音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

転和音から線型/非線型和音へ〜クオリアが引き起こす和音連鎖を数理的に紐付ける

 

前回の話をさらに抽象化、より現場での即興作業が落とし込めるタイプの思考に向かっていきます。

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<再掲>不定調性論では12音の関連はこうなっています(12音連関表)。

前回、これらへの動きを記号化しました。

cの+s化はgである、などと言えます。

 

ここからさまざまな音の変化の組織性、パターン、組み合わせの可能性について前回考えました。

例えば、cが+h化するとc#、-h化するとbに変化しますが、

c,c#,bという集合を扱う音楽家がcを中心と認識している場合、

この和音はcの±h化した和音の集合体などと言えます。

 

この時、c#に向かう矢印は直線で、図上ではd#、a#の領域も経由して通るようにイメージできますが、このc→c#という変化は、

c+mQ→c#(mQは了承済みとする)

という式が成り立ちますから、経由地は関係ありません。経由地を経過する場合には、

こう書くものとします。飛行機の発着のように、東京から北海道に飛ぶのに、途中の経由地は飛行機が降りなければ経由とは言わない、という感覚に似ています。

逆に電車の駅の乗り換えのようにc駅からa#駅で乗り換えc#に到着する経路を用いる、といった考え方がこの経由を利用したものです。

 

ここでmQは「音楽的なクオリア」です。

数学では、このmQ的な存在の正体ははっきりしていたりします。

しかし音楽において

[なぜその作曲家はcをc#にしたか]

の真の答えはわかりません。その変化を観察できるだけです。

逆にcを1/15して4オクターブ上げたのだ、という作業や動機が明確であれば、

mQ=4/15という計算式であることがわかります。

作家はここでcの振動数に対して4/15をかけて割り出す、という操作を了承している、ということになります。逆に「了承はしない」という場合も成り立ちますがそれはまた別の機会に。

 

音楽の場合、そのときなぜそれを導いたか、の具体的な計算式は明らかではありません。

それを選んだ理由が機能和声論の法則に伴うもの、という理由がたとえあっても、作者はその変化を了承しなければそれは表現物になりませんし、本当にそういう理由であったかどうかも、証明ができません。

 

Dm7 G7 CM7

という流れは、あなたの意思ではなく「教科書の例示」としての法則であり、いくらそれが「理論的に正しい」といっても、あなたのmQがそれを容認しなければ、あなたは今作っている楽曲でそれを使うことはありません。

なぜそう判断したかの理由は不明瞭ですし、どういう計算が脳の中で行われているか本来我々はわかりません。

つまり数式にできない処理です。

 

この「了承」の正体は曖昧で矛盾に満ち、表現物が表現物たる所以でもあります。

その了承欲求は巧みに狡猾に自己利益に基づき理不尽に変化します。

「普通の人が了承しないことを俺は了承する」という感情になったりすれば、これを何らかの数式で考えるよりもmQという処理全般として考えた方が話は簡単です。

 

難しい数学的処理を根拠にDm7をG7にしても、サイコロを振っても、適当に決めても、最後は作者が了承するかどうかにかかっています。この了承処理全般をmQに含めます。

ある数がある数に変わった変数があまりに複雑なので数式にせずmQとするわけです。

 

またこの連関表自体、グラフや、行列的な表記も可能です。

これによれば、cが0,0のとき

C△は

こんなふうに数値で指定できます。

こうなるとあらゆる数学が応用できますので、得意な方はいろいろやってみてください。拙論では、数学的な絶対性ではなく、音楽的なクオリアでより簡素に複雑な和音を導いてみたいと思います。

 

まずcを右に三つ。下に一つ移動してdをピックアップします。cの-wh化です。これは思い付きで書いています。

 

次にgも同様に-wh処理しようと思いましたが、これではD△ができるだけなので(下左図)、下右図のように逆に対称を作り、+wh化しました。

 

そしてeはcとgの3横への動きを合計して6動かして、上下に分割し、f,d#を出現させたとします(エネルギーの合成としては変な計算ですがわざと)。

 

この時和音連鎖は、

C△→BdimM3のような変化をしています。

この変化をもたらすなんらかの数学的な解があるかもしれません。

しかし脳は、数式ではなく、心象の瞬間的な判断として、"何となくそれをよしとする想い"というmQを意識に発令して、この和音変化を「良し」としました。

こうした直線的な処理による一つの「解」を定める"変化した和音"を「線型和音」とします。数学の「線形」と似ていますが非なるものです。

 

和音の線形変換?

素敵過ぎな記事発見。

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ある一つの和音が一つのベクトルや行列的存在である時、それらになんらかの変換のための処理がなされ次の和音が現れた、と考えてみてくだい。

この処理式については拙論では考えないわけです。

和音の連鎖において即興的にこれを行う際には、こうした空間変換による概念の変化が和音の連鎖として結果として置き換えられる、と考えることができます。

 

例えば、C△をそれぞれに上の緑のマスのように拡張すると、DmM7omit5が現れます。

C→DmM7に隠れた関係性を見つけた、と表明できるかもしれません。

 

さらに直線ではなくて、

このように領域で括る場合、そのテリトリーの中に入った、a#,f,c#,g#などどっぷり浸かった音と、d,d#,f#のようにうっすらと関わる音も関連を分けて考えることができます。12音でそれ以外の音はこの集合の外、に位置付けられる、などのルールを考えることができます。

 

またこのような周期的な構造を使って、C△とF#△を関連づけることもできます。

 

こうした幾何構造化は、例えば、G7(テンション)⇨C△(テンション)といった流れは下記のようなブロック構造の変化であるなどということができる、という発想など展開が時代に生まれます。

あとはそれを用いる人間の共感覚的知覚の構造がどのような感覚を持っているかに委ねられると思います。

 

このように線型ではない集合の構成と移動によって生まれる和音を非線型和音としましょう。

 

空間の移動と歪曲、未知の変数/式が起こす役割についてその変数の正体を考えず、数理的に最初に定めた12音連関表の中である変化の法則性を図示するだけで、音楽的なクオリアが起こす和音変化の法則性を数理的な変化の表現にすることができます。

これにより「適当」はなくなり、適当と思っているのは、人間の表面上の意識だけで、脳が作り出す「判断」には何らかの美意識があり、それは未知の法則性に支配されている、ということもできるでしょう。

この連関表を用いずとも適当に弾いた和音が連関表の中に落としこませることが可能なわけですから、適当という概念は、本人の申告や思い込みの中にのみ存在することになります。

だからこそ、自分がどのようなフォームを持って音を扱うかについて考えられることは、本人の音楽性を無用に曲解させないためにも必要だと感じます。

 

全くサラの状態で、その和音αからβに進むための公式を作るのは大変ですが、なんらかの12音の配置/数理モデルさえあれば、こうした半分数理的、半分未知の脳科学的な処理を可視化することができます。

 

行列、グラフ、幾何、関数に強い人は、そのスキルに応じて、数学的変化を和音の構成音に与え、次なる変化にどんな音集合がくるか、その法則を導きその法則と機能和声の関連と方法論の拡張をしてみると面白いと思います。数学の思わぬ著名な公式が、ドミナントモーションに関わっているかもしれませんよ?

 

さらにここから立体座標でさらに規則性、法則性を作り上げる、というアイディアが浮かぶと思います。

もしcに対してgが斜め上だ、と感じる音と方角の共感覚をお持ちの方は、その思考を活用して独自論的和声論をお作りになると、それがたとえ機能和声論と変わらないものになったとしても、あなたにとってgは斜め上だからそれをスライドさせて移動させて解決させることで、自分は納得してV-Iに感応し、それをよしと判断することができる、という誰の意志にも依存しない独自論ができることでしょう。

 

cにとってgは+s領域の音、という抽象的な表現にすることで機能和声の宗教観とは違う自分だけの方向感覚、感覚的知覚によって改めて自分に定着した音楽慣習と音存在の関係性を再定義してみてはいかがでしょうか?

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