音楽制作や音楽表現で求められる能力は、実施段階で何かを参考にせず直感的に処理できる能力の向上、錬成の巧みさです。
それを瞬間的な比較能力(momentary comparability)と呼んでおきます。
文字通り瞬間的な比較能力を鍛え上げることで、より良い選択肢を直感的に得られる、という考え方です。
音楽演奏における即興演奏で、次にフリジアンモードを使いたい!と感じた時、それは直感的認知ですから、それをそのまま受け取り、自動的にフリジアンのフレーズを弾いたとします。
感性で選んだモードです。うまくいかないはずがない、と思いきや、意外とダサかった、、、直感なんてアテにならねーなー。
なんて経験したことはありませんか?
もっとわかりやすい例にしましょうか。
いつも立ち寄る本屋に新刊本がずらりと並んでいました。どれも魅力的なタイトルです。表紙だけを見て、一番魅力的な文言だった本を買ってきました。
家に帰って読んでみたら、思っていたのと違う内容で、ちょっとがっかりした。
という経験はどうでしょう。
カンが外れる経験は誰でもあるでしょう。
これはここでいう、瞬間的な比較能力=以後、MC力の判断を誤ったことになります。
しかしこれは経験です。本屋でじっくり吟味せず、その場の感覚で選ぶと間違う確率が高まります。しかし今後人生で本はこのやり方で買い続けて絶対外さない感覚的能力を鍛える、と決めてしまうと、たとえば月に一冊はこれをやろうとするので、どんどん外さないようになってゆきます。本が好きで時間のない方のための能力でしょう。
現代の情報過多で、さまざまな技巧、やり方、方法論を教え込まれると思います。
食事の場合はカロリーで、映画の場合は主演俳優で、音楽はジャケットで、本はポップで、といいようなさまざまな選び方をいちいち分けていると、自分の本来の感覚の癖や、パターン、匂いに気が付きません(優れた人はこれでもできるのでしょうが)。
そこで自分が一番やりやすい、一番楽にできる方法を選びます(そうでないと一生掛けて鍛えるのが苦痛になる)。
私の場合、考えずその場で振ってくる感覚に委ねる、です。
カロリーとかポップとかもみますが、重きは置きません。それらも想定に入れて、前後の生活の出来事も感じるでしょうし、今の気分も加わります。
その時やってくる全体的な感覚に研ぎ澄ませます。それで買わない時もあれば、別の本屋に行く時もあります。明日また来ようと思う時もあれば,4,5冊買ったりもします。本などやめてマラソンをしたくなる時もあります。
選択肢に制限を設けず、ふっと思ったことを全て瞬間的に比較します。
その中からポッと浮かんできたものを直感的に感じて、それに委ねて気持ちが良いか、満足しているか考えます。満足すると、たとえその選択が間違っても、いわば死力を尽くした結果なので、潔く負けを認め、その原因も素直に分析しやすくなります。繰り返していくとそういった 概念自体が自分の人生をダメにしていると気がついたりもしてまた出るからやり直します。くだらないことを繰り返し 前に進んでいないように見えますが、消してそうではなく これ自体が唯一の前進方法だと感じるようになります。社会や教育は効率性のあること、有意義なことをのみに価値を与えようとしますが、独自論的な思考はそういった外から見た価値云々についてのフォルムを考えません。
何らかの直感が降ってくる時、パッと浮かんだものが常に自分の求めるものであるとは限りません。「直感に従う」と言うのはものの例えです。直感にも過程があり、種類があります。
音楽の話に戻ると、次の4小節をフリジアンで弾く!と決めた瞬間、「いや、ドリアンのままでいいのでは?」と言う匂いも感じたら、その瞬間に選択します。最初はそれで限界ですが、熟練してくると
・いやフリジアンは最後に使おう
・あ、このアイディアは次の次の曲のあのソロの方がいいのでは?
・こう思った時は何もしないでおこう
とか考えられます。即興演奏はこの自我の決断との戦いです。人生が縮図のように入ってきます。
音楽に正解はないので、どれを弾いても別に変わりはしないのですが、自我と戦っている自分には、色々と感じるものです。その選択がその後の人生にも影響しますし、いろいろなことを気づかせてくれます。
当然それは次の曲の演奏、後日の体調に関わってきます。
ずっと音楽で生きてきたので、音楽が体の中を統制しているからです。
超大物の演奏なら、一国の政治的判断にすら影響を与えるでしょう。
また、逆にそう思える人でないと、「直感で選択する」こと自体が無意味だと思います。感性が大事!と言うのは万人に当てはまる言葉ではありません。
この大雑把で野生的な無法な価値観を持っている人向きの行動基準だと感じます。
唯一のノイズは、社会から見ると、そうした行動は意味がないと感じられがちな点のみです。
さて、そうやって比較した後、「よし!これだ!」と思う時の感覚を決断感覚感(sense of determination、以後SOD)とします。
この感覚を得た後でも「わ!、こんなに確信している時の自分は違う、やっぱやめよう!」とか「なんか懐かしい匂いがするな、あ、この感覚の時の決断は間違いない!」
と言うクオリアを感じます。
これらのMCやSODは本当に瞬間的にやってきます。順番もバラバラです。
最初に確信がきて、迷いがきて、決断の場合もあれば、
迷って、迷って、選んで決断のようなパターンも。
「自身の直感に委ねる」ことで色々と得られる決断の感覚感を自体も積み重ねてくことで、その後よりよい直感的判断が下せるようになります。
そこにたどり着くまで、計画したり、選択肢を絞ったり、禁欲的に選択肢を制限したり、といった試行錯誤の過程が構築してくれる脳の回路だと思います。社会はそれを無駄の連続と言いますが、余計なお世話です。
私もこの感覚を鍛える、と決めてやっているだけで達人でもなんでもないのですが。
達人の決断感覚を色々聞いてみてください。しかしちゃんと答えてくれないかもしれません(感覚でやっていることを悟られたくない人もいます)。
あの曲で、ああ判断したのは直感的なもので説明づらいと思うのですが、私はすごく感動しました。私はあの瞬間、あなたの選択肢に心から賛意を送っていました、というようなご自身との調和が起きたこと/感想から振ってみてください。表現者はあなたに心を開くかもしれません。
「直感を鍛える」というのは、自分が得意な決断感覚経験を重ねる、という意味で、決して楽をするわけではないので、あくまでそれが楽しい、向いている、と感じる人が探求すべきタイプの技術であると思います。