音楽教育活動奮闘記

不定調性論からの展開~音楽思考の玩具箱

関係性に響くということ〜関係性共感覚と戯れる(原理編4)

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これがラストです。不定調性和声の不可解さ、不協和さ、それを内観的に作っている自分の行為は一体何をしているのか、という点に説明を詰めていきます。ほとんどの人に不必要な内容なので、あらかじめご了承ください。

以後、またここから自分の作品なり、自分の哲学の有り様を見つめ直していきたいと思います。

 

はじめに

自分が好きな曲に“意味”を感じること、それが“自分の音楽”になる瞬間ですね。

ただそれが音楽理論の中の概念に入り込んでくることに少し無理を感じていました。

ドミナントコードがトニックへと進行すると、その瞬間に「緊張から解決へ」といった

心象を感じるからこれは正当なのだ、的に覚えます。

これ自体は文化的に奨励された、"ただしい"音楽の聴き方でしょう。

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和音の進行に情緒や、エモさ、過去作の体験、現代での必然性等を感じ、自由に解釈します。

意味を感じること自体は、人間の生存を維持するための欲求とされますから、それを否定するわけではありません。

情緒に行き着く前の段階で、音と音との関係性を冷静に見つめる段階が抜け落ちていたのではないか、と感じるのです。

 

これをここでは「関係性共感覚」と呼び、その動詞として「関係性に響く」という表現をここでは用いてみたいと思います。

先に結論を述べておくと、

Gsus4→Cm

は、同じ相似系の中の回転した和音の連鎖である(とこの記事で最後に示します)、とい"関係性の発見をした"後で、この流れを聞いた人々が、この憂いを持った流れはまるで哀しみの静かなカタルシスのようだ、と感じる、という順序があっても良かったのかな、と思ったわけです。

これまで音楽に感じてきたような意味に溺れず、音が自身に与える関係性に心を響かせてみます。

 

 

関係性に響くとは

例えば、この図は、赤い丸と緑の三角です。

しかし、見ようによっては太陽と山のようにも見えます。これは意味づけです。

ここではこれをあまりしないようにします。意味を感じても、意味を感じようとする自分をなだめて、沈めて、手放します。

常に赤い丸と緑の三角がある、という事実に戻ってください。

今そこにはただの関係性だけがあります

「いま、それがそこにある事実」に降りてきます。今この時に自分を着地させます。マインドフルネスと同じ原理です。

なぜ生まれたか、誰がどんな意図で作ったかとか考えません。

 

 

猫と私の関係

猫と私を考えてみましょう。

ฅ^_ω_^ฅネンネ,ネンネ

 

私とミーくんは今、同じ空間にいます。

ただそれだけです。「同じ時間を生きている」だけです。

それ以上を考える必要もありません。

この時、関係性に響いています。そこにあることを許し、同化することが関係性に響くということなのではないかと感じます。

他の様々な場面でも、意味を介さずに“共にある”ことができます。たとえば、電車で隣に座った人に、イメージや意味をあてがう前に、何も心を敏感に反応せず、ただ同じ方向を見てみた、というとき。
こうした関係性に“響く”ことは、意味を急いで求める態度とは異なる、もう一つの現実の知覚の仕方です。「本来の情緒」かもしれません。

 

関係性は、意味の種ともいえます。構造主義の視点から言えば、意味は個別の実体ではなく、差異や配置といった関係性によって生まれるとされます(ソシュール、レヴィ=ストロースほか)。音楽においても、和音や音高の意味はその文脈的な位置関係によって形づくられるため、関係性の探究は意味の生成に不可欠な要素と言えるでしょう。

 

関係性を作ってしまえば、意味は比較的冷静に求めることができます。意味と関係性を切り離して意味自体は自由に想像することもできると思います。

 

さて、これはいよいよ日本人にはおなじみの「禅」という行為にまでたどり着いてしまいます。

 

改めて、「関係性に響く」とは、構造的な気づきと、その構造との感覚的共鳴、そしてその再編成を伴う創造的知覚を兼ねた姿勢を指します。

 

 

愉憩心観に佇む

ただ座禅を組む「只管打坐」は究極です。心の修練をしたい方にはいいでしょうが、私はもう少し戯れたいので、「愉憩心観(ゆけいしんかん)に佇む」くらいでいいです。

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今思えば、そういう意図で作っていた音楽はありました。

私は12音連関表という構造において、音に位置を与えました。

ただなんとなく音を感じるだけでは、意味に心がすぐに掻き乱されます。

そこで、具体的に自分なりに描いた関係性モデルを真ん中に置ければ、意味を感じた時、スッと心の側溝に流していけるように感じます。これは訓練が必要なのかもしれませんが、日本人には相性がいいのではないか、とも思います。

 

そしてモデルがあれば、関係性が具体化されます。

本来ただの空気の振動を、「位置関係」の結果として眺められます。

関係性自体を創造しながら、音集合を連鎖させます。

意味づけは、秩序や夢、方向感覚を与えてくれる反面、「枠」も作ります。

G7がCに進行するドミナントモーションに「緊張から解決」という意味を与えます。

 

 

12音連関表モデルを例に〜意味を手放すための関係性の発見

ここで述べる“意味を手放す”という態度は、意味獲得行為自体を否定するものではありません。むしろ、音楽を聞けば意味とは自然に立ち上がってしまうものだと認めています。
だからこそ、それに即座に飛びついて消費するのではなく、より静的な関係性に一度、意識を澄ませてみる。それがわかった後でも意味は味わえる、そんな“デザートのようなもの”として意味獲得の行為への執着を少し手放してみてください。

自分にとってはこれが意味に代替されるものです。

実際は、もっと立体的に多次元的に表されるのかもしれませんが、私はそのような構造を理解できるレベルにありません。

目的は意味を感じることを二次的にできればよかったのです。そして、この連関表モデルで関係性を見いだす事は、十分に意味を感じることを二次的にすることができました。

 

私でない他の人であればまた違うモデルになるでしょうし、また違うやり方で意味を生みづらい関係性を把握することができるかと思います。

これが連関表に落とし込まれたG7→Cです。fはbの裏領域とできます。中心音が変化します。

 

もちろん下記のようにcの図表に二つの和音を落とし込むことも紹介してきました。

G7はcの上下の領域から挟んで連鎖します。ただこれだと関係性を見出しづらいです。これはただG7からCという動きを図表の中に表現したに過ぎません。

これだと意味合いをすぐ探してしまい、私には古来からの慣習感覚への依存が強くなってしまいます。

 

次を見てください。

これはB7→CとE7→Cです。どちらもそんなに実際の楽曲で出てきません。でも同じ7thタイプですから形はG7→Cと同じです。

ここに生まれるのが関係性です。

意味や感情に流される前に、この関係性があることを自分に響かせます。

この時音楽的なクオリアは、この関係性自体にチューニングされています。

そこにはパターン、対称性、類似性、写像性が見えるだけです。

あとはその関係性を感じることを拡張していきます。必ず創作とセットです。

ここには1つの形が旋回しながら、別の音集合になっていく関係性を見ることができます。この時私は意味ではなく、関係性を作り、その関係性を眺めていることになります。この和音が旋回する進行を作る時、そこには意味を求めず、ただ関係性があると理解します。

 

もう少し具体例を見てみましょう。

 

 

クリシェや同主調和音への変化

今度は連関表を拡張し、音集合を中心にした音の動きの関係性を見てみたいと思います。

以前も示したかもしれませんが、これは、

C→CM7→C7→C6の流れを関係性で結びつけたものです。Cu5にbが追加され、それがa#→aに動いていくのがクリシェです(シャープ表記で書いています。音楽的な表現のルーズさをお許しください)。ここに関係性を見出しましょう。

これは今見つけた構成音の動きを、cの外縁全体に拡張したものです。シーメジャーを鳴らしながら、緑のセルの音を順に拾っていってください。不定調性的な今、見つけた関係性によるクリシェの拡張版が出来上がります。

メジャーコードのクリシェは、このモデルでは、その縁を彩るような音によって構成されていたことになります。

もちろん、これらの音をクリシェの音に乗せて弾いても不協和に感じたり、関連性がないように感じたりします。

しかし、関連性がないと感じるのは、私たちの文化における慣習がもたらす意味感覚が主体になるからであり、関係性のみを純粋に見たとき、このモデルではこのような関係性がただあると言うだけです。

これは私自身が容認したモデルですから、そのモデルが生み出す関係性は、私しかそこに関係性を見出せる人はいません。

そもそも音楽を批評する土台も、個々人の何らかのモデルが根拠になっているので、それらのモデルが完全に一致していない限り、人の好みが全く違うのは当然といえます。

批評や哲学は絶対に消費尽くされません。

個々人が異なる存在だから、絶対的な真理で合意点を見つけることができないため、結果として哲学自体がビジネスになってしまいます。

 

また、上記の関係性の構築において、その外縁で選ばれていない角斜めに位置する、dやb、g#やfなどを選択するか否かと言うことも、その個人が感じる関係性との相性=音楽的なクオリアに基づく、で設定がされると思います。しかし、これらの音は他の部分で出てくるため、この選択をするか否かを考える必要はそんなにないことも感じます。

 

この時モデルから音を選ぼうとする感覚は、対称性や類似性、連続性や相似性などといった関係性に響くことによって選択しますので、イメージや感情は無視できます。

 

こうした動機とこうした行為と、それによる表現行動の一連のはたらきを関係性共感覚とよんでも良いのではないでしょうか。

 

もう一つ例を見ましょう。下記は

Cm7(b5)→BM7というよくある流れです。

このときcは半音下降しています。右斜め下に降りた、ともいえます。二つの関係性が作れます。

<他の音が半音降りた場合>

このように作れます。

Cm7(b5)→BM7

Cm7(b5)→Daug7

Cm7(b5)→F7sus4

Cm7(b5)→Cdim7

などがここに現れます。Cm7(b5)→F7sus4は単なるII-Vです。すなわち、Cm7(b5)→BM7という流れは、短調におけるII-Vと類似した変化形状である、と関係性に響かせることもできます。

 

<他の音が右下に降りた場合>

これについては、重ね合わせが行われている連関表の2つの状況において作ってみました。先程と類似性があったり、構成音が少なくなるような状況も起きたり面白いです。

これらの関係性は最初に示した和音進行との相似形、類似性といったポイントに響かせます。その和音変化が、従来の理論的、コード理論的?なものとは関係なく行われることを確認することで、純粋に関係性だけに気持ちを響かせることができます。

 

調性に縛られない和音進行をフラットに理解するには、こうした自作の表における関係性の理解(=表などなくても独自論があれば良い)が自分だけの理解を押し進めてくれます。

 

何度も述べますが、音楽を作るときに、連関表で関係性を確認しながら作る、ということはしません。音楽を作るときは、音楽的なクオリアに自然に従うだけです。その過程で意味を求めすぎない関係性自体に響いてみると、言うバランスが取れることで、音楽が伝統的になりすぎず、その時だけの独りよがりになりすぎないバランスを作ることができると思うのです。

 

 

リディアンクロマチックコンセプトにおける調性引力に基づく序列を作る

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LCCで現れる、

C G D A E B F# G# D# A# F C#

という序列のモデルを作ってみましょう。

連関表の重ね合わせモデルで、この序列を作ってみます。

朧げながらこんな対称性が見えてきます。これを重ね合わせの連関表のフォルムからみると、

二つのモデルを分割すると、同じフォルムが見えてきます。12音を使ったから当然なのですが、LCCは12音の序列を作ろうとしていますが、それらを不定調性論における裏領域の重ね合わせのフォルムの中で動かす特定の旋回性、対称性とする、と新たなLCCが生まれそうでもあります。

LCCでもf#は

C  G    D   A  E  B

F# G# D# A# F C#

という感じで6音の列の基準になっています。

ただその次がg-g#、d-d#と半音の関係になっています。そして最後にc#が来る、というモデルに、当時は対称性の崩れを多くの人が感じたわけです。

こんな不恰好な序列が真理ではないはずだ、なんて感じたものです。

ただラッセル氏の独自論、として、そのフォルムを個々人が自分のモデルで翻訳すれば良いだけの話です。LCCは下方倍音を認めないので、c#がcから一番アウトゴーイングである、とせざるを得なかったのですが、c#がgの裏領域だ、とすれば、一番遠いけど、gの裏であり、c#→cは強い解決力を持っているが、上方領域が基準になるので、

一番遠いが裏口でつながっている、というようなニュアンスで方法論を組み立てることもできるでしょう。

二つの領域の中に序列を作っていたので一見大きな序列でしたが、上記のようなフォルムを設け、その中で規則的に、対称的にcへの連鎖が続いて行くモデルだ、と自分のモデルを探り当てられれば、方法論自体は難しくなくなります。

こういう旋回性、対称性で閉じているモデルなのだ、とすれば、あとは自分のやり方との比較です。

何もないままに他者の方法論をイメージだけで断じるのはクリエイティブではありません。

 

当然もっと立体的に考える人には違うモデルが浮かぶでしょうし、私より洗練された人なら、より優雅なモデルを生み出すでしょう。

 

数学や自然科学が再現性や客観性を重視するのに対し、音楽や芸術のような創造的表現の領域では、異なる価値観に基づいた多様な解釈や成果が並立することが可能です。このような多元的な成果の共存が、人間の創造性の豊かさを物語っているのではないでしょうか。

 

 

 

関係性表例

これは連関表モデルをcを中心に三和音の構成音において左旋回していったときに生まれる、相似性、旋回性を示しています(原理編1,2参照)。

同じ対称性を持つグループが色分けされています。

3 × 4のマスを渦巻き状に旋回させるので、いびつな関係性が生まれるのが面白いです。この関係性自体は私が望んだものではありませんが、私が自分で精密に作った12音連関表が作り出したモデルにおいて発生した関係性ですから、自分が音楽を考える手段を講じるとき、また使うでしょう。この関係性は、私が望んだものでも、私にとって美しいと言えるものではにかもしれませんが、私のモデルから生まれた仕組みであり、これを名付けるならばやはり個性でしょう。

旅は道連れと言いますが、私が出会ったモデルの構造を用いて、私の表現世界を作るというのは、その風土に合った木材で家を建てるような不思議な一体感や相性を感じます。

 

 

関係性と情緒を分ける

ここではi-ii#-V=Cmと、i-ii-v=Gsus4は同じ相似形にあります。

だから私のモデルでは

Gsus4→Cm

というのは同じ相似系のCを中心にしたモデルにおける回転進行である、ということができます。

(参考)

このとき、この和音が生み出す解決感とか、情緒は考えません。関係性を感じるだけです。そして、いざ音楽表現において用いる、となれば、歌詞も情緒もそれが繰り出す感情的演出が欠かせません。だからドミナントモーションは、楽曲の表現において、解決にもなれば、散乱にもなり、正義にもなれば、嘘にもなります。

ダイアトニックコードにおけるV-Iの流れは、さまざまな歴史のうねりを経て、西欧かぶれの人々の音楽表現において終止を示すものになりました。

ただ、本当にそれがあなたの音楽においてもそうなのか、正義なのか、正しいのか、についてはちゃんと考えないと、「理論に従った曲のダサさ」を生むだけです。

本当にそれがあなたにとってそうなのか、自分にとってなにがそれか。

という関係性が最初からわかっている人が若くして音楽で食べてゆけます。

 

ただ、もし理論書の言葉、音楽に限らず人から教わった社会的知識や常識に疑問を感じたとき、対自分と社会との関係性を見つけてみると、それが自分だけの理解なのか、誰からか影響を受けた学びなのか、ただそう思いたいから言ってるだけなのか、はっきりしてくると思います。そして、自分だけの関係性が明らかになればなるほど、他者が自分と違うのは当然であり、自分の主張を通すことに熱心にならずとも、自然と物事が流れていくことを知ってしまいます。それがベストとは思いませんが、もし社会に対してストレスばかり抱えるようであれば、一度丁寧に自分の関係性モデルを考えてみると良いのではないでしょうか。ひょっとするとずれているのはあなたの方かもしれません。

 

独自論の深化がもたらすもの

あなたの表現活動に社会的ニーズがなかったとしても、それはあなたの表現が独自性を持っていたというだけです。

そこからあなたは、他者からのニーズを求めず、自分自身の表現活動を深めていく必要があると思います(ニーズは応られる人に任せましょう)。

そのために仕事が必要であれば別途仕事をして、それでも自分自身の表現活動を追求できるのであれば、これまであなたが追求してきた表現活動の方法は、そこで初めてあなただけに活きてくるのではないでしょうか。一般化を求めるならその先であり、その過程で学問納め、しっかりと学号をちゃん修めないと、社会は何の知識を支持してくれません。

 

それを切り替えるのに、必要な概念が独自論と言う概念です。

あなたはあなたにしか通用しない方法をこれまで開発していたのです。

これからのあなたの表現方法はこれまで追求してきた独自論をさらに探求/追求することによって磨かれていくんです。

あなたの作品世界は、あなたがご自身の独自論に目覚めたとき再スタートします。

社会的地位とは無縁の、ミニマムな音楽人生になると思いますが(著名になる云々は単なる巡り合わせです-死ぬほど努力して運悪く涙を呑んだ人をたくさん送ってきました)、自分の道になりふり構わず、突き進んで、自分を極めたら、誰かの役に立とうとしてた時よりも、支えてくれる人は増えると思います。私自身そうでした(個人の気質もある)。

 

これからは自分が食べるものを、自分の家の畑で作る活動になります。

一つのトマトを知人にあげた時の満足感から、自分の音楽をReHomeしましょう。