不定調性論には汎用性のある文法のような和声体系はないのですか、という匿名のご質問をいただいて、自分でもまとめる意味で書かせていただきます。
拙論は、ブルースやアジア、アフリカの民族音楽の根幹などが十分に考慮されないうちから体系化された西欧音楽理論から、キリスト教や各種宗教的要素?を差し抜き、民族音楽やブルースが重視する四度を五度と同等の存在にして、一旦全て解体して、改めて現代の平均律を用いるなら、どんな音素材が最初に出揃うかについて偏りはありますがまとめたものです。
そこからの組み合わせや順列は各位の音楽性に委ねています。
音は機能で連鎖するのではなく、連鎖することで生まれる「進行感」によって人の心象を刺激し、精神をふるわせて、音楽文化が発展してきた、と捉えます。
ビートルズもシェーンべルクももれなく音が連鎖しています。
「4:33」は静寂の心象が連鎖し、それらの時間軸の連鎖に人は何かを感じ、心象を持って個々人の感覚で共感するから、それもまた紛れもない音楽現象と同類だ、としました。
個人の音楽性はさまざまですから、仮に不定調性論が提示した素材で、ある人はR&B調の楽曲を作り、ある人はノイズだけの音楽を作るでしょう。
こちらに全ての素材の素を並べてあるので、ご参照いただけたら幸いです。これらを組み合わせるには、個人の音楽性が必要です。
何もなくても音楽を作れるのが機能和声論であり、非常に有用です。知識体系も極めてはっきりしています。
ただそうした学習をしていて、その体系に不満だ、つまらない、と感じたら、あなたは自分なりの音楽の方法論を作る必要があります。今まで機能和声論に委ねていたことを自分で作るんです。
またご質問をよく読んで感じたのは拙論は言語が進化した先のコミュニケーションを想定して作っていたように思ったことです。
これについては確かにあんまり触れてこなかったので、せっかくですのでここで書いてみたいと思います。
私が、
「これは赤い思い出の旋律です」
と感じながら旋律を提出した時、相手が、
「なるほどこれは深海の静寂ですね」
と解釈した時、「あ、俺の言ってること伝わってないじゃん」とは思いません。
"私のこれは、その人のそれなんだ...面白い"
で片付きます。
解釈が解釈に変容するのをよしとしてします。だから汎用性のある文法は要りません。
解釈自由な現代絵画のようなものです。そして誰かに伝えようという意図が中心ではないので、脇から色々解釈するのはその人の自由であり、こちらが何か指摘できるものではありません。
また、表現自体も"言いたいこと"が最初にあるのではなく、
「何か作りたい=音を置く、という行為をしたい」
というなんとなしに感じる衝動から制作が始まり、作りながら何が言いたいかが明確になる場合が多いです。空腹と一緒です。なんか腹へった、と感じて店を探すうちに食べたいものが出てくるんです。
II-V-Iとは
例えば次の和音連鎖を聞いてください。

これはあなたにとって何を意味していますか?
汎用のkey=CのII-V-I(トゥファイブワン)という定義はあくまで社会的学問の共通語で、別に私には関係ありません。
今の私には、このエレピの音が少しすんとした表情のリスさんかウサギさんが、すました感じでそそっと歩き出していくような印象を持ちました。

こんな解釈意味があるとは思えません。ただそう感じたことが大切、とするのが不定調性論のクオリア論です。
これは、日本語を用いて説明してますが、そんな言い方をさせる正体は脳の直感的言語に近い表象語、というように私は感じます。
強いてコトバにするなら、Impulsethesia("インパルセシア≒表象覚環") です。スピノザの Conatus(コナトゥス)(生命の存続意志)とか、フッサールの Erlebnis(エアレブニス)(直接的な生の経験)とかを組み合わせて英語的にした語です。
言語化される前の生理的感覚や衝動が、直接的な経験として意識に現れる現象
です。後で書きますが、人間の基本的感情(ホルモンや神経伝達による身体感覚が、理性や言語を介さずに純粋な知覚として現れるもの)がそれぞれ滲んだような説明できない感情を説明すると、
「少しすんとした表情のリスさんかウサギさんが、すました感じでそそっと歩き出していくような印象」
になっただけです。だからこれは本質は怒りかもしれないし、安堵かもしれません。ただ、普段感じている怒りや安堵とは明らかに異なって感じるから、それを見つめると上記のような言葉感が浮かんだんです。
「音楽的なクオリアでやりとりできるコミュニケーションの段階」
があります。そこで使う言語感が不定調性論で創る音楽なのだと思います。しかしこれを社会でやったら仕事きません。明確な言葉にせず、伝わる気持ちばかりではありません。だから独自論と社会的信条を丁寧に分けるんです。伝わらなくても良い事柄でできる世界と、伝えなくてはいけない事柄のある世界を理解して分けていく感じです。
私個人は、音楽が作る"情感うねり"を楽しむだけでマインドフルネスであり、自分にとって有意義だからこれを一つの方法論としてまとめて誰かに示したい承認欲求となっているのだと感じます。 これによって汎用性を考えてしまうような書き方をしているのは私の責任であり、そこについてはお詫びしたいと思います。今は何とも言えませんが、さらに欲求が削られていくようでしたら表現を考えていきます。
具体的にどこに独自論が潜むかを私の例でさらにご紹介します。
下記の和音は実演奏が難しいDTMならではの和音もあります。ご了承ください。
言語とは違う立体的な表象
ピアノ演奏が好きな人、バイクに乗って一日中旅する人も私と同じだ、と感じます。その行為が自分に生み出す表象覚環こそがその人の言語で、ずっとそれをやっていて飽きません。努力と感じません。のめり込みます。
たとえば先のII-V-Iも、時に悲しみになったり、慰めになったり、はたまた薄いピンクでありながら薄い水色でもある、といくつもの意味や情感が折り重なって感じさせます。
このII-V-Iを翻訳すると、
悲しみ=慰め=薄いピンク=薄い水色=リスorうさぎがこちらを一瞬見て、すん、と去っていく
という私のこの時だけの単語なんです。明日は変わります。
これをまとめて表せる日本語ってないですよね。それが心地いいんです。ここに汎用性もありそうですが、その汎用性は生まれてすぐに消えてしまうような、とても幻的存在です。
合わせるための外した音
次も聞いてください(イヤフォン推奨です)。

同じ進行ですが、CM7は余韻をつけて、意味ありげに締めくくっています。

この二つは現代音楽語では確かにどちらもCです。でも"言っていること"は違います。
「どうも。」≠「ありがとうね、、」
の違いのような。そのほかにも私特有の無能さが拗れて「俺のエンディング聴いて〜!!」的な承認欲求も感じます。それをわからぬまま音楽をやると、自分という迷路に迷います。
ここではもう一つトピックがあります。
最初の画像では最後の最後で高い赤枠のc#が鳴っています。音楽理論的にはCM7(b9)になっちゃいます。
このエレピプラグインは普通に高いcはM7ぽく(少し低く)感じてしまうんです。それならそれでCM7でもいいと思える時もあるのですが、その時はc#の妙に寂しげな、辛みを持ってブレた表象が琴線に触れたわけです。
不定調性論ではエクスプレッションノートの展開と言えますが、こうした音を加えて、和音の表情を通例のコードサウンドとは違うところに響かせる試みを自作ではよくやります。これを自作でしっかり作り詰めるからこそ、依頼作品はできる限り相手のクオリアの再現に努められるわけです。独自論は日々研磨しないと本当にカオナシみたいになっちゃいます。
逆に低温をこもらせて暗い階段の下に降りていくような淡い不安を作ったり。
L.I.Lとか私には時に関係ないです。
(参考)和音は単音に厚みをつける行為です。
ここでは別トラックにして、バイトボリュームを低いところから上げてます。

そのまんまだと違和感があったからです。

さらにc#だけリバーヴまでかけて。こういうこと全体を、
「音楽的なクオリアによる直感的熟慮」が作る表現と呼びます。
皆さんもやっていると思います。お掃除する時、料理、お風呂…あなたなりにしっくりくるやり方がなんとなくあると思います。しかしそこに文脈や文法を置く必要性を感じるでしょうか。状況に応じて千変万化対応できるように、常に作業工程の腰を浮かせておきたいとは思いませんか?これは私の嗜好かもしれませんが。
こうやって思うままのものを食べて空腹を満たしていくことでいろいろ冷静になれるんです。無駄でも無理でも無意味でも矛盾でもなんでもいいんです。自作ですから。
音響的な可能性
音に厚みをつけて表情を加えてみます。

和音なんだけど、和音的ではない、ヴェロシティのバランスを崩して雰囲気のような厚みを加える、という発想にすると、同じドレミファソラシドでも不思議な細密化された広がりが生まれます。
"音ではない音"のヴェロシティを小さくすることで、"普通のc"と、"少し上ずったc"ができます。
これは楽器によって違うので、毎回聞きながら加える音を考えます。一般和声論は無視して、イメージ通り聞こえる音を探し選びます。
この時、どんな音を加えても関係を導き出せる拙論は、とても私には便利なのです。それが文法ではないかと言われればそうかもしれません。
こういうのを使うと、

メインの和音は同じでも"なんかキラキラしてる?"なII-V-Iが作れます(イヤホン推奨)。
厚みを加えるといい感じになる魔法を起こす時があります。そのプラグインで一度クセを見つけてしまえば、いつでも魔法を繰り出せます。こうして調性論を無視する不定調性論は音響的技法と相性がいいのです。
本来NGな和音でも意味が生まれます。他人がそれをどう思うかはまずは置いときます。自分がやりたいことを実行するのが独自論の最初で、そこからその独自論自体を追い込んで、社会性と共存できるまでに持っていきます。
こういうのをどんどん応用します。
次の二つも聞いてください。
最初のやつ

最初のは冒頭と同じです。その下は、薄ーーくF#∇を加えています。
雰囲気、味、色味、陰影の感じ、「銀影CM7」。短い影を持つような、右側が翳るような...うさぎさんが去った後、寒々しい大地がフォーカスされるような。そのどれでもないような。
また、

こんなふうにアタックの音圧が厚いところにもう一音"変な共鳴"を加えたり。ここではe♭がアタック部分に足され、「痺れ」とか「掠れ」が意識に入ってきます。
これ以上伸ばすとm3rd感が聞こえすぎて殺伐とし過ぎてしまいます。そういうのを自覚していると、自分が見えてくるんです。この感覚が社会的音楽制作で役に立ちます。直感が降ってきた時「あ、これはやばいやつ」「ギリギリOKなやつ」と区別できればクライアントの意に沿う形が生まれやすくなります。
また、

内声に埋もれさせ、滲み、かすみ、言い淀みのような雰囲気も作ります。
この曲で結構使っています。現代音楽的だからと言って殺伐とした雰囲気になるのが嫌で、月明かりにきらっとくぐもるような夜の光的イメージで確か作ったと思います。
"十五夜お月さん〜"の童謡のフレーズが入ってるのわかりますか?
この「こいのぼり」もそうですね。ペダル踏みっぱなしで余韻の和音を作る感じです。
こういうのって全く仕事音楽に必要のない欲求なんですよね笑。自分如きではもう独自論、として極めていくしかないです。こういうのがやりたい人生だったんだと思います。最初はもっと売れることしないと!とか思えるように頑張ったんですが、全く興味が続きませんでした。
下記では具体的に不定調性進行をさまざま具現化してます。響きに意味を感じてしまうタイプの人は、簡単にできると思います。
上記のように和音進行を色々変える方法だったり、このページで書いた厚みをつける方法だったり、自分が何かを訴える行為にフィットする文脈感を作っていったほうが文法を見つけ、それを身につけるよりも話が早いかもしれません。
せっかくですから、これまで書いた感覚を活用した「枯葉」アレンジ冒頭を聞いてください。

こういうふうに流れを感じたいんです。かっちりとした和声進行みたいな考えもあまりありません。「その時だけの表現」を作ろうとします。なお、調性音楽ではないため、厚みの部分は 実音化してしまっていますのでご了承ください。
塗り絵の枠と指定の色を無視して、いいな、と思う音を置くだけです。これは音楽表現ではなく自己発露、または意味のない表象覚環。
そこからまたさらにこの部分のアレンジを展開すると...


ガラスが溶けるような?木が一瞬で樹氷になるような音響的効果も加えながら、「氷の枯葉」の出来上がりです。ドラえもんの塗り絵なのに、浮かび上がってきたのはジョーカーだった、みたいなことが、本人も出来上がった後気が付きます。どこにでもある現代作品ですが、今の所自分が作りたい音楽表現て、こういう感じがメインのようなのです。最初に作ったアレンジがマザーメロディというもので、それを元にして後者のアレンジができています。最初と全く違うじゃん!でしょうが、あまり関係ありません。必然的にこうなるやろ、みたいなものすらないんです。
自分が言いたいことを推し進めていきながら、そこに生まれる音と出逢う快感です。見知らぬ土地の自転車旅に似ています。
my音楽方法論を創る
自分が表現したい音が、現行音楽理論と親和しないため自分のやり方を支援できる不定調性論を掘り下げました。

最初のこれは12音連関表の上方領域の構成音で、gの裏面領域の音です。

認識を変えるだけで感じ方、意味が変わるものです。
この時、c#はノケものではなく、gの"後ろ姿"です。
「一緒に鳴らすと響かない」しか学ばないと、別の側面が見えないのでは。
つまり、同じcでも

左から順に鳴っていきます。
なぜcとf#が裏領域になるのか、という話は割愛させて頂きます。
この時もちろん裏面領域音は別のシンセで鳴らしたり、より混じるような打楽器みたいなものを探したりなんでもありです。音に厚みをつけることでいくつもの 同じ音が生まれるんです。私が微分音に走らないのは、12音で十分に無限の組み合わせが可能だからです。あくまで私が認識できる範囲が狭いというだけの話なのかもしれませんが。
不安がなくなるように
cの上に薄ーくf#を載せると、ちょっとゾワゾワする印象が乗ります。
EQでf#を持ち上げたCメジャートライアド(イヤフォン推奨)
Cメジャートライアドのみ。

任意のf#に該当する音域を持ち上げてます。f#自体は鳴らしてません。
私は現代の12平均律を気に入っていて、この数学的な響きの実にこじんまりとした感じに親しみを覚えます。
かくかくしかじかあって、cを表として、e♭とaが側面、f#が裏、という体系ができました。


前出したこれはc,e,gのそれぞれの裏領域f#,a#,c#が鳴っているんですね。

この内声はGm7です。これは確か色々いじっていてこれが一番いい、みたいになったはずです。
拙論は下方倍音列を扱えるので、完全結合領域や和声の分子構造というアイディアから展開したベルトチェンジという考え方があって、Gm7はAm7のひっくり返したものだ、としています。Am7はC6ですから、Gm7はAm7の鏡写しになった和音、的な解説ができちゃいます。
一番最初に、私にとっての不定調性論の役割を
要は自分の不安を減らす"100%自己満実現ツール"です。
と書きました。
いつでもある程度論理的に説明できるような体系にしておくと、自分が置いた音の意味や正当性に不安にならなくて済むんです。
「別に不安になる必要ないじゃん」
と言われそうですが、私はどうも正体不明な音が置かれているのが不安のようで、その解消を求めて方法論にしただけです。あとで「名授けの行為」と書きました。全て1音を震わせると全てがつながるようにしておくことで責任が持てる、というか、それで全員家族になる、というか。ぼんやりとした無造作が禊をされ、自分の名の入った呪物になるような気がするわけです。人に聞かせるために曲を作っているわけではないので、そういう感じが必要だったのでしょう。これは最近気がついたことです。
みなさんはみなさんの精神性ががっつりグリップ&ドライブできる独自論を作っていただければ良いでしょう。
私の文法が、あなたの文法にそのまま該当するとは全く思いません。
文法のない世界で
あとは音を紡いで示すだけです。
Dm7-G7は悲しみにも喜びにもなる、言語を超えた表象覚です。
相手に伝えるのは、最後の最後は「自分がここにいるんだ」ということだけ、ですので、それ以上を伝える意味はあまりない、と私が感じているのだと思います。承認欲求もその一点だけに集約してます笑。

音は長さも強さも高さも重要です。少しでも違えば同じ意味を示すことはなく、だからといって、この音のこの強さのこの長さしかない、と感じたこともありません。今日こうなったことを受け入れていくだけです。
上記のような図画記号で示されるコトバとも言えます。いってみればこれが文字なのだと思います。
私が悲観を感じてPという響きを提出した時、あなたはこれは信頼だ、と受け取ったとしましょう。普通に考えて、悲観と信頼は異なる感情です。
しかし「悲観」や「信頼」という言語すら存在しなかった場合どうでしょう。

ここでの色で考えた時、

私が紫あたりの感情で発信したものが、あなたにとって緑だった訳です。
言葉がないと、その人が正確に何を感じているのか、個々人が解釈するしかありません。
紫を緑と受け取られても、最終的に互いが夜ぐっすり眠れるように交流すればそれでよし、とするタイプなのだと思います。精度の低いテレパシーの世界を楽しんでいます。こちらが悲しんでいる時、相手は喜んでもいいのです。結果的に放置しておいてくれれば自然に癒されます。こうしなければならないとか、こうするのが良いと言ったことが 状況に応じて、いつも目まぐるしく変わっている印象です。
せめて自分の部屋くらい、「売れないと...理解されないと...一定レベルの範囲にいないと...」みたいな同調圧力の外におかないと、自分が何を作りたいか、ということがはっきりしないのではないか、と思うのです。
不定調性論はレゴブロックのかけらがたくさん箱に入っているだけです。
そこから面白そうな形を選んであなたが何も考えず重ねていけばいいだけです。
私の場合は、以前学んだ箱庭セラピーみたいな感じです。作っていくことで心が整理されるのがなんだか楽しいみたいです。音を置いて、それを移動させて、組み合わせて、自分を探していくような作業が好きなのだと思います。誰かに伝えて「いいね」って言ってもらう行為も結局は承認欲求で、正確に意図を伝え、理解を求めるぶん、そうした音楽には文法が必要で、難しいことも多いです。日々音楽を作っているのでそれは理解しています。言葉のない世界において人はどうやって相手とコミュニケーションできるのだろう、とか考え、その時求められるのは、お互いの解釈の違いではなく、お互いが前に進めるような解釈を創造できるようになることではないかと思うのです。
現代はつながりすぎ、とも感じます。
曖昧でよくわからないもの、かつ渇望したけども手に入らないものは自分の中でストーリーになって活き活きと残りませんか?その真意をいちいち事実に向けて確かめなくてもあなたの人生は結構うまく進んでいくのではないでしょうか。
私のシステムどうこうというよりも、今あなたが作りたいと思うものを自分のやり方で作ってみるところから自分の文法を求めてみると、意外とすんなりと四方八方が決まってくるのではないでしょうか。
なお下記に(改めて)、
にて、さまざまな不定調性ツールを網羅していますので、これらの中からなんらかの皆さんのアイディアにつながるものがあれば幸いです。

