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枝の上の小鳥は喜びで鳴くのか?〜音楽制作で考える脳科学47

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音楽は聴覚のチーズケーキです。

 

認知科学者のスティーブン・ピンカーが1997年に述べた言葉です。

音楽の刺激がたまたま脳が喜ぶ部分に反応するために人の進化の過程に付随して生き残った機能であり、進化の根本にはなんら意味はない、という皮肉を込めた主張です。

栄養にならないお菓子、快楽をもたらす子孫反映とは関係ない性行為、体に悪いのに続けてしまうドラッグ、と同じだ、と言うわけです。

脳は子孫繁栄に関わる行為に関係する行為の中から快楽だけを得る方法を見つけてしまったためにそれを追求する生き物であり、音楽もそれらの「脳にとってのジャンクフード」の一つだ、というわけです。

 

ある意味ではそうかもしれませんが、それは音楽の一面に過ぎません。

進化論の側面からは、進化に伴い全ての現状が進化の行く末に少なからず関係するわけですから、これからの進化の何らかの過程の一部になっている、と言うことは否定できません。これからの人の進化はこの音楽に対する感覚に対して行ってきた進化も関わるわけです。

 

著者はピンカーの言葉の反するべきところを反し、より認知科学者らしい事例を挙げてくれます。超古代から音楽が人の生活に密着していることをみても進化に不必要なものと言える証拠がない、という著者の考えに私も賛成です。

 

<音楽は求愛行動に関わる健全性の誇示>

音楽が正確に行える、と言う行為を外部に示すことで、その人の遺伝子が正常であり、異性に対して「正常な遺伝子を残せる個体である可能性」を無意識に示している、と言います。これは各人種においても性差関係ありません。

・かっこいい演奏ができるという主張

・難しい音楽を理解できるという主張

・リズム/音程を合わせられるという主張

も全て「自分が健全で優れた個体である」ことの訴えだ、というわけです。

女の子にモテたいからギターを始めた、と言う我らギタリストの主張は進化論的にも間違っていなかったようです(さすがギタリストは繊細で敏感-?-)。

 

ダーウィンはクジャクの羽に例えました。クジャクの羽が多いほど、「どれだけ自分は無駄にできるほどたくさんの羽を持ち、力強い代謝を行える、健全な個体かを示すことができ、自分を美しいと思わせる余分な行動に余力をさける遺伝子的/体系的な余裕がある」。というわけです。

 

著者はこの事例を、お金もないのに高い車を買おうとしたり、大きな家を構えようとする人の本性を、この「余分さに生命力を"割ける"クジャクの健全性の誇示」に例えます。

 

人の脳はこれらの本能的誇示と脳の喜びをいろいろゴッチャにして、別に健全性を誇示したいなんていう理由ではなくても、自然と音楽パフォーマンスをしたり、ダンスを披露したり、大きな家を買おうとします。またそれを鑑賞するのも、別につがいを探しているわけではありません。それに付随した行動だけが残り、「音楽鑑賞」というよく意味のわからない行動になって残っているだけです。本来は子孫繁栄のための行動だったのが「子孫繁栄などに一生懸命ならずとも、このような無駄なことを楽しむ余力のある個体であることを自覚し合うことで我らの種は安泰だと思いたい」ぐらいの感覚なのかもしれません。

言い換えれば、音楽を楽しむべきでないときに音楽を楽しもうとするのも「余力を見せられる主張」であったり「周囲に余力があることを示すことで周囲に"まだ大丈夫だ、我々はやれる!"」と思わせる効果があるのかもしれません。こうした感受性の発展こそ音楽がもたらした変化であり、困ったとき人を慰めるために人は様々な行動を編みだいうことに繋がったのだと思います。

 

こうした関係性を理解すれば、感染症下で、戦時下において人がなぜ音楽をやるのか、ということの主張の裏に隠れた本能と気質の理由がわかるのではないでしょうか。

コロナ下において、音楽なんて自粛しろ、と弾圧したいのではなく、いま性的アピールしてるときじゃないでしょ?的な感覚に自分がなっているのを気がつかず批判しているのかもしれませんね。

 

見方によっては、音楽があることで世界的な絶望と、パニックが起きるのが緩和されているのかもしれません。一方で音楽があることで問題点が隠されて解決時期を逸している、という見方もできるでしょう。

無意識での思考が混じってくるのですから、現代の人間の思考レベルでは一面的にそれが正しいか、間違っているかまだ判断できないのではないか、なんて感じます。

 

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激しいダンスが踊れる、ことも狩猟社会に置き換えて著者は述べてます。

過去の狩猟採集社会における踊りが、現代社会の踊りと似たようなものだったなら、普通は何時間もぶっ続けで有酸素の運動を必要とする。そうした部族の踊りは、狩りに参加したり狩りの先頭だったりする男性の適性を表す、格好の目安になるに違いない。(中略)精神疾患にかかると、踊りやリズミカルな動きの能力が犯される場合が多いことが、今では知られるようになっている。(中略)だから、時代を超えてほとんどの音楽を特徴づけてきたリズミカルな踊りや曲の演奏のようなものは、心身ともに元気な証拠となり、信頼性と誠実さの証にもなっているだろう。

ダンスの魅力は健全性を感じるから、というのは妙に納得しました。

なぜ人がただ踊っているだけなのに、あんなに魅力的なのか?というこの感情も子孫繁栄のための快楽に結びつく根を持っている、とわかれば、これは本能です。

それならばただ感じればいいだけで、理由は最初から遺伝子に埋め込まれているので考える必要はありません。

ダンスがかっこいいのはダンスがかっこいいからではなく、ダンスをかっこいいと思える感覚で相手を見る習性が人間の中に埋め込まれているためです。

 

著者は、ジェームズ・ブラウンのライブで椅子に立ち上がって両手を掲げて叫ぶのは許されるが、クラシック音楽のコンサートではそれは許されない、と言うような事例をあげています。

これもクラシックコンサートを理解すると言う高い教養を示すことが優勢遺伝子の所持を示す行為に該当するから、クラシックコンサートでは奇声を発しないことで「生的健全性をアピールできている」ということになります。

まあネコちゃんからしたらニンゲンやベー。ですね。

さっきまで家で奇声あげとったやん・・・。

 

母親と赤ちゃんの音楽を介した関わりには、ほとんどいつも歌とリズミカルな動きが伴っている。例えば、歌いながら赤ちゃんを優しく揺らしたり、撫でてやったりする。これはどの文化にも共通しているようだ。

 

赤ちゃんの知覚は、「視覚聴覚触覚が溶け合って1つの知覚表現になっている」といえるのだそうです。これらの体験や行動が赤ちゃんの頃からリズムとの関わり、歌との関わりによって、感情表現とのリンクが作られていく、といえます。

 

音楽が感情を呼び起こす、と言うことには様々な側面があり、一概にその根拠を音楽の中に見出すことはできません。ましてやコード進行だけに感情の根拠を見出すことは難しいでしょう(過去の自分へ!)。本人が認識していない知覚(科学的解明が進んでいない人体の知覚機能)が何らかの判断に影響を及ぼしている、とまで考えたら言葉や現状理論で無理して音楽の正体を語っちゃうのは恥ずかしいよ(過去の自分へ!)。

 

 

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芝生の上で犬が転げ回るのは、喜んでいるのではなく芝の生臭い匂い(死んだ生き物の匂いに近い?)を体に擦りつけて、周囲に自分が優れた狩猟者であることをアピールするための行為だそうです。

 

この話と同様に、小鳥のさえずりを人は勝手に喜び歌っているなどと解釈します(過去の天才作曲家もその判断で名曲を作っている)が、果たして彼らのさえずりに喜びと言う感情が存在しているかどうか、は謎です。

 

人には"解釈する自由"があります。それが良い動機になったり、良からぬ動機になったり。

 

鳥が喜び歌っているという理解は、自分の解釈だ、、と言っておくと無難です。そこに独自性があればあるほど自分の作品にオリジナリティーを持って反映させることができます。

その自分の解釈が絶対であり、何らかの共通の社会的価値を与えようとすると話をややこしくなります。

 

なぜ音楽があるのか、について著者が美しい表現をしています。

霊長類は高度な社会性を持ち、集団で暮らし、社会戦略を伴う複雑で長い関係を築いている。ヒト科の祖先は、求愛におそらく長い時間をかけていただろう。音楽、特に覚えやすい音楽は、求婚相手の心にそれとなく染み込んでしまい、求婚者が長い狩猟の旅に出かけて不在の間も彼女の心をつなぎとめて、戻ったときにその胸に飛び込みたい気持ちにさせたに違いない。良い曲をいっそう効果的にするいくつもの要素(リズム、メロディー、音調曲線)によって、音楽が私たちの頭に染み込んで、離れなくなる。古代の神話や叙事詩、さらには旧約聖書にまで、語りによって世代を超えて伝えられていくようにと曲がつけられたのは、そのような理由からだ。具体的な考えを活動に移すための道具としては、音楽より言語の方が役に立つ。しかし気持ちや感情を高める道具としては、音楽は言語より優れている。この二つの組み合わせなら---その最適な例に挙げられるラブソングなら---誰にとっても最強の求愛行動になる。

 

人が音楽を持つ根本的な理由が端的にここに示されています。

人が持つ感情という存在を最大限に活用できる音楽という存在は、人が感情を持つ以上を切っても切れない関係にあると言えます。


そしてその理由をさまざまに解釈してきたことによって現代に至るまでに音楽行動の理由を様々な根拠付けによって肥大化させたのだ、と直感することができます。

音楽が性行動の衝動と同じ部類に入れないように、巧みに文化人によって関連性の有無を避けられてきたということも言えるかもしれません。

 

私が音楽に命をかけずとも、音楽はそう簡単に滅びそうにありません。

またそういう存在であると分かったのであれば、だからこそもっと個人的に、本能的に、自分がやれる範囲の中から音楽に、より正直に喜びを見出して、古代からそうしてきたように、いついかなる時もそれを楽しみたいと思った時に楽しみ、それによって力を貰える時に力にして、人とより豊かに関わっていくためのツールとしての音楽を感情と知性で思う存分扱いたいものです。

 

続く。