音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

社会的価値と個人的価値〜私と仕事どっちが大事問題から贋作の価値問題

社会の価値には二種類の系統があるから上手く振り切って楽しもう、という話に繋がります。

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二種類の価値があると思います。

社会の中で経済を回すために大勢から認可される社会的価値と、自分自身がコントロールできる自分だけの個人的価値の2つです。

私はようやくちょこっと個人的価値で生きるようになりました。勝手に独自論を作って、勝手に配信しています。そのかわり社会には無用な人になりました。独自論は社会的価値のある比較基準にならないからです。

 

一方、ゴッホの作品の価値は社会的価値です。ゴッホの作品に価値を置くことで社会的美意識は維持されている、と言えます(逆に独自論は丁寧に無視してもらうことで一般論と社会的価値を保ちます)。

 

「自分にはゴッホの価値は必要ない」と云うことができるのが、個人的価値の見解です。これは決してゴッホの否定ではなく、自分自身の表明≒個人の感想というだけです。

 

それぞれの価値に意義があると思います。使い方を誤ると拗れますが、独自論的意義を見つけられれば、動画で紹介されるゴッホ研究の第一人者、圀府寺先生のように、贋作に抱いた感動から道を見つけ権威を勝ち得る、といったことも可能です。

 

 

その作品が贋作かどうかは社会的価値かどうかです。

その作品が自分に与える美意識は個人的価値です。これらはよくごっちゃになってわからなくなります。

社会的価値を発信する人は、社会的価値を証明できないといけません。

しかし動画を見ると、多くの専門家が個人的価値を持ち出し、自分が唱える価値こそが社会的価値である、と思われたくて必死です。そして泥沼になると社会は社会的価値自体を風刺することで、価値の本質を追求しようとする風潮を無力化します。

贋作であることを認めて展示した絵画の美術館は、こうした価値の本質が人を辟易させることを知っている学芸員がいるからこそ、そうした対応に踏み切ることができるのだと思います。

日本人は確かに五郎さんおっしゃる通り、価値の何たるかについてまだまだ迷信を抱いているように感じます。またそれも神道を重んじちゃう国民性なのかな??個人が社会に貢献しなければいけない…個人的価値を社会的価値に変えられる人間こそ、生きるべきだ…的社会です。だから「役に立たない」ことがすごく恥な社会です。価値のある自然に囲まれて人は生かされているという意識が強いんだと思います。砂漠や開拓地の国民性とは違います。

逆に 

人に認められるようになったら先行きに注意せよ、です。

変に自分が大きく自分が普段感じていた自分よりも偉くなった気がするからです。

 

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音楽でいえばレコード会社が発売する作品は"価値がある"と嘯くことで社会は成り立ちます。

動画作品は再生回数が回る作品/それを作る作家には価値がある、と決めることで経済は回ります。ヒット作を非難する人が出てくるのは「ヒットする作品は害悪である」と捉えるからです。ある意味そうですが、それは個人的価値の表明に過ぎないんです。それに賛同して排斥運動が起きた時、それはある種の社会的価値を持ちます。数打ってればどれか当たるだろう、と作品を送り出す行為に厄介さを感じているのが、ヒットを非難する人の潜在的不満なのでしょう。社会的価値欲しさに傲慢になる個人的価値はあるべきではない、という論理なのでしょう。

 

 

"価値がある"と言われると、そう聞こえてくるのが人の脳の特質です。「大ヒット上映中!」と言われれば安心できます。

「その映画はつまらない!」も個人的価値です。

社会的価値は個人的価値の熱意ある発信から生まれます。

無名の役者を使い、しょぼいプロモーションで、無い予算で必死に作った映画を日本人は見つけてプッシュされるとなぜか応援したくなる、と思います。島国根性でしょうか。

そういうことに対して喜びを得るのが脳の性質です。
だから実際観たらあんまり面白くない、ということもあります。
でも「これはこれでアリかも?」と認めたくなるのも脳の仕業です。脳はガッカリしたくないんです。

 

価値は無意識に捏造されます。

ファンも"再生回数を伸ばすために一日中リピートしている"という行動をします。「自分が信じた価値は間違いないはずだ」という個人的価値と社会的価値の方向性が見事に合致します。

 

動画に出てくる「贋作」の概念自体は日常のあらゆるところに潜んでいます。これをいちいち疑っていたら、社会では生きていけません。

その野菜ほんとに無農薬?本当に国産?この成分表本当?化粧で盛った?編集してる?演出してない?脚色してる?そのフォロワー数本当?その売り上げ枚数本当?そのランキング正しい?その受賞、出来レースじゃない?不定調性論本当に自分に価値ある?(自分に対して)...

 

まっとうにやっていると社会的価値は作れないから、傲慢になっても推し進めて価値を奪い取る必要があるんです。あとはその戦闘意欲があるかどうかです。ヒット曲を批判する人は結局戦闘意欲もなく、かつ戦闘力も低いんです。

策略を巡らせる&天才だけが著名になってゆきます。

著名人は経済的価値を作り出すので、一定期間は多少の悪事(?)すら容認されます。隠そうとする意図が知らず知らず働くからでしょう。

私が社会的価値を好きになれないのはその観点だけです。

でも世界はやったもん勝ちです。用心していないと一般の人はその理不尽に巻き込まれます。

 

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美意識についても二段階考えてみましょう。

最初、なんとなくいいな、と感じたまま全くその後その作品に触れる機会がなければその価値が自分の中でそこまで膨れ上がる事はありません(個人的価値)。

しかしコメントで自分と同じように良さを感じる人が多かったり、その作品がどんどんイイネされてる状況を見ることで、本当に価値があると感じてしまいます。承認欲求が満たされることで共感に拍車がかかります(社会的価値への迎合)。

 

社会的価値になってしまうと、それが失われると損をすると感じる人がその価値が維持されるように振る舞います。脚色が始まります(社会的価値の脚色)。

その価値に依存する人も出てきます。価値に群がり発信します(承認欲求)。その価値を発信しながら自分にセンスがあることを認知されたいのではないか、と(社会的価値への従属)。

 

”人は自分にメリットがないと他者を褒めない"

こうした社会的価値になる条件があると思います。

 

先の動画で言えば、ゴッホの作品であること、権威ある鑑定人が断定する、が満たされれば大きな価値が生まれます。贋作は社会的価値の条件の偽造です。

 

「贋作と知らずに見たときに感じる個人の感動=個人的価値」も、それがゴッホの作品だ、美術館に本物として飾られている、という先入観によって生まれた場合、話は別です。これも社会的価値への迎合といえないでしょうか。

 

先入観には複合的なバイアスがかかります。

 

個人的価値だけで社会を作ると、人を殺してもOK、となってしまいます。

普段の生活を社会的価値の中で生きていると(音楽業界の中とか)、自分の価値観を表明するよりも社会に迎合したほうが楽です。

社会経済を維持するための社会的価値と上手に付き合っていきましょう。

 

"仕事と私、どっちが大事?"
は社会的価値と個人的価値、今はどちらが大事かを問うているわけです。8時までは仕事をせねばならず(社会的価値の創造により自分の価値を維持する行為)、8時1分から君と過ごす(社会的価値によって守られた猶予の合間に愉しめる個人的価値の充実)、と正しい説明を双方が理解することは難しいからこの言い争いが起きます。浮浪者ではなくその会社に勤めている社会的人間だから付き合う価値があるのに、相手はそこは一旦放り投げて私の元へ来い、というわけです。人は論理と欲望で信念が破綻するんです。相手の揚げ足をとりたい時は、この二つの価値の矛盾をつけば簡単に断絶を作れます笑。

 

皆さんの身の回りに存在する社会的価値と個人的価値は分類できますか?