これまで和音進行に対する心象を言語化して表現してきました。
「この和音は早暁の希望と不安だ」みたいに。
これは自分の制作意欲を掻き立てるためには相変わらず重要ですが、こうした音楽の情感についての表現を外に向かって言語化した瞬間に多くを失います。
言葉で説明することはバイアスをたくさん含み、逆に何だかよく分からなくなってしまうため、こうしたことは多くの人が発信することを控えています。結局は自分がそれで音楽を作れればいい、という創作作業のためのセッションだからでしょう。
最終的に音楽を理解してもらえなければ意味がないのですから。
一方、自分に対して音の心象を言語化することは、音楽分析ではないし、刹那的な制作のためのアクセルでしかありません。
そこで言語化の前段階で「音の関係性そのもの」を記号として写し取る作業をそこに置いておくと、質感の構造を模擬的・静的に表すことができる、ということに気がつきました。
この記事では「クオリアの記号化」がどのように不定調性音楽理解に有意義に働くのか、を示していきます*1。
記号化の意味
私が和音を独自記号で示しているのは、和音そのものを「確定した意味」に押し込めるためではありません。むしろ、外在化(externalization)・中間表象(intermediate representation)・分散認知(distributed cognition)という三つの認知概念に近い働きを意図しています。
まず、音の印象やクオリアは時間の流れを伴い、かつ聞き手の感情で一瞬で変化しやすく、言語化するとその意味が固定されすぎてしまいます。そこで記号として外部に置くことで、感覚の流れを止めずに素材だけを外に逃がすことができます。
これが仮の固定、いわば「仮固定(provisional fixation)」の役割です。
仮固定の利点は、曖昧さを保ったまま後から再解釈できる点にあります。和音を既存のコードネームに無理に当てはめず、複雑さに対する警戒も生じません。自分の内部生成に基づいた判断がそのまま記号として残るため、後にパターンや対称性を分析するときも負荷が少なく、音楽的な発想の連続性が保たれます。
つまり私の記号化は、和音を決めつけないまま保持できる中間的な容器として機能します。この仮固定構造によって、直観と分析を無理なく往復できる作業環境が生まれ、創作の流れが乱れません*2
音楽の“感じ”は具有化しづらい
音楽の情感を言語だけで共有することは、本質的に難しいです。
それが明らかに「悲しい旋律だ」と理解できるなら問題はありませんが、不定調性や無調の旋律では、「なんとなくの雰囲気」しか共有できないことも多く、言語化して伝える方法が十分に機能しないことが多いです。
数学的・幾何学的・偶然性に基づいて造られた旋律であれば、なおさら情感を把握しづらく、「そもそもどのように受け取ればいいのか」というところから迷います。
そのため、作り手が「ここは悲しい旋律だ」と述べても、聴き手は「私にはむしろ優しく感じられる」といった全く異なる解釈が提示されても会話が成り立ってしまうことすらあります。
情感を言語に置き換えた瞬間、その言語がすでに各人固有の独自論的な記号として機能してしまっているわけです。
あなたの「悲しい」が私の「優しい」へ簡単に反転変換し得る世界の中で、私たちは音楽を共有しています。この感じは、芸術批評の自由さなのだと思いますが、私自身はどこか落ち着かず…もう一歩踏み込んでみたい気持ちが強いです。
もし言語が個人の独自論に左右される性質があり、互いにそれが容認できるなら、言語化に頼る前段階で、個々の感情語のバイアスに影響されない「音の関係性を写し取る記号化(既存体系とは異なる独自の方法)」があっても良いのではないかな、と感じたことが、記号化の方法を組み立てていく出発点といえます。
記号化:言語の前段階で写し取れるクオリア
言語による情感表現が個人ごとの解釈に大きく左右され、それらを互いに了承できるのであれば、その前段階で、その情感に至る要素を含んでいると思われる何らかの音同士の関係性を写し取った表記があっても良いでしょう。
その一つが、私が使っている独自の記号化です。
この記号体系は、不定調性論の12音連関表を基盤として作っています。
つまり、一般的な楽典やセット理論とは異なり、私自身が音を置いたときに無意識に生まれる関係性(時に意図して関係性を置くこともある)を、一貫した個人の方法論から生まれた関係性で構築し直す道具になっています。
よって、この体系自体が普遍的な記述方法になる必要はありません。あくまで制作時によぎった膨大なクオリアの痕跡を、何らかの軸をもとに抽出する個人的な方法として機能すればいいんです。その先で自由に言語化しても、その言語化をパフォーマンスとして捉えることも読解の道具として捉えることも自由に解釈できます。
クオリアを記号化してもそこに 絶対性があるわけではなく、かつ感情や言語にしない メリットの方が大きいと考えます。
早速、前回作成した楽曲のラストの部分で実践してみましょう。

この部分、情感で表現せよ、と言われても「早暁の希望と不安」としか言いようがありません。それ以上考えて作っていませんし、先に手が動いているので、自分のクオリアに追い付いてすらいないまま音を置き、推敲しながら、"この音よりこっちがいい..."と選んで完成させています。
同部分、記号体系の解釈例として下記のような形になります。

記号化すると、「早暁の希望と不安」という情感語は完全に脱落します。
残るのは、音の並びを支えていた関係性のパーツだけです。
この旋律は、
_r5Ap↓:d#〜
/.⌠A\ ‾ d#(Dlaual ‾
.+⌡B̆ ‾ CMh4 ‾
F̆⌠+‾ CMh4 ‾ G#h/
.+√A\‾ F#mxo(f ‾ G\ ‾
_r0Ap/a#〜 _r1Ap:b〜 Gh‾
\F#\ ‾
とか、
_r0Ap/a#〜.+√A\‾ F̆⌠+‾ .+⌡B̆ ‾/.⌠A\ ‾
_r5Ap↓:d#〜d#(Dlaual ‾CMh4 ‾CMh4 ‾F#mxo(f ‾
_r1Ap:b〜\F#\ ‾Gh‾ G\ ‾G#h/
とテキストで全部打てます。
たとえるなら、完成した車を分解し、内部のネジそのものを手に取って眺めているような状態です。
ネジ単体を見ても車の姿はわかりませんが、そのネジが確かに車を構成していたことに間違いはないです。
記号化で行っているのも、まさにこの「パーツの取り出し」です。その旋律が持つ、
・類似性
・対称性
・関係の反復
・不意に現れる特異点
など、将来情感に組み立てられていく要素に対する関係性の可視化です。
「悲しい響き」と言ってしまうと聞き手は即自己の感性による言語化を自動的に組み換えてしまうのですが、記号化された状態は、そうした思考の急進を少し打ち留めます。
記号によって、そう記号化した人の無意識の癖や、好むクオリアの陰影が静かに現れてきます。
何か宣言するよりこういう表記での表出の方が好き、という私の気質にすぎない、と言えばそれまでなのですが。
記号化によって開く、伝統的分析の「奥」
伝統的な形態分析が捉えてきたのは、あくまで音楽の骨格でした。
しかしCM7 DM7と流れた時、
C-u5 → -Q-u5
なのか
./5^/.5 → \.5^D5
なのかは表記してもらうまで意図がわかりません。
記号化は言語に翻訳する前の段階に留まり、
・どの音程関係が選ばれたのか
・どこに反復やゆらぎがあるのか
・どの瞬間に特異な組み合わせが現れたのか
といった、音楽の内部で起きている「状態そのもの」を表示できます。この段階では情感語は完全に不在です。どこを起点に自由に解釈させたいかを選べます。
聴き手側も、記号化された関係性を前にすると、作り手の感情語に影響されず、自分自身の経験・感性によって音を解釈する自由が保たれます。
「音楽を説明する」ことに代わって、音の選ばれ方と関係性の作り方を見つめる、より静かな解釈手段としての記号化。
何らかの解釈をしなければならない時に寄りかかる肘立てのような役割を果たしてくれます。
不定調性記号分析のまとめっぽい話
言語化はクオリアの構造を失わせる
頭に何となしに浮かんだクオリアを言語に置き換えると、その瞬間に意味が一方向へ固定化され、個々の質感は大きく欠落します。
「朗らかさ」とか「焦燥感」といった語は、その人のその時点の感情と経験に強く依存しており、他者に正確に伝わりません。
さらに、言語化した瞬間「解釈の限界」を先に決めてしまうため、クオリア本来の曖昧で多次元的な情報量が消えてしまいます。
クオリアを“構造”として保存する
そこで、言語ではなく、音の関係性の記号化によって、クオリアのより確かな痕跡を抽象的な構造記号として代替させ表記の上で保持します。
「赤が赤っぽく感じる質感」のように、言語では表現しにくい質感も、記号化することで言語的意味を付けずにその質感自体を写し取るような作業に代替できるのです。
この段階では「赤っぽい質感」の具体的体感についての解説は書かれず、記号だけが意味を与えられないまま配置されます。
d#(Dlaual
と書かれた時、これが「赤っぽい質感」を感じた結果の記号となり、「これのどこが赤っぽい質感」なのか分からずとも、その後で私が「これは赤っぽい質感」と言えば、私の言語化された語はあまり意味を持たず、このd#(Dlaualという記号の方が優先されます。この時「赤っぽい質感」は限界点ではなく、その記号から滲み出た一つの表現の選択肢に過ぎないことが確定するのです。言語化された表現が結論にならず、常に説明の一端にしかならない、というのが本来言語化された説明にあるべき姿だと思うのです。
そもそも「早暁のオレンジ色」を適切に音にすることは難しいです。絵の具を使うのとは違い、作り手側が意識してそれを主張しないと、それが決まりません。
私が「よし」とした音をそれ以上説明する必要はなく、説明は大体を瓦解させます。
だからクオリアは言語にするのではなく、構造にして固定した方が、クオリアの「元形」に近い形で情報を保存できます。
無作為な音の塊にも秩序が立ち現れる
鍵盤を肘で叩いたようなクラスターでも、記号化すればu5の集合にもul4の集合にも解釈次第でいくらでも組み合わせられます。小学生のクラスを何人かに分ける時、男女で分けるか、成績別で分けるか、得意分野で分けるか、住んでいる地域で分けるか、かけっこの速さで分けるか、それは前後の文脈によって変わります。
音楽における前後の文脈はさらに重要です。
Cm-G7-CmのG7と
C-G-CのG7では
響いた感じから受ける心象が異なります。
私なら今日のところは前者はBhw\、後者は/Fhqです。
これらの相違を言語で表現すると、意味が固定されてしまいますし、ありきたりな日常語で示したところで、その分析が適切に収まる場所がありません。音楽はそうした批評を安易に受け付けないレベルで機能していると私も信じているからです。
そこで、前後関係から生まれるクオリアを抽象的に記号化することで、どう感じるべきか、どう感じたかというはっきりとした結論や限界を提示・固定しないままに、可能性や解釈の方向性だけを主張・表記できます。
この行為は、クオリアという存在の表現に言語より少しだけふさわしいのではないか、と感じます。そのクオリアを適切にどこまでもじっくり絵が描けるのであれば、その方が良いかもしれません。
記号化は個人固有のクオリアを扱うための方法
音存在の選別記号化は普遍化のための道具ではなく、個人ごとの音楽経験や癖を忠実に残す記録媒体となってくれます。
同じ音集合でも、記号化したときに生まれる差異は、個性の無意識の表明になります。その記号化自体もクオリアで選んでいくので「なんとなくこれかな」という「結論ではなく応答(a structural response to qualia)」をすることで生を紡いでいく感じです。
記号化は、言語では扱えない個人固有の質感を保持しやすく、回答を出さずとも比較的いきいきと心のうちに広がる体感を簡潔に表現しやすいと思うのです。
あとはどんな記号にするか、どんな応答をするか、は各人の独自論に基づいた体系から導き出せば良いと思います。だいたいは「黙っているのが一番」ですけどね。
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現代音楽は、クオリアの記号化を行わなかったために、意味が肥大し、押し出せないポンプのようになっているのではないでしょうか。そんな重くなり過ぎた存在を横目に、地下アイドルソングなどの簡潔でシンプルで荒っぽい構造が、作り手と演じ手とファンによる記号化が量産され、共有され、難解な現代音楽が得るはずだった支持層を獲得し、商業的に成り立つ文化にまでなってしまったのは痛快です。
私はどちらの音楽も作れませんが、やっていることは、二つの音楽文化が育てた美味しいところを自分の独自論でできる範囲に吸収し、発信しているものです。
この先がもっとあると思うので、できないなりに勉強していきます。
*1:参考になるだろうと考えているのは、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』です。クオリアの非言語表現を追いかけていて、考え方が一致する点を何となく感じました。難しくて理解が及びませんが、「前言語的な知覚」は、クオリアを記号として扱う発想に何となく通じる気がします。合わせて記号化についてはS.ランガーの芸術記号論と親和すると思います。ランガーが行わなかった実務的な記号化についての考え方を提示しているつもりになっていてすみません
*2:
仮固定(provisional fixation)とは完全な意味づけ・分類・言語化を行う前に、知覚内容を一旦外部に保持する手続きを指します。
・完全には定義しない → 意味を閉じずに残す。
・しかし保持はする→ 二度と同じ形で戻らないクオリアを外在化する。
・後から再解釈・再構造化が可能→ 外部に残っているため、別のモードで分析できる。
曖昧さと可塑性を保ったまま固定するという性質が特徴です。
仮固定の意義としては、
・認知負荷の軽減→ 人間の脳は、曖昧な知覚を保持し続けると疲労が大きくなります。
仮固定をすると、この負荷が外部に移動し、脳内の負担が大幅に減少します。
・創造的アイデアの流出を防ぐ→ 直観的な気づきやクオリアは、数秒で消えることがあります。仮固定は、消える前にすくい取るための網として機能します。
・意味を過剰に固定化しない→ 言語化すると「意味が決まりすぎる」ため、創造性を失います。仮固定は、開かれた意味のまま保持できます。