音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

音楽制作とAIの活用〜偽物の価値について

まだAI自体の精度が上がっているわけではないので、すぐにAI音楽が私たちの仕事を奪う、ということはなさそうです。

ただ、AIを忌避し、価値がないと思いたい、と言う意思も何となく感じます。

 

それはAIは「人の為に生み出された」と言う視点があるからです。

人の為とは「偽」物です。

人はそうした偽物をまず忌避します。

怖いからです。それによって自分が騙され、制御され、扇動され、傷つくのが怖いからです。

「傷つきたくない」と言う感情は、生存本能にも従っているので、人が生き延びるための本能でしょう。

 

偽物に価値がない、と思いたいのは、それが人を騙し、傷つける恐れのある可能性を秘めた存在だからでしょう。

また逆に、すぐに騙されてしまう人も、結局自分を守るための行動、自分を将来傷つけないための予防手段の感情につけ込まれているからでしょう。

「今やっておかないと損ですよ」という言葉の本質は「今やらないと将来あなたはとんでもない傷を負いますよ?」です。それを恐れすぎて偽物を本物と思い込みたくなってしまうのでしょう。

 

人は依代を代替物として、呪術をかけたり、代わりに燃やしたりします。偽物、つまり代替物は自分の代わりに傷つく運命にあります。

偽物自体も、それを作った人も、将来的に傷つき、破壊される運命にあることを忌避する、という意味で、偽物の行く末を忌避し、偽物自体を忌避します。

誰もが死刑囚の執行を見たいわけではありません。

だから社会や親しい人が「偽物だ」と決めた存在を忌避しようとします。

いずれその忌まわしい破壊を目にすることを嫌がるという本能かもしれません。

 

しかし人々が認め始め「偽物だが価値が高い」と思われるような意見が浸透し出すと、一転して安心してそれを受け入れます。それが抹殺される様子を見なくて済むだろう、という安心からでしょう。結果自分も傷つきません。

 

AIが醸し出すフェイク感、偽物感、人を騙そうとする感じ、著作者を陥れようとする感じ、は現状はいずれ罰せられる存在を作ろうとするもの、として忌避しています。

しかし何らかの状況の変化でAIが作る存在を受け入れる社会が来たら、こうした感覚もなくなり、むしろ厄介な著作権で富を占有しようとする人間こそ忌避すべきものだ、という社会情勢がやってて、AIは迎えられるでしょう。

その時初めてシンギュラリティがくるのだと思います。

 

gakuen.koka.ac.jp

こちらにもありますが、偽りは真を見極める為に存在します。

AIの存在は、人間が無数の情報から真の情報を見極める存在として今、"人の為"に"偽り"の存在として君臨しています。

この時代を経て、AIを人のためではなく、世界のために偽物ではなく本物、つまり本当の価値を人が見つけるまでは、現状のような状況が必要、ということになります。

私たちはやはりその過渡期にいるわけで、AIが持っている本当の部分、を探し当てることを推し進める責務を負っているのだと思います。

だからAIの作るまがいもの、は今、現代人を試しているのであって、悪しきものと決まったわけではない、という観点を持つ必要があると思います。

 

これで話は終わりなのですが、重要なことを追加しておきます。

人々の中には、こうした紛い物を恐れない人がいます。偽物を平気で賛美し、自分で偽物を作れる人もいます。

これが増幅すると、人の為に嘘をつくことも平気で、自分が傷つくこともあまり気にせず、人が傷つくことも気にしないタイプの人間がいます。

これはどういうことでしょう。

gigazine.net

この辺がヒントになるかもしれません。

平気で人を傷つけられる、という特性は、群れの中で、積極的に餌である動物を殺し、包丁で捌いて、食糧にしたり、悪しき人物を皆のために断罪したりできる人が集団には必要であった、という説はわかりやすいです。

これもその人の性格、というか特性です。

群れの中には平気で死体を扱える人、血を見ることが平気な人も必要です。

その副作用として、そういう人が人を傷つけても全く気にしない、楽しんで辱める、という人がいるのは社会の性質です。

社会で人を傷つけて楽しめるなんて趣味を持てる人は、やはり自分の特性を生かしきれていない可哀想な人です。役に立てる分野があるのに、ワガママからそこに行こうとしない臆病者、身勝手者、と言われても仕方がありません。

そういう人が暇だと、普段みんなのやらないことをやっているんだというおかしな責任意識を盾にして人を傷つける、という構図も生まれるでしょう。

記事によれば、それは遺伝する、ということですから、そういう人の親も同じようなタイプだった可能性もあり、そういう人が世界から消えてなくなる、ということはなさそうです。恩恵と危険は隣り合わせですね。

ネット上で他人は「非人間的存在」ですから、平気で罵ることができます。

実際にその人に会ってみると、実に丁寧に応対できたりします。ネット上での誹謗中傷趣味は遺伝による気質だ、と感じる時です。気質が批判気質ですから、しばらくは社会的対応ができていても、結局その歪んだ根性で面白おかしく反応してくれる界隈に戻ってしまいます。

 

 

偽物が価値を生み出す時も、それまで悪しきものだったものに価値を与えるのも、ひょっとしてナマコやウニ、納豆やイナゴを最初に食べた人も本来こうしたアウトサイダーだったかもしれません。彼らは時に他者を蔑み、辱めて楽しむ行為の楽しみを周囲から理解されず、社会性の中で理解を得てゆけない欠点を有しています。SNS上でスルーしてあげる代わりに、この気質についての理解と批判を別途発信していくことで少しでも広く理解が広がり、対応が揮発されるのを待ちましょう。

 

いわば必要悪です。その人ではなく、その人の行為が結果的に社会的意義をもたらすことがあります。それを「俺がもたらした価値だ」というでしょうが、それは解釈をきちんと行った周囲の人の成果であって、過ちを犯した人の成果ではありません。

 

社会はそうした人とバランスを、距離、を保って存在するものです。

そのために法律もあります。

こうした人とは距離を保ちながらも、世界のどこかで生まれる新しい価値の動向、新しい文化の性質が変化していく様を冷静に見守ってゆきましょう。