参考:「プラシーボの治癒力: 心がつくる体内万能薬」
全てがよくわからない、という限界値の受け止め方がわかったところで、記事をまとめます。
わかってもわからなくても不安、という間を行き来しながら、自分にとって最適の選択をしなければならないのが直感的制作です(人生そのものがそうかも)。うまくいけばトリガーが起動し、プラシーボ的反応が起きます。結果として作品がウケる、ウケない、という一喜一憂はありましょうが、仕事は健全に貫徹できます。
より確からしいと確信できる選択を求めて勉強し、経験を積み、必死に選択していくしかないためにその様々なツールとして音楽理論や、先輩からのシゴキがあるわけです。
その選択によって、自分を傷つけないように、周囲に認められるように、関わった人を幸福にするための選択をしなければならないわけです。
しかしどんな方法論を用いようとも、最後に選択するのは自分です。
これはブログ用に私が作った「不安の三極図」です。
特に音楽制作に特化しています。
用語は皆さんで自由に変えていただいてOKです。
専門知識的規範は職人しかわからないスキルを伴った常識です。作曲家がアマチュアの作品を聞いたときに感じる「ここを直すともっといいよ」と指摘できる感覚です。
社会的常識は、通例生きていて、こういうのは自分たちの社会の常識、と感じる感覚です。地域ののど自慢大会といえば、このくらいのレベルの音楽が、だいたいこんな感じで歌われるだろう的な感覚で、聞いた時「あ、こんな感じ」となんとなく感じるクオリアが働きます。これは一般常識ではなく、その人物が所属する社会で培われる常識感覚です。
根源的原則は、宇宙の真理です。私たちの肉体が持つ仕組み、素数の謎、宇宙の果ての向こうの話などが全部解明されている状態。人類がたどり着く最終のゴールです。
普段の制作では、このように私は感じています。
普段はちょうどいいバランスで、「選択の円(Balanced Choice Circle)」の中に収まるような選択をしているように感じます。
あくまで私の意見なので、皆さんは自分で考えてください。
制作物を作る時、あまり社会的常識に沿いすぎると、既存のものと被ったり、どこにでもあるようなものになることを平凡さと位置づけて恐れます。平凡さが怖いのは、この制作の時だけです。
またあまりに専門知識的に傾きすぎると、難解で、他者に無関心な誰も理解できないようなものになってしまいます。ここではそれを冷徹さを人に与えることでの恐れ、不安、と捉えました。椅子を作るのに凝りすぎて「人が安易に座れない椅子」を作ってしまうような感じ。
また根源的原則に近づきすぎて制作してしまうと、人の存在など本来不必要、無意味であることに気がつけ、それを表現したり、無の精神のようなさまざまな究極論になりそうで、それを「不安」と表現しました。究極の音楽は"自分の心臓の音を聴くこと"みたいになってしまいます。
きっとこれらの不安の質は、私が気管支喘息の発作や不安症の発作を持っているがゆえに、それと何らかの関わりがあって、こうした不安を持つ人間として出来上がったということが理解できるようになるのです。社会不適合でもなんとか頑張って生きていかないといけませんから。
この三角形は、何かを選択する時に無意識に私が感じてしまう極だと思います。それがうまく機能すればプラシーボ的反応は自分に起きるわけです。
三つの求めるべき真理がありながら、それぞれにあまりに近くなりすぎるとある種の不安が訪れます。
この選択の円は時代により、天才の出現により、センセーショナルな事件や作品によって拡大縮小します。地域や民族によってもガラリと変わるでしょう。
話題曲はこのバランスの中に収まるか、極端に外れるかで決まると思います。
皆さんにも皆さんの嗜癖思想に沿った三角形があると思います。
人によっては四角形か、それ以上かも。
ミステリアスな現象は「不安」の先にある真理からきています。いきなり豪雨が降るのも、突然病気になるのも、ありえない事故や、信じられないひらめき、なんらかの複雑な要因が絡み合って、人ならぬ因果関係によって起こります。それに論理的な回答を求めようと、科学的な専門知識的規範を求めても誰も得しない寂しく冷徹な事実だけ出てきたりします。「計算不能」とか。現代の科学で解明されていないこともたくさんあります。
だからと言って、誰もがわかる当たり前の答えを出しても、なんの探求にもなりません。自分が雨女だから雨が降った、普段の行いが悪いから事故に遭った、俺は天才だから閃いた、みたいな話は最終的には何の手応えにもなりません。
正当性や論理性を求めるのではなく、共感識覚機能によって共鳴するかしないかで選択していくと諦観のなかで様々なことをふんわり考えることができます。
普段の選択は、自分が望むらしい感覚をある程度想定して、その色合いに近い答えを導き出します。複数の人がいれば、それぞれで答えを出し合って、皆の総意で最も真理らしい答えに合意します。
この選択眼を極めるのが人生の旅路です。勉強もそのためにしています。
自分がより確からしい選択をするために勉強をしています。それが社会的成果になるか、文化の継承になるかは結果論です。
そうしてこの円をどんどん広げ、かつ自分なりに理想と感じる形に描いていければ、それは主導権の取れた選択になりやすくなります。
自分の独自論を把握できていれば、この選択の円の外にあっても主導権を持てるし、それによって各種のプラシーボ的反応を起こしやすいと考えます。
独自論の領域は現実より広く、人によってはいくつもの自分の欲求の置き所がある方もいるでしょう。Aのように非常に社会的なバランスの取れた作品、Pのように職人ならではの難解な表現をこなす高い技術、Mのように天才ならではのとんでもない発想...等々。
この赤Tあたりで表現するのが好きな人で、自分の居場所を理解していない人は、商業音楽を作るのは苦痛でしょう。なぜなら
・良い作品ができなかったらどうしよう
・気が乗らない感情と向き合うの嫌
・怒られて、却下されたら既得権益を失う
・自分が求める表現ではないつまらなさ
・自分の生きる世界ではない興味のなさ
しかし、自分がそういう人間だと理解し、自分のいる位置がわかると、不思議なことに、自分の範疇以外の作品を楽しみながらトライすることができるようになります。
つまり
・良い作品ができなくて当たり前
・気が乗らなくて当たり前
・怒られて、却下されて当たり前
・自分が求める表現ではない面白さ
・自分の生きる世界ではない冒険心
と変わるからです。これ自体がプラシーボ的反応に関わる「意味づけ」だったわけです。
私は不定調性論を「独自論だ」と認めてしまってから、穏やかに自己の許容が始まりました。弱音が発生した時に認知でき、自分の社会における位置付けが見え、全くもって恥ずかしい人間だな、と認めました。色々と素直に挑戦できるようになりました。
今回色々学ぶ中で、こうした意識の変化は、自分の心の使い方自体にプラシーボ的反応が起きたのではないか、と感じたほどです。
「素直さ」というのはもっと広い概念で「努力できない」とか「病弱」とか「めんどくさがり屋」とか「好き嫌い多い」とか、社会的に「欠点」と呼ばれる部分をいかに意味付けするかにかかっているのでは、と感じます。
そして、意味付けや条件付けは、それを行う前に自分自身への素直な理解がなされないと発動しない、と感じます。
反社会的自分を切り離す
自分のことを理解できても、一番の課題は、社会的生活を阻害する自分との向き合い方です。
制作している人の中には、自分の趣味や嗜癖への欲求が集中力を邪魔して制作が思うように進まない、という人もいるでしょう。自分という存在は自分に一生付きまとうからです。
困ったことにそれらの趣味や嗜癖の発散が次の制作のエネルギーや気分転換として組み込まれている人もあるでしょう。体の中で餌を与える代わりに欲望を抑えてもらって創作意欲に転換して吐き出してくれる回虫を体内に飼うようなものです。
しかし本来、それは虫に頼らずとも自分でやれます。そのために勉強し、意識を進化させてきたのではないでしょうか。
趣味嗜癖は満足する事がないので、燃費の悪い車のように、すぐにムラムラときます。しかしそれらの趣味や嗜癖が準反社会的行動であったり、身体的に負担をかけるような行動(食生活等)である場合、人生の危機を早める事があるかもしれません。
激しい性格ゆえ(?)織田信長が天下統一の前に討たれたように。
趣味嗜癖に逃げなくても人生なんとかなります。一回でも「ああ、これはストレス解消でありながら、逃げなのだ」と思うことで、少しずつ改善されます。それを表立って認めないと意識下が変わらないからです。承認欲求の発露なんですね、それも。
コントロールする努力こそが、その人が工夫するべき独自論です。それが固まれば、制作におけるプラシーボ的反応を起こしやくなるのではないかと感じます。
(本当に法を犯すレベルにまでになったらそうなる前にカウンセリングを受けなければなりません。)
「治癒させる計画を立てること」が大事と同書も述べています。
例えば飲酒癖がひどいなら、
今週は一日おきに飲む、
2週目はそのどこかを二日おきにする。とカレンダーを仕事場の前に置き、飲んでいい日だけ赤丸をつけ、その区間を十分に緩やかに我慢できる範囲で段階的に広げていきます。約束を破ったら、そこから再度トライします。
誰かにサポートしてもらってもいいですし、諦めてカウンセリングにかかってもいいです。とにかく前に進めれば。社会における弊害のある自分の部分を上手に減らせれば、もっと別のやり方でもっとすごい社会的自分を目指せるように思います。
そして十分にそれらの計画が実行できてリズムができたら、他のことにもそのペースを応用し、慣れてきたら<目標>を設定します。
例えば「飲酒は月3日」と最終目標を決めるとか。。
だいたい十日おきに飲むぐらいです。これなら飲酒癖とは言わないでしょう。
ゴールがあると頑張れます。
これも「独自論を追求する」ことです。あなたにしか適用できない方法論です。
欲望にコントロールされるのではなく、率先して自分の意識的な計画によって"自分が主導している主導権"の所在を明らかにして、自分のペースを作り体内の製薬工場の自律性、機能性を上げようという考え方です。
あと、自己の人体のことも学習しましょう。それぞれの器官の声に耳を傾けることが自分の取り扱い説明書になります。
この記事シリーズも今後周辺論文などを参照にして随時追加していきます。ブログというメディアに甘えて、しばらくは乱文のままの掲載になります。