音楽教育活動奮闘記

不定調性論からの展開~音楽思考の玩具箱

関係性に響くということ〜関係性共感覚と戯れる(原理編4)

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ドミナントコードがトニックへと進行すると、その瞬間に「緊張から解決へ」といった

心象を感じるからこれは正当なのだ、的に覚えます。

これ自体は文化的に奨励された、"ただしい"音楽の聴き方でしょう。

そう感じて、そう答えていれば、社会的に認められ、同時に承認欲求も満たされます。

そしていつの間にか自分の偏った本来の自己を失います。
というか、反社会的な自分を隠すことができる、抑えることができる、と言った方が適切かもしれません。そういう意味で自分の欲望を抑え込むこと/悪いと思うことが社会的奨励される欲望もあります。しかし同時に本来の自分が歪んでしまい、その悪い欲望から錬磨されるはずだった才能も消えてしまいます。結果として不安や不満が募ります。

 

そうならないように、普段から自分がどう感じるか、自分が今どういう状態なのかを素直に受け入れ、そこで過ごす自分の中から湧き出る本来の自分の欲望を社会的に通用する才能に練磨していく習慣が必要になります。

「普段からどう感じるか」は拙論では音楽的なクオリアという形で注視しています。

ここでは「自分が今どういう状態なのかを素直に受け入れ」という部分を考えてみましょう。これまで書いてきた記号や読み解き、そして音自体に接する時、どのような態度を取れば自分らしくあるか、を導き出す一つのヒントです。

 

意味を感じること自体は、人間の生存を維持するための欲求とされますから、それを否定するわけではありません。ここで言いたいのは「すぐさま意味に飛びつくな」ということだと思います。

理論・情緒に行き着く前の段階で、音と音との関係性と冷静に向き合う段階が抜け落ちやすいのではないか、と感じるのです。

 

これをここでは「関係性共感覚」と呼び、その動詞として「関係性に響く」という表現をここでは用いてみたいと思います。

 

先に結論を述べておくと、

Gsus4→Cm

再生できない場合

こういった和音がもたらす情緒として「少し悲しげ」と自動的に感じてしまうと思います。最終的には自動的に感じるようにしないと音楽は迷ってしまって作れません。

しかし「少し悲しげ」という印象は、先に述べた「社会的にそう感じることをよしとして育ってきてしまった」要因も含まれています。

だからここでは、その音だけを感じるようにします。

自分には音を聞く器官が健常で、その音が響き、自分が受け止めた、ということだけを感じてそれ以上は何も考えないようにします。

音を聞いて浮かんでくる心象に集中しない、拘らない、重視しないといったふわっとした心の状態を保ちます。

まるで目の前の木から葉が一枚落ちた時のように。葉が落ちても「少し悲しいな」とまで感じることは通常ないと思います。おそらく興味がないからです。

でも音楽に興味がある人は、音楽に何も感じないわけにはいきません。

ただその感じ方に「自分でない社会的に調教された自己」が混じっているので、デトックスする必要があります。

音を聞きながら自分が興味のない風景や現象を見ているようなイメージを描いてください。目の前の雲が少し灰色で雨が降りそうな不安を抱かせる、といったような。音楽表現理解で使う脳とは違うところを働かせてみてください。

だいぶ音鑑賞がリセットされます。

 

関係性に響くとは

次にこの図を見てください。

赤い丸と緑の三角です。

見ようによっては太陽と山のようにも見えます。しかしそれは意味づけです。

ここではそうした意味を感じても、すぐ自分をなだめて、手放します。

常に赤い丸と緑の三角がある、という事実に戻ります。

この時、

ただの自分とその記号との関係性だけが残ります

「いま、それがそこにある事実」だけで思考を留めます。

マインドフルネスと同じ原理です。意外と難しいです。

不安に思うこと、ちゃんと考えること、が癖になっていると、この作業自体が苦痛です。何もしないでそこにあることを受け入れる、というのは現代人にはとても難しい作業でしょう。でもだからこそそれが自分を生きやすくするヒントになるかもしれません。

 

猫と私の関係

猫と私を考えてみましょう。

ฅ^_ω_^ฅ

私とミーくんは今、同じ空間にいます。

ただそれだけです。「同じ時間を生きている」だけです。

それ以上を考える必要を手放します。

この時、関係性に直接響いています。そこにあることを許し、余計な思考による幻覚を排除し、関係性に響くことだけを体感します。

色々気遣いをしなければならない時や、多忙で手が回らない時も、変に気を揉むことなく。余計な意味を介さずに“共にある”ことができます。

電車で隣に座った人のことが気にかかる時、それをやめて、何も心を反応させず、ただ同じ方向を見てみる。その電車の音を一緒に聞いている関係性が響きます。

意味を急いで求める態度とは異なる、純粋な現実の知覚です。

 

関係性は、意味の種ともいえます。

構造主義の視点から言えば、意味は個別の実体ではなく、差異や配置といった関係性によって生まれるとされます。音楽においても、和音や音高の意味はその文脈的な位置関係によって形づくられるため、関係性の探究は意味の生成に不可欠な要素と言えるでしょう。

その後、関係性とは別に「自分の妄想/危機管理/方針」を自分の思考だと認識して考えると、関係性とは別に、自分の欲望や願望が意味化され、それは自分だけに通じる意味、となることも体感できます。独自論です。

この時「自分は勝手な独自論を持つ」と認識できないと負担が多いでしょう。

さて、これはいよいよ日本人にはおなじみの「禅」という行為にまでたどり着いてしまいます。そこまでは行けませんし、いく必要もないでしょう。

 

改めて、「関係性に響く」とは、構造的な気づきと、その構造との感覚的共鳴、そしてその再編成を伴う創造的知覚を兼ねた姿勢を指します。創造の準備段階に欠かせない行動です。

 

 

愉憩心観に佇む

ただ座禅を組むだけ、という「只管打坐」はそういう意味で究極の世界と自分の関係性の共鳴に寄り添う行為です。

心の修練をしたい方にはそのくらいがいいのでしょうが、私はもう少し戯れたいので、「愉憩心観(ゆけいしんかん)に佇む」くらいでいいです。

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今思えば、そういう意図で作っていた音楽はありました。

私も勝手にイメージが膨らんでしまうので、関係性が消えがちです(本来の関係性を無視しがち)。

そこでモジュールを作って、関係性だけが具体化できるようにしました。

そのモジュールによって本来ただの空気の振動を、即イメージの種ではなく、「位置関係」の結果として眺められました。

モジュールは、秩序や方向感覚を与えてくれる反面、モジュール独特の「枠」も作ります。それを了承するために、それを「独自論」としたことで他者に広がりを持たないようにしました。こうすると自分の中でのみとまり、外に発信する時は、共通語で語ったり、置き換えを工夫するなどの作業が生まれ、それが客観性を産んでもくれました。

 

 

12音連関表を例に〜意味を手放すための関係性の発見

繰り返しますが、“意味を手放す”という態度は、意味獲得行為自体の否定ではなく、それに即座に飛びついて消費するのではなく、その前段階に通るべき意識のステップがあることに興味を向けるだけです。

その後でも意味は味わえます(しかも自在に、私的に)。

私にとってはこれが意味に代替されるフィルターになりました。

これは左がB7→C、右がE7→Cです。

これらを弾いた時、自分と響きにの間に関係性があります。

この時、コード進行の意味や心象に自動的に流されないのがポイントです。

音現象と自分の関係性があること自体を鑑賞します。

響きがもたらす最も基本的な抽象的なクオリアを素直に受け取るだけす。先例を考えたり、理論的意味を考えたりせず、今日の自分がどう受け取るか、だけに寄り添います。

B7→Cを聞いて「灰色の壁の部屋」が浮かぶなら、そこにただ居てみます。

自分の存在が確かにあることだけを見つめるような行為に感じます。

 

 

ここには1つの形が旋回しながら、別の音集合になっていく関係性を見ることができます。機能和声的に聞いたり、その流れに意味を求める前に、モジュールの中の和音のつながりに生まれた親和性自体を捉えます。

こうすることで、不定調な流れもより自然に感じます。

家の前の道が多少凸凹でも、曲がっていても気にならないように、多少の不協和でも、歪でも、自分ならそうしない、と思ってもただそれがることの自然さ、そうなった現実だけをみます。すると音は突然有意性を持って自分に問いかけてきます。

 

 

クリシェや同主調和音への変化

普段はあまり考えません、モジュールの応用編として、使い方を拡張してみます。

これはC→CM7→C7→C6の流れを関係性で結びつけたものです(シャープ表記注意)。

ここに関係性を見出しましょう。

これは今見つけた構成音の動きを、cの外縁全体に拡張したものです。シーメジャーを鳴らしながら、緑のセルの音を順に拾っていってください。

メジャーコードのクリシェは、このモデルでは、その縁を彩るような音によって構成されていたことになります。

これは私自身が容認したモデルですから、そのモデルが生み出す関係性は、私しかそこに関係性を見出せる人はいません。多分それが愛おしくなるのでしょう。

 

こうした動機とこうした行為と、それによる表現行動の一連のはたらきを関係性共感覚とよんでも良いのではないでしょうか。

 

もう一つ例を見ましょう。下記は

Cm7(b5)→BM7というよくある流れです。

このときcは半音下降しています。右斜め下に降りた、ともいえます。二つの関係性が作れます。

<他の音が半音降りた場合>

下記のようにまとめられます。

Cm7(b5)→BM7

Cm7(b5)→Daug7

Cm7(b5)→F7sus4

Cm7(b5)→Cdim7

などがここに現れます。Cm7(b5)→F7sus4は単なるII-Vです。すなわち、Cm7(b5)→BM7という流れは、短調におけるII-Vと類似した変化形状である、と関係性に響かせることもできます。

 

<他の音が右下に降りた場合>

これについては、重ね合わせが行われている連関表の2つの状況において作ってみました。先程と類似性があったり、構成音が少なくなるような状況も起きたり面白いです。

これらの関係性は最初に示した和音進行との相似形、類似性といったポイントに響かせます。その和音変化が、従来の理論的、コード理論的?なものとは関係なく行われることを確認することで、純粋に関係性だけに気持ちを響かせることができます。

 

調性に縛られない和音進行をフラットに理解するには、こうした自作の表における関係性の理解(=表などなくても独自論があれば良い)が自分だけの理解を押し進めてくれます。

 

何度も述べますが、音楽を作るときに、連関表で関係性を確認しながら作る、ということはしません。音楽を作るときは、音楽的なクオリアに自然に従うだけです。その過程で変に偏った固執にこだわらないように「関係性に響く」行為が日常求められるのではないか、と思います。

音楽が洗礼的/伝統的になりすぎず、その時だけの独りよがりのマウントになりすぎない肩の力の抜けたバランスを作ることができると思うのです。

 

 

リディアンクロマチックコンセプトにおける調性引力に基づく序列を作る

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今度は他者の方法論で何か題材を用意して考えてみましょう。

ここではLCCで現れる、

C G D A E B F# G# D# A# F C#

という序列について、それを生み出す何らかの仕組みを自分のモジュールから作ってみましょう。自分のモジュールが作る世界を固執なく受け入れられたら、他者のややこしいシステムも自分が理解しやすい枠組みの中で統制できると不思議に理解が進むものです。

連関表の重ね合わせで、この序列を作ってみます。

朧げながらこんな対称性が見えてきます。これを重ね合わせの連関表のフォルムからみると、

二つのモデルを分割すると、同じフォルムが見えてきます。

LCCは下方倍音を認めないので、c#がcから一番アウトゴーイングである、とせざるを得なかったわけですが、c#がgの裏領域だ、とすれば、一番遠いけど、gの裏であり、c#→cは強い解決力を持っているが、上方領域が基準になるので、一番遠いが裏口でつながっている、という関係性を感じて方法論を組み立てることもできるでしょう。自分の中の固執を捨てると、意外とすっきり見える世界が自分の中で勝手に構築されます。

こういう旋回性、対称性で閉じているモデルなのだ、とすれば、あとは自分のやり方との比較です。

何も自分のモジュールがないままに他者の方法論を好悪イメージだけで断じるのはクリエイティブではありません。

当然もっと立体的に考える人には違うモデルが浮かぶでしょうし、私より洗練された人なら、より優雅なモデルを生み出すでしょう。

数学や自然科学が再現性や客観性を重視するのに対し、音楽や芸術のような創造的表現の領域では、異なる価値観に基づいた多様な解釈や成果が並立します。このような多元的な成果の共存が、人間の創造性の豊かさ(言ってみれば、真理がいくつもある、という矛盾の創造を許す)を物語っているのではないでしょうか。

 

 

 

関係性表例

これは連関表モデルをcを中心に三和音の構成音において左旋回していったときに生まれる、相似性、旋回性を示しています(原理編1,2参照)。

同じ対称性を持つグループが色分けされています。

3 × 4のマスを渦巻き状に旋回させるので、いびつな関係性が生まれるのが面白いです。この関係性自体は私が望んだものではありませんが、私が自分で作った12音連関表が作り出した関係性ですから、自分が音楽を考える手段を講じるとき、また使うでしょう。

"私"の表現世界を作るというのは、その土地に茂った木材を活用して家を建てるような不思議な一体感や相性を感じます。

 

 

関係性と情緒を分ける

私のモデルでは

Gsus4→Cm

というのは同じCセクタモジュールの二跳右旋における回転進行である、ということができます。

 

(参考)

ダイアトニックコードにおけるV-Iの流れは、さまざまな歴史のうねりを経て、西洋音楽教育かぶれによって人々の音楽表現において終止を示すものになりました。

ただ、本当にそれがあなたの音楽においてもそうなのか、正義なのか、正しいのか、についてはちゃんと考えないと、「理論に従った曲のダサさ」を生むだけです。そしていかにも「承認してほしい」曲になってしまいます。

これは自分が何をしたいのか掴んでいない時期に起きがちなことで恥ずかしいことではありません。最初は一曲作るだけだって嬉しですからね。

そうやって作曲や音楽表現に慣れてきたら、

本当にそれが私にとってそうなのか、自分にとってそれはなんなのか。

という関係性を再考するようにしていかないと苦しくなってきます。

そして天才とは、最初からそれがわかっていて自分のやりたいことのために邁進できる素養を持った人たちです。

 

もし理論書の言葉、音楽に限らず人から教わった社会的知識や常識に疑問を感じたとき、対自分と社会との関係性を再考してみると、それが自分だけの理解なのか、誰からか影響を受けた学びなのか、ただそう思いたいから言ってるだけなのか、はっきりしてくると思います。また「認められたい!」という思いが隠れていると、それ自体に気がつかないのが人間の性なので、無理して考え込まず、ひたすら作っていく中で、真面目に考え、向き合って、人に揉まれて、世間に揉まれていくうちに出口が見えたりもします。

その時自然と、自分と対象物との関係性を感覚で覚えていけます。

それがわかるほど、他者が自分と違うのは当然であり、自分の主張を通すことに熱心になる必要性が失われ、自然と物事が流れていくことを知ってしまいます。競争社会権威社会ではこれはベストな選択ではありません。社会から離脱する可能性が高まるからです。でも、もし社会に対してストレスばかり抱えるようであれば、そう言った社会競争に不向きかもしれません。

そうなったら、塞ぎ込んだり引きこもったりせず、人生に悩む時間に、丁寧に自分の関係性モデルを考えてみると良いのではないでしょうか。

 

独自論の深化がもたらすもの

あなたの表現活動に社会的ニーズがなかったとしても、それはあなたの表現がニーズの乏しい独自性を持っていたというだけです。

それがわかったら他者からのニーズを求めず、自分自身の表現活動を深めていく必要があると思います。承認欲求は他で上手いこと見つけていくしかないのですが。

そのために別の仕事が必要であれば別途仕事を探して、それでも自分自身の表現活動を飽きずに追求できるのであれば、それは道です(独自論論)。

そこから独自の芸術活動が始まると思います。

 

また、そうやってみて、どうしても一般化を求めてしまうタイプだと逃げられなくなったら、"学問"を納め、しっかりと学号を修めてください。

社会は社会の中での権威を持った人しか認めてはくれません。

どうしても人に身tめられたい人は。社会の内側で生きていくしかありません。

 

あとは、どの道に進んでも自分の表現方法の研鑽を弛まず続けていかないと、独自論は劣化・沈下してしまうので、身勝手に生きても権威の中で生きても大変なことの度合いは全く変わりません。自分が頑張れる世界で頑張っていくしかありません(独自論論)。

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