたね。

 

 

まとめましょう。

・矛盾の話は見方を深めれば矛盾などしていなかった。

・真を偽に変えることでアートが生まれる。

・偽を真に変える渇望と勇気を持てる分野で自分を築こう

・「不可能だから無理」と悩むのではなく、「不可能でない、と解釈できる方法はないか?」で悩め。

だんだんこのブログでいつも述べている内容に近づいていきますね?

 

シュレジンガーの猫の生死がわからないなら、次やる実験では、窓のついた箱を作ればいい。

・お前は絶対に売れない、と言われたら、じゃあどうやって売れるかを考えればいい。本当に売れたいなら。

・締め切りが明日だったら、締め切りを伸ばせるかどうか勇気を持って交渉すればいい。そして締め切りを待ってくれたら、その人に菓子折りを持って後日お礼に行こう。それが締め切りを守ることの大切さを知る者の仕業。

 

無理を上手に通すことが道理」です。理不尽を表沙汰にするから信頼がなくなるんです。無理を恥じて、嘘を恥じてしまいすぎるのはケツが青いんです。ああ、自分のことだね。

 

音楽理論を知らない人たちが、サンプリングでヒップホップを作って世界一の音楽文化を作りました。彼らは「音楽理論を知らないから俺達は音楽をやらない」と諦めず彼等は彼らの努力や研鑽、アイディアでその手段を見つけただけです。

そしてそれらの方法はその当時どんな教科書にも書いていないものでした。

彼らには何があったと思います?きっと「勇気」じゃないかな。

 

こうした思考を「非論理学」とでも呼ぶなら、それは芸術家の学問だと思います。

でも会社員にだってこうした考え方で難局を切り抜けることが出来るかもしれません。非論理的な空間を体感し、具現化し、あなたもartを楽しみましょう。

 

命題;真ならば偽である。

裏;偽ならば真である。

対偶;真でないならば、偽でない。

という風に想像して世界を表現することを「芸術」というのかな、と感じています。

真=偽=心=芸術

みたいな独特の融和が心で起きる時ってありませんか?

そういう時に涙がこぼれます。理屈を超えるものを人は感動で理解できます。

そういうところを感じて、考えて、音楽をできればいいなあ、と思うのです。

 

そして、当然これは私が納得できる理屈にすぎません。

そしてこれを具体的に方法論化したのが、不定調性論的思考だと思っています。

 

www.terrax.site

 

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参考

www.terrax.site

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