音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

全て過渡だと思ってみる〜音楽的なクオリアを活用する直観的熟慮の事例として

この記事を読む前に、次の課題を10分でやってみてください。

次の19個のコードを使いながら、32小節の「鳥についての簡単な歌」を作ってみてください。

テンションコードにしたり分数コードにして組み合わせてもらってもOKです。

CM7  DM7  EM7  F#M7

Gm7  Abm7  Bbm7  Bm7

C#7  D#7  F7  G#7  A7  B7

Cm7(b5)  Em7(b5)  F#m7(b5)

G#m7(b5)  A#m7(b5)

今のご自身が納得できる音楽がサクッと産まれれば、あなたはこの記事内容は必要ありません。

 

その直観が正当かどうかどう判断するのか?

不定調性論的思考による作曲とは、制作作業に慣れた中級者が作品を作るときに直感に従って作ることですが、最初は根拠のない確信を鵜呑みにして旋律や音色を選択するのはなかなか勇気の要ることです。

直感に対して十分な熟考が施された上で確信を持って選択できるのであればそれが理想です。しかしそもそもそんな時間はありません。十分に時間をかけすぎると逆に迷いを生むこともあります。問題点を探そうと思えばキリがないからです。

そうした思考の迷路にハマらないためには直感に対し瞬間的に熟考できるスキルを身に付ける必要があると思います。

個人差はあれど、多数の制作を扱っていくなかで少しずつ"選び方"がわかってくるものです。やがて、その直感が粗い物なのか適切なものなのかも瞬時に判断できるようになります。

それがその人なりの直観的熟慮ができるようになった目安だと思います。

もちろんその選択をしたことによって社会から排除される場合もあります。

そうした需要と供給や外部の満足とは関係なく、まずしっかりと自分の作品を、自分の意思で地に足をつけて作れる「直観的熟慮スキル」を意識していきましょう。


降ってきた「音楽的なクオリア」を瞬間的に精査して作業に落とし込む一連の流れの中で必要とされるスキルです。

 

この直観的熟慮の感覚が磨かれず、直観の神秘性に囚われすぎると、自分の選択が間違っていないと言うことに正当な理由を探してしまうことがありますが、これは直観的熟慮スキルがまだ機能していない、と考えて良いのではないでしょうか。自分の正当性とか、取り繕う必要のない感覚をしっかり持てないとその選択の必然性が曇ってしまい、安全策になったり、常識に基づいて判断したり、著名な権威に沿った判断をしたりして直感の理由を補おうとしてしまいます。

これは私自身がまだまだしっかりとこのスキルが使えていない証拠かもしれません。この罠には誰でもいつでもどんなに注意しても落ちる時があると感じています。

 

完璧がない/終わりはない、ことを把握する

選択眼を柔軟にするには、完璧な選択、というものが存在しない、ということを把握してリラックスする必要があります。また説得力を感じる選択、曲の作業の終わり、完全性を意識しすぎると、その選択が正当である理由を探してしまいます。

そうした完璧を求める姿勢は、あなたのアイデンティティというよりも、脳の性質習性だと感じてリラックスしていくしかないと思います。

 

では、そういうこだわりに凝りすぎないためにどういう考えをしていけばいいでしょうか?

 

そのための簡単な思考ゲームをしましょう。「全ては過渡である」と感じて、どんどん信念を持って進めていくしかない、という結論になります。

 

皆で食べるちょっと豪華な夕食、について考えてみましょう。

材料を買ってきて、調理して、食卓に並べます。皆を呼んで、いただきますの挨拶をして、今日あったことを話しながら、談笑し、軽いものから順に食べて、メインディッシュを皆で囲み、締めの雑炊などを食べ、落ち着いたところでデザートを食べます。食器を片付け、洗い、明日の準備をして、キッチンの電源を落とします。

さて、皆さんの夕食はどこで完結したでしょうか?

 

片付けまでちゃんとしない人は小言を言われます。

買い出しに付き合わないくせして、あれがない、これは嫌い、と言えば怒られます。

食べている時いつもはみんな談笑するのに、誰かの一言で場が凍りつき、それ以降なんだかギクシャクした夕食になったら、夕食は「成り立ち」ません。

一人だけデザートを食べないでがっかりした、と思った人は夕食に満足感を得られるでしょうか。

明日も夕食を作り続けなければならない主婦主夫は、明日の準備でもう頭がいっぱいでその夕食が終わったことを実感しているでしょうか。

 

食べ終わったら、消化器官は消化しないといけないし、ちゃんと睡眠をとらないと体は夕食を処理できません。生命体全ての細胞に同一の権利を与えるなら、終わったのは「口で食べる」という行動だけです。

 

夕食が終わった、と思っているのは自分の中の誰でしょう。

 

これを人間の表現活動、進化の過程や文化の文脈に入れ込んでみましょう。

 

あなたは自分の演奏が完璧だと思いますか?もう改善の余地はないですか?

あなたが弾いているギターという楽器は完璧な楽器であり完成されたものだと思いますか?もう革新の余地はないですか?

あなたの今回の新曲は完璧であり、それはそれ以上進化させようがないですか?

 

そんなことは思っていないと思います。

たいてい自分はこれからの進化の過程にいて、今この状態は「まだまだ過渡期だ」と信じています。

一つの作業が終わったと思いたいのは、科学的事実ではなく、脳の習性なんです。おそらく「郡化」という性質に関係があると思います。

 

鳥が空を飛んだのも、一つの過程の中にある流れです。空を飛んだから完成ではありません。鳥が空を飛んでいる、という状態は「進化に必要な過渡期」または「これから起こる進化に向けて経ている段階」です。夕食に例えれば、鳥が空を飛んでいる、という状態は買い出しの時かもしれません。調理の時かもしれません。それとももう食べ終わって消化の段階かもしれません。

次の進化で鳥は汚染された空を飛ぶことをやめ、宇宙に出て浮かぶことになるでしょうか?海に潜る道を選ぶでしょうか?その進化は始まっているでしょうか?

 

あなたの楽曲やあなたの制作活動もまた同じことが言えると思います。

あなたが今それをしているのは、完成ではなく、これからに向けた途上の行為です。


こうした配慮を含めた個性につながる選択スキルを「直観的熟慮」と呼びました。

「音楽的なオクリアを発展させる」と述べてきた考え方の実践を表現するためのより具体的な言葉になった、と実感しています。

 

「現状もまたこれからへの一歩である」と感じることが、その直感に対する「直観的熟慮」を行う余裕になるのではないか、と感じます。

完成するとやめてしまう場合があります。


何も終わっていないのに「終わった」と思いたがる人の性質はなんなのでしょう。

「もう直ぐ終わりそう」「これができたら終わりだ!」という錯覚は、ある意味では逃げ、なのかもしれません。逃げ腰になれば当然選択を誤ります。

人のデータを見ながら

「この辺で、なんこの曲作るの飽きてきたでしょ?」

とかわかっちゃうんですよね。

 

鳥の羽は未来は飛ぶためのものではないかもしれない。です。

私たちはあらゆる途上の過程を見ているに過ぎません。

言うなればドアノブは「それを掴んでドアを開けるもの」と信じると同時に、そうではなくなる時がくるのかも、とアフォーダンスを超えて直感することなどは「過剰な直観的熟慮」とか、言えるかもしれません。しかし経験期はそうした過剰さも必要な時もあります。

 

楽器にしても、もっと驚くような進化をするに決まっています。

たて琴からエレキギターが生まれたように。現在のエレキギターは200年後からしたら竪琴でしょう。

作曲行為自体も、現在は音楽を楽しんでいるだけですが、脳の進化に関わる重要な前段階として作曲を楽しんでいる、というだけかもしれません。200年後は細胞の振動/共鳴現象であらゆる病気を治してしまうかもしれません。音楽はそれを獲得するための聴覚神経機関全般の進化に関わっているのかもしれません。

 

これは完成したけれど、一方で続くものがある

 

常に現在は過渡である、それを踏まえて"いまこれで良い"のかを体感しよう(上手に理解しよう)

 

完成も終わりもない


完成がないなら始まりも終わりも途中。

全て流れゆくだけ。

 

みたいになって話があやしくなってきた笑。


完成する、という概念で選択基準を考えない方が良いという話でした。


作曲家の作品は、人生で最初に作った曲から最後に作った曲までの連綿とした1曲の変奏曲である、とは著名な音楽理論家の言葉をもじったものですが、全て過渡である、とすることで「完成」という蜃気楼が美しく見えるような気がします。 

 

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