音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

挨拶はなんで必要なの?社会的価値と個人的価値において。

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上記記事から派生した話です。

いつもの、自分で考え判断しよう、といういつもの話につながるので、無理に読まなくて良いです。

 

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挨拶をしなくても回せる仕事やシステムは確かにあります。

 

仕事の効率や、人間が自由である、ということまで考慮したら、挨拶するしないの判断など人の自由です。

 

なのに何故人は挨拶を半ば強要してくるのでしょう。

 

人は哺乳類で、群れて生活するために円滑に生きる本能/習性を有しています。

「挨拶してくれれば私が気持ちよく仕事できます!と信じ込んでる人が多い」から挨拶は哺乳類の規範になってる感はあります。

 

でも「私が気持ちいいから挨拶してください」とは言いません。

ここが言えないのがまだまだ社会が成熟していないところです。

言わずに済むように共通の感覚(ただの習性)、いわゆる"常識=強い者が威張る理由付け"にのし上げてきました。

 

だから本来は

「うちの会社でも挨拶してもらうのが習慣になっていて、挨拶などしなくても仕事はできますが、うちで仕事していただく上では、挨拶をどうぞなさっていただければ私としてはありがたいです。きっと他に行っても役立つだろうと私は信じています。だからどうかお願いします。私を安心させることになるちょっとしたその一言のために、あなたの人生の時間をお使いいただけませんか?給料は払います。お互いの人生の自由を分け合おうドゥフフ」

です。これがこじれて「今更いうほどのことではない」とか「親に教わらなかったのか?」とか言っちゃいます。

自分が哺乳類として「そう望んでいること」を素直に言えないのか。

それでは愛の告白すらろくにできないでしょう。

全裸にならないと正直さが出ないタイプ?

 

 

業務の種類によっては誰かが出社のたびに挨拶(玄関までお出迎えとか)などしない方が集中できる業務もあります。

 

断固挨拶をしない若者は、冷徹な若年学習/競争環境でタイムパフォーマンス向上を学んできたからとか、自分が自由に生きられることの実感として、自分の振る舞いを自分で考えた結果だと思うのです。

挨拶をした方が自分の仕事がうまくいく、と知るまでの自分なりの自己主張です。

 

彼と無言ですれ違うとき、彼は彼なりの挨拶をしているのです。

大人の想像力が欠如しているだけです。

盲目に挨拶をする洗脳された若者以上に「理由」「信念」があります。

 

挨拶をさせる、という意味をもう少しよく考えて、

かつ"自分はどうしてほしいと思っているか"を認めてみてはどうでしょうか。

そここそコミュニケーションしないと!

 

社会でよりよく生きてゆくため=人が社会に根ざしているという考え、と

人が生存していくため=人は地上に生えた一本の葦

の二つの極をごっちゃにして話さないようにしたいところです。挨拶は習性に根ざした習慣が、社会を円滑に回す潤滑剤になってその理由が絡み合っているところが面倒な存在になっている理由です。

 

自己啓発セミナーとかで、業績を上げたければ誰よりも大きな声で挨拶をしろ!という話があった、という話題で書いてみました。

 

挨拶に反応するのは人の本能であり、それが時折仕事のやりやすさを提供するだけで、急に仕事ができるようになるわけではありません。挨拶後に助けてくれる人は挨拶を気持ちいいと思った人だけです。

残りの稀少で"個性的"な潜在的有能人材からは見限られるかも?

果たして挨拶を受け入れてもらうことで出逢う人が、自分と意見が合う人かどうか、はわかりません。

 

自分のままに生き、自分に合う先輩に出会い指導されたければ、そんなセミナーなど受けず、常に実制作する瞬間を体感して自我を貫いてみてください。

 

やがてそれぞれの現場で挨拶がどれだけ大事かを肌で自分で学べるかもしれません。

逆にその自我を唯一評価してくれるいい先輩と意気投合して、自発的にその人だけには挨拶できるようになるかもしれません。

自分は自然さ、を求めてるからこういう甘い考えになっているのかもしれません(軍隊とかじゃダメよ、規律乱すと仲間や自分が死んじゃうから)。

自分から挨拶ができるようになってしまうと気分はいいです。本能と習性に従うのですから脳は悦びます。

結局自分が何を喜ぶかに徹してみる、が遠回りになるか近道になるか、人それぞれだという話です。

 

社会でニーズが作れない人は社会に不必要です(人は社会に属す=ビジネス論的)

人自体は、自分で畑を耕せれば一人で生きてゆけます(人は大地に生きる=哲学的)

二つがごっちゃになって、自分で畑を耕したこともないのに、自分は生きる価値がない、とか考えないでほしいです。

地球の上で人は自由ですが、社会において人の自由にさせるのは危険です。

より多くの同胞を保護し繁栄するために個人の自由を制限する必要があるのが社会という枠組みです。

 

できる人は〇〇してるは間違いないです。しかし、

できる人のもう半分は〇〇しない人ではないでしょうか。

 

不定調性論は、先の「人は大地に生きる存在」的な意義に重きが置かれています。

だから自由にやるし、聴き手も要りません。

でもそれでは社会では生きてゆけません。

 

縮こまらず自分の生き方をして頂きたいです。

それで得る後悔はそれなりに清々しいです。

自分よりレベルが高すぎる人はもちろん、自分と考えが違う人も寄ってきません。

だから出世とか大成功とかはできないかもしれませんが、何度も言いますが、日々清々しいです。それで退屈するなら社会に挑んでください。