音楽教育活動奮闘記

不定調性論からの展開~音楽思考の玩具箱

プラシーボ的反応と独自論5〜キーワードは"ミステリアス"

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直感的な音楽制作を極めていくには、音楽的なクオリアを鍛えていくしかない」という当ブログの表現を実践するには、実際に音楽制作を直感的に制作する経験数を増やさなければならない、としてきました。

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直感的に物事を選択していく時、本当にそれが適切か、どういう結果になったら成功か、短期的には判別できません。現役時代のビートルズにもさまざまな問題がありました。今となっては、全てが伝説で、全てに意味が与えられています。

適切さ、を感じること自体を刹那的な直感的判断に委ねないと先に進めません。

 

制作時、そのフレーズを選んだことは正しいのか間違っているのか、なんて20年後もわからない、という意味です。

だからこそ間違っても正しくても、今適切だと感じたものを選んでやるしかないわけです。またそういうおかしな判断が瞬時に諦められて、自分が決めた決定で物事を先に進められる人が「音楽の才能がある」人である、とも言えます。

これは私が治るかどうかの問題だけじゃない。私はどんな人間になりたいか、私の人生をどんな物語にしたいかの問題なのだ。必要とあれば、希望を持った人間になるか、疑うばかりの人間になるか、自分で決めるしかない。

筆者が、より良いプラシーボ反応が起きるために、どんな精神で病と向き合うか、病を保ちながらでも幸福に生きるために、どういう考え方になっていけばいいか、ということを示唆した文章です。

これだけがプラシーボ反応に関わるわけではないのですが、普段から、自分で決めて、自分を受け入れ、非自己起因の自己現象(病になる)を自己として受け入れる=病を制御しようと試みる、ことで、非自己として攻撃的に病を死滅させるのではなく、自己として捉えた時に対応しやすい存在に病を体内に配置することで、応対しやすく(プラシーボ反応を妨げない)、コントロールしやすい存在に変えてしまう、という考えです。

 

例えば、五つのフレーズのアイディアから最適なものを瞬時にピックアップできる力を「共感識覚機能=Empathic Perception Function=EPF」とこのブログ用に用意しました。膨大に浮かぶクオリアの海から、より今この瞬間(過去も未来な今の一瞬にドバッとごった混ぜにしたような感覚)適切なものを選択する機能です。

論理的に選ぶのではなく、自分となんらかの共鳴を起こしているかいないかで瞬時に判断できるような機能です。明日のこととか昨日のことにフォーカスせず、今日も明日も昨日も全部今!っていう感じで捉える勢いにして判断しちゃいます。記憶や願望にフォーカスしちゃうと選べないし、選ぶクオリティが定まらない、と感じるからです。この辺の話はマインドフルネスの感覚を取り入れる、と思っていただければ間違いありません。

不協和の歪みを感じるか、協和性のある透明さを感じるかは、瞬時にわかるものです。

しかしこの未成熟な判断にがっかりする必要はありません。

正しいか間違いかは死んでしまうまでわからないし、それが判明する頃は全部どうでも良くなる、です。

 

こんなことずっと昔から言われている概念です。

bukkyouwakaru.com

 

ほとんどが間違っているかもしれなくても、自分で決めたことに責任とプライドが持てるからこそ、ゴリ押しもできるし、そこから生まれる問題と負けん気で全力で向き合えるので、結果として適切さを生み出しやすい要因になります。

それが自分で選んだ、ということの優位性です。

万人に効く薬がないなら、万人を殺す毒も存在しません。

 

この「できるはずがない選択肢から選別できる自己性」が共感識覚機能を働かせます。

「直感的に制作する経験数を増やす」というのは、直感的に下した判断の適切さ自体も直感的に判断する経験をしている、ことを意味しています。

これはあくまで自分にとっての適切さを選択する行為ですから、他人がなんと言おうと関係ありません。正しいことを選択するのではなく、共感すると感じたものに共鳴するだけです。だから誤りもあります。誤りはしょうがないんです。悔しいけど誤りは起きます。社会は誤り潔癖症ですからショック大きいですが、過ちを受け入れられるように自分で真剣に選択し今をちゃんと生きる以外ありません。

 

そこには「本当はよくわからない」という事実を受けれいるのではなく、正しさを求めるわけではなく、自分の全人生を通した共感識覚機能に従う、というだけです。

諦観に諦めて虚無感に晒されるわけではありません。世界に誠実に生きた結果を受け入れるのみです。

 

またそういう実用性が仏教の諦観よりも、サムライの諦観、ルパン三世の五右衛門の生き様、みたいなポップな感じになってきませんか?

「一生の不覚であった」と五右衛門は言いますが、これは解消されそうにありません。

www.otani.ac.jp

 

 

こうなると浮かんでくる概念は「不可解」「ミステリアス」という状態をいかに理解するか、という心の状態の獲得が大切になります。

 

実際素粒子の世界はミステリアスに(人が理解できない上のレベルでの愛に基づき)挙動します。その上で私たちは生きています。

自分たちの「不覚さを知る」、「ミステリアスを知る」、「ミステリアスであることを受け入れる」ことは(猫が世界に悩まず、ありのままに天寿を全うするように)、人間ができる最大の高次元の愛に対する理解だ、としてみるといろいろ解決します。

断言できないことはミステリアスであることを受け入れるしかありません。

 

自分の人生何でこうなったんだ!!

まさにミステリアスですね。

そうやって冷静になると、全部自分が臆病だったから、とか気が付けたりします。

同時に誰かのせいにすることも、不条理のせいにすることもできます。苦しみたい人は何年も苦しんで満足するでしょうし、それは個人の気質がどのように問題解決をしたいかにかかっているので、自分でそれを選ぶなら仕方ありません。

 

ミステリアス=恐怖、違和感、不安

ではなく

ミステリアス=一番真理に近いところを見た。

です。 もちろん実際の犯罪や事件でミステリアスにとどめ、解決への手段を緩めてはいけませんが。

二次元に生きる人は、三次元の世界を理解できないように、私たちの次元にふっと顔を出す幽霊の正体など実は分からなくて当たり前、とすると、そこで悩むのは、猫じゃらしが飼い主の手と同期してるのか、と猫が悩んで遊ばなくなるようなものです。

 

電子が確率でしかその存在を露わにしないように、世の中の不思議も、自分たちの見えない世界、絶対人間では理解できない法則がより高い次元に存在しているようなので、我々は猫じゃらしに悩む猫とさほど変わりません。

 

今あなたが感じている「漠然とした不安」は「世界のミステリアス」を感じ取れているだけで、それは得体の知れない不安や危険な前兆ではなく、ちょっと人間が見ることのできる世界の真実の限界が作る限界を敏感に感じ取っているだけ、とも言えます。

 

一般には、心の病、気の迷い、不安症...そういったものは表面では同情されてもどこか「打たれ弱い人間」のようなイメージを持つのが慣例になっているように感じます。

たとえば、私たちは心の病気はからだの病気に比べると実体がないような気がして、精神科医は外科医や産科医と同じ意味での医師ではないという感じを抱いてきた。私たちは一般に、心が「影響されやすい)」人、特にその心の変化に体が影響受けてしまう人 (中略)を見下す傾向がある。

苦しみを感じる人は「素直でまっすぐな人」であり、本当は人間は何も知ってはいない、という基本的なことにフォーカスできている人、とも言えます。

 

直感に頼るのは愚策、かも知れませんが、少ない判断材料で人はなんとか生きていかなければならないので、論理的に向き合おうが、直感で向き合おうが、五十歩百歩になるケースも多かろうと感じます。

 

ゆえに、悩んでも「人生ミステリアスだからしゃーない」と割り切れると、とりあえずどんどん前には進めます。いずれ全て解決(淘汰)しますし。そのスキルが、

直感的に下した判断の適切さ自体も直感的に判断する経験をしている

と先に示した文に該当します。だから不安症の人も、少し手放す、というか、

直感的に下した判断の不適切さを直感的に判別できる経験を積んでみてはいかがでしょうか。不協和なものを「不協和なもの」として割り切って忘れてください。

「なんでこんな不協和なんだ」を解明しようとすると、あらゆる情報を分析しなければなりませんし、それは不可能です。

 

体がなんとか健常に生きようとして行っている結果、ときには頭が痛くなり、ときには肩が凝ります。そしてときには重い病気を引き起こすことで、それを癒すと同時に、生き方まで正してくれます。

病も,より健全になるための過程かもしれません。協和と不協和はそこで連動しており、共感した結果と、不協和として結果を受け入れるしか人間にはできません。それらに一貫性を持たせるための訓練が、音楽的なクオリアの訓練であり、毎日の直感的選択とそれに責任を持つ、という行為の繰り返しになります。

 

 

もし人が病を克服したら、世界から「美しさ」を感じる感情も消える(衰える)かもしれませんね。ミステリアスである恐怖を感じる代わりの感情が「美しさを感じる感覚」で、麻薬にでも侵されたような甘美な感情なのかも、と思えてきました。

 

 

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