音楽教育活動奮闘記

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時間認識と音楽表現〜音楽制作で考える脳科学48

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私たちは矛盾のない世界を見ているが、それは自分たちと宇宙との相互作用をもとに推定したものであって、私たちの途方もなく愚かな脳にも処理できるように、過度に単純化した言葉でまとめられたものなのだ。

 

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今回の参考文献です。太古の詩を引用しながら、まるで歌うように語るロヴェッリ博士の文章はとても惑わされます笑。

あなたが音楽家なら、あ、これはカンツォーネだな、と感じるでしょう(氏はイタリア出身)。

 

この記事では脳と時間と音楽の兼ね合いをまとめ直します。

 

 

・時間は脳が作っている

目の前からナイフを持った男が襲ってきたら人は恐怖し死を覚悟します。

人は生存本能から、これから先のどこかでやってくる自らの死に対する恐怖を覚える感覚を身に付けました。

ここに未来の概念が生まれます。概念が生まれるだけで未来は存在しません。

また脳は過去の自分の経験から今後より高い生存率を作るために経験を活用します。ここに過去が生まれます。「過去を記憶している」という現象も、脳機能に基づくデータ認識です。過去自体が今手元に存在しているわけではありません。

時間は上書き概念だからです。

もし自分の家に10秒に1回泥棒が入り自分の持ち物を持ち出しているとしたらあなたはのんきに本を読んでいられるでしょうか。実際あなたの頭の中で起きている脳細胞の死は、まさにそんな状態であなたから生命を奪っていきます。 それを気にしていたら恋愛はできません。

これらは脳のシナプス機能を通して創り上げた自我に都合のいい「認識現象」です。感情も夢も希望もそうやって形成されてきました。それは時間の法則、というよりも生存本能がそういう習性を作った、と解釈することができます。過去も未来も人間の想像の中にのみあります。

つまり、そう思うから「現在」が認識される、となります。

寝ているとき時間はありません(感じません)。

 

 

時間はニュートンが考えた?

「事物とは全く無関係な時間(ブログ主注; 事物そのものや事物が生じるかどうかとは全く無関係な時間が存在するというニュートンの主張)」という概念に基づくニュートンのモデルのおかげで近代物理学を構築することができたからで、その物理学は非常にうまく機能した。こうして、時間はゆるぎなく一様に流れる実態として確かに存在する、と考えられるようになった。

さまざまな科学者の労苦の果てにニュートンが時間の方程式を作ってくれたことで近代科学はそれに基づき機械を作ることができたことになります。 そして義務教育、社会通念として知識として「時間」が理解されています。

 

 

・量子の世界で起きる速度と位置の非可換性で生まれる順序

地球は、太陽から得る熱と重力(影響力)を基本に生態系を作り、営みを作っています。太陽があるから地球上で人が観測できるエントロピーが生まれると言っても良いでしょう。

量子の世界では、小さなネットワークが現れては消えランダムな嵐のようになっている、と著者は考えています。そういう方程式も見つけたそうです。

そこでは位置と速度によって決まる量子世界のネットワーク構成の順序(出来事のランダムな序列)があるだけで、方程式に時間の変数は必要ないのだそうです。

「現在」は出来事の相関がないと成り立たないそうです。これらは著者の理論に基づいたもので、まだ世界的な賛同が得られている訳ではないそうです。

 

三十人のクラスで全員が教室中を全速力で走りながら一人一人ランダムに立ち止まって両手万歳を上げるゲームをしたとしましょう。その行為に社会的な意味はないですよね。そんな状態でひたすらに量子の出現と消失が繰り返されていて、その位置と速度によって物事が現れる順序が生まれ、それを「時間の芽」と筆者は呼んでいます。

この嵐のような世界にエントロピーもへったくれもありません。ずっと嵐。ずっと高速挙手runゲーム状態がリアルのミクロの世界です。

 

その様子だけ二時間見せられる映画、って面白くないですよね。

ただこれをどんどん巨大な世界にしていくと、どんどん原子が物質に見えてきます。それが人間が観測できるようになると、原因と結果のような観測が可能になり、いかにも絶対的な時間が存在するように見えるそうです。映画であればストーリーが動いている絵になる、というか、「人が認識できる状態になる」という意味です。

 

原因と結果も人の見方による概念だそうです。経験からそうなることを規定しているだけなのだとか。人の老化も人が熱を持った存在だからエントロピーに変化が起きるように見えるだけ、と言えます。時間ではなく熱があるから変化するだけ。

 

宇宙の歴史からしたら、人の一生はお風呂で見かけるはじける泡程度の間です。

 

著者はこれらの現象に対して世界を「ぼやけている状態で見せられている」と述べます。

 

138億年という記録も人が記憶できるシステムにおいてのみの概念であり、宇宙のエントロピーは人間が認識できる範囲においてのみ「ビッグバンは究極の低エントロピーだった」ということができるのだとか。

だから厳密には宇宙全体はビッグバンの頃から、ずっと同じようにこの空間自体はあったのかもしれません。何も変わっていないのかも。人の死も人の一生も、ただはじける泡のように相互に交わるだけ。

あなたの周囲の人もあなたと同じ"根"を持つ存在だとすれば、「誰か生きていればたとえ自分が死んでも生きているに等しいのだ」って思えればいいんでしょうね。一人一人は枝葉の実ひとつ。託して生きる生き方。

 

過去と未来が違うのは、ひとえにこの世界を見ている私たち自身の視界が曖昧だからである。

 

過去の状態は熱が発生したとき低エントロピーが高エントロピーになる、みかけの時間の矢が生まれ、さまざまな記録を残します。あの現象は時間があるからではなく、エントロピーの変化があるというだけで時間そのものがそれを起こしているというわけではないと言う理解ですかね。

 

コーヒーとミルクを混ぜた後にコーヒーとミルクを分離することはできません。

しかしそれは元に戻すテクノロジーがないだけです(そう信じているという確信が、自分の中に科学的事実をすら作ってしまいます、人は真実に対して自我という認識構造を通してぼやけて世界を見てしまっているわけです)。最初からそのテクノロージーがある世界に生まれたらどう思うでしょう。

 

また銀河系サイズの大きさからあなたのコーヒーカップを見たとき、そのコーヒーとミルクは本当に混ざった、混ざっていないを区別できる、と言えるでしょうか(ミクロの世界の時間を認識観測できない人間の視点ならなおさら!)。 

 

私たちの「現在」は、宇宙全体には広がらない。「現在」は、自分たちを囲む泡のようなものなのだ。では、その泡にはどのくらいの広がりがあるのだろう。それは、時間を確定する際の精度によって決まる。7秒単位で確定する場合の「現在」の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。 私たち人間に識別できるのはかろうじて10分の1秒位で、これなら地球全体が1つの泡に含まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有しているかのように、「現在」について語ることができる。だがそれより遠くには、「現在」はない。

 

この文章は、過去が遠くにあると言うことをうまく示していると思います。

私たちが火星の現在を把握しようと思ったら妄想するか、15分前の火星を認識することしかできません。 情報の伝達手段はそれ以上速くならないからです。今あなたのと同じ火星の瞬間を知り得ることはできないわけです。

 

過去は遠いところからやってきます。

人が遠いところに感じる郷愁というのは、過去を体感する感覚に似ているのではないでしょうか?

人は距離と時間をごっちゃにしながらもそれぞれに似たような感覚を想起させているのかもしれません。

 

・すべての表現が音楽的に見えるときその人は音楽家である

言葉が作る意味についても人間は"ぼんやり"捉えています。

著書では母親が電車の中で騒ぐ子供に"じっとしていなさい"と指摘する場面を想像させています。

子供が本当に地球の上でじっとしているためには列車から降りて地上に立たなければなりません(宇宙の上ではう動いている)。しかし母親は電車の動きに対してじっとしていることを要求しているわけです。

速度は相対的ですから子供が電車の中でじっとしていても動いていないことにはなりません。科学的事実とは異なる認識が人の生活を成り立たせることがあります。「時間」同様、科学的な真実も「知識」に過ぎないのかもしれません。自分勝手、自分本位という言葉がありますが、究極的に人は認知機能が乏しすぎて、人間本意で考えないと社会自体を成り立たせられません。本質を考えるなら、地球から見て人間は存在すべきか?みたいな話になるからです。

 

このような話から改めてわかるのは、

音楽家にとって、時間は音楽そのもの、音楽は時間そのものということです。

音楽家にとって音楽は本来、

「時系列情報楽」です。

ここで言う時系列とは、脳内整理された情報の順序を指します。

 

本来音楽は音楽情報だけで楽しむことはできず、五感と脳がある以上、

・誰が弾いたか

・なんて歌ったか

・どんな場面か

・どんな容姿か

・どんな場所か

・どんな色か

・どんな音か

・その前後であなたはどんな気分か

...etc

これら全てがその瞬間の音楽知覚に関係がある、と言えます。

だからこそ過去の名作の初演が不人気だったりするわけです。

「作品は素晴らしく感動的だが私は嫌いだ」的に器用に感じる人は少なく、また嫌いなものを宣伝する理由は「それが嫌いになるべきだとわかる研ぎ澄まされた感覚を私は持っている」という自己主張に過ぎません。

音楽家ですから、楽譜上の音表記がしっかりあれば良い、と思ったりしますが、本当は人は脳の中で受け取るあらゆる情報に反応しています。

音楽だけを聞く、ということはできないのに、いかにも音楽だけを切り取って良し悪しを考える方針がまだあります。

 

だから一方で音楽はそれを行う同時間に受け取るすべての情報に依存する表現芸術だ、と伝えても良い時代になったと思います。

容姿で選別される、というのも、それが人の容姿は遺伝子を残すための基本的な欲求ですから抗うほうが不自然です。

 

音楽教育も音楽理論も、誰がそれをどう語るかで相手の持つ印象は真実味、リアルさも異なります。

うまく伝わった情報だから自分にすぐ役立つか?というとそういうわけでもありません。

 

ベートーベンの「ミサ・ソレムニス」のベネディクトゥスに含まれるバイオリンの歌は純粋の美であり、純粋な絶望であり、純粋な喜びである。わたしたちは息をひそめ、どういうわけかこれが意味の源だと感じつつ、宙を漂う。これこそが時間の源だと感じながら。

こういう表現するあたりが情熱的笑

 

調性音楽は美しくもあり、切なくもあり、喜びでもあります。

短調も長調も等しくエモいわけです。

まだ音楽理論には「長調」という言葉があります。それは過去の価値観ですから、これからも使っていくとしても、その音楽にはあらゆる切なさ、哀しみ、訴え、喜び、欲望、を全て感じ取る感性を現代人は既に持っていると思います

それはその音楽がさまざまな映画で、さまざまなショップで、さまざまな人と一緒にいるとき、聴いた経験を現代人が持っているからです。

視聴覚環境も昔とは変わりました。

長調は明るいだけではありません。当たり前ですが、これに気がつく為には時間と音楽と脳の関係をもっと理解しなければならない、ということになります。

色にしか興味が無いと白いバラを見て、これは「白い」とだけしか認識できないようなものです。バラを見落としている。でも著者がいう人の認識、とはその程度なのでしょう。

 

音楽について音楽だけを見るか、もっとその周辺の情報も取り入れるか、というその度合いでその人の音楽との関わり方が変わってくると思います。

 

コンクールやライブオーディションなどで音が重視されますが、それならば、服は普段着でもいいはずです。ショパンコンクールでジーパンを履いていてもいいはずです。

それを行わないのは、音以外の時系列情報がその音楽を奏でるにふさわしい、と認めてしまっているからです。それをいかにも「音以外は関係ありません」と示す巧みな姿勢が貫かれているだけです。一人一人が胸に持つバラを一旦は隠してしまいます。

しかしそれらの「出しゃばり」を隠すことで平等に審査できる、という利便性も持っています。何が良くて何がいいかは、やはり人の感覚に委ねられます。

コンクールが嫌い、という人の心の奥に今書いたような認識に対する歪みが関係しているのでしょうか。

 

無調であれ、ノイズであれ、無音であれ、瞑想であれ、仕事中であれ、睡眠中であれ、体に起きることから自分に想起されるすべての感情と等しく存在させられることで音楽家は音楽家となりうるのではないでしょうか。音楽以外の情報も音楽的に理解できる感覚が、音楽家の感覚と言えるかもしれません。

そうした知覚をたとえ下手でも音楽に落とし込もうとするその人の意思は、音楽的表現に関わる遺伝子の力であって、職業音楽家としての音楽力とはまた違うと思います。

 

人は宇宙のほんのほんの一部だけしか知覚できていません。それでも傲慢になるのは、やはり自分の存在に意味がある、と思いたい人の生存本能でしょう。人に自尊心があるなら、泡にも自尊心があると感じ、もののあはれを感じる方が人生は豊かに過ごせるのでしょう。全ては幻を見ているようなものなのですから。

芸術家が表現を施すのは、実存に対する自分なりの意見/存在表明であり、全てが尊い問いかけです。

そもそも発表された作品に優劣などなく、無意味なものもない、ということになります。全て彼らの実存の表明を喜べばいいだけです。

批評や改善点の提案などは、満開に咲いた桜の花びらの1枚の向きがおかしいからこの桜は意味がない、と桜に説教するようなものです。

 

この考え方では音楽に理論がなくなります。その状態をどのくらいイメージできて受け入れられるか、という個人の感性(独自論)で変わってくると思います。

 

またCメジャーコードの上でどのようなソロを取るか、ということについても、人それぞれの時間が流れているわけで、同じ時間軸上にはいない、ぐらいに考えると面白いです。

つまりcとf#の関係は増四度という音程以外にどんな関係性があるか、ということを個人がまとめられるような方法論を持っておけば、「関係性を感じ取り相手を理解することができる」というところに話を落とし込んでいます。

 

この記事のポイントは、人が「時間」で世界を感じる以上、

G7⇨C

はあらゆる印象を人に与える、ということです。

音楽を奏でる者が、これを「解決進行だ」とだけ述べるのは危険、と言わなくてはなりません。それは教育という文化の中で閉鎖的な社会が増す教育のために用意した模範解答であり、まるで情報を制限している国家の国民が得ている情報と何ら変わりません。

 

その和声を演奏するときの感情、衣装、楽器、メンバー、振り付け、歌詞、MC、髪型、照明、観客の声援、時間帯、年齢層、個々人のそのときの気分、すべての要素によって、その和声の存在、意義、心象は変わってゆく、ことを伝えることが、脳と音楽と時間が重なり合った現代音楽芸術のリアリティではないでしょうか?

 

またそれらが錯覚なり、バイアスにより判断が誤っている場合もあります。

それらを確かめるには、より多くの人数によって、それぞれが感じた独自論を発信することで、さまざまなバイアスの可能性、大多数の人が感じる感覚が割合として現れ、組織全体でどのように理解すべきかを決めることができます。

それらの長年の考課測定が積み重なって音楽理論や一般方法論は成り立っています。

しかしながら、あなたの生育環境から獲得した感覚、思想、判断がそれらの大枠に当てはまるかどうか、それに合わせるべきかどうか、はそもそも未確定なのです。

 

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