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「カッコいい」はどこからくるのか〜音楽制作で考える脳科学49

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音楽における究極の錯覚といえば、構成と形式の錯覚だろう。音符の順序そのものには、私たちが音楽から感じる豊かな感情のつながりを生み出すものは何もない。音階にも和音にも、本能的に解決を期待してしまう和音の進行にも、それはない。

私たちが音楽を理解できるのは経験のたまもので、新しい曲を聴くたびに、また知っている曲を新たに聴くたびに、それを覚えて変化できる神経構造があるからだ。脳は、子供が自分の文化の言葉を話すことを学んでいくように、それぞれの文化の音楽に特有の音楽の文法のようなものを学んでいく。

現代の言語学と心理学に対するノーム・チョムスキーの貢献は、人はだれでも世界のあらゆる言語を理解する能力を持って生まれてくるが、特定の言語を経験することによって神経回路の複雑につながりあったネットワークが形成され、構築され、最終的には余分なものが刈り込まれていくと提唱したことにある。

脳は、持ち主がこの世に生まれるまで、どの言語にさらされるかを知らない。(中略)脳は神経発達の重要な段階でいずれかの言語にさらされるだけで、ほとんど努力もせずに、その言語を習得できる力をもっている。

同様に、世界各地の音楽も言語のように多様だが、人は皆世界中のどの音楽でも学べる能力を持って生まれると、私は確信している。

 

 

音楽は組織化された音響(サウンド)だと書いたが、その組織には、予想を裏切る要素が含まれていなければならない。そうでなければ感情表現が単調で、機械的になってしまう。

 

I Want You (She's So Heavy) - YouTube

同著書がビートルズ曲を題材に、予想を裏切る、を考えましょう。

この曲はひたすら同じようなフレーズを繰り返します。鬱屈が積もり積もって不安さを持ってきます。

この手の曲は「鑑賞」する、と云うより、ビートルズチームの内面性というか、普段見なくてもいいところをサービスで見せられているような感じもします。

著名バンドにはこういう曲があります。表現したい、という欲求の肥大。変態化。

しまいに曲の最後は中途半端な感じで終わります。まるで40分の交響曲の最後の1小節を作らずに放置したような。この辺りも彼らの、何を持って新しい表現か、を模索した欲求が垣間見れます。

 

スキーマを破る

先のI want Youのエンディングのような「通例こうくるだろう」という感覚を裏切ることで音楽は豊かな表現力を持ちます。これを「間違い」とする反応も、スキーマを破られたことにショックを受けるタイプの人の反応であり、間違いと定義されるのは一瞬です。脳は何度も聞くとそれに慣れるからです。

偽終止や転調、テンポチェンジや変拍子、こうした技法は、マンネリズムの打破にその目的があると同時に、脳はそうした手法の刷新に新鮮味や興味を持って接することができます。それも彼らのような著名さを持っていることによって単純接触効果による信頼自体が肥大して受け入れることを容易にしてくれます。

科学者に命じられたら被験者に電流を流すボタンを押してしまうような「自動的な鵜呑み」と同じでしょう。

 

著者が紹介している例を挙げます。

Creedence Clearwater Revival - Lookin' Out My Back Door (Official Video) - YouTube

曲はどんどんゆっくりになり、そのまま終わることを予期します。しかし最後再度テンポが戻ります。ちょっとした仕掛けが曲を印象的なものにします。これがあることで曲が若年化する、というか、ソリッドな印象を与え、いつまでも色褪せません。パンチがあり、このロックの気概をまた聞きたい、という気持ちにさせます。

 

Yesterday (Remastered 2009) - YouTube

Aメロは7小節です。普段8小節(偶数単位)に聴き慣れた耳には、一瞬くぐもった違和感のようなものを与えます。著名過ぎてこの違和感に気がつかないほどです。この7小節という"欠けた感じ"に疎外感、寂しさ、物憂い物足りなさ、みたいな"昨日の思い出感"を想起させます。この強烈な曲とのマッチングがあるが故に、Yesterdayを聴いても「これなら、ふだんの曲を聴いていればいいや」という気持ちにさせない強烈な7小節という個性が曲に引き入れる一躍を担っている、と言えます。

 

Elvis Presley - Hound Dog (1956) HD 0815007 - YouTube

このバージョンでは、曲の途中で激しいドラムフィルの後、いきなりテンポが落ちます。この変化に観客も狂喜します。レコード通り普通にアップテンポのまま流れるだろう、という期待を見事に裏切ってくれます。またゆっくりになったことで、エルヴィスが寄り添って歌ってくれてるような効果も感じます。2回目になると笑いまでこぼれます。もはや「サービス精神」と受け取られているようにも感じます。これも単純接触効果のような親しんだ権威への理解だと感じました。

 

 

昨今の音楽も、これらの過去例をさまざまに取り込んで複雑な感覚の集合体となっています。自分の好きな楽曲のその表現が過去のどこからきているか、を知ることによって自分の"好き"のルーツを知ることができます。脳は"それをすでに知っている"からそれに対して好意的に反応できる要素があるのだと思います。

 

歴史的に、極端にギターを歪ませたジミ・ヘンドリックス、ロックに本格ブルースを持ち込んだストーンズ、不定調を持ち込んだビートルズ、最初のクロスオーバーロックをやったツェッペリン、バッハを取り入れたディープパープル、オペラを持ち込んだクイーン、レゲエを持ち込んだポリス...革新的なスタイルは当時の人に変化を与え、熱狂を、信教的信頼感を与えました。その衝撃はもはや宗教です。

細かいミストーンや、リズムのずれ、ピッチのずれはもちろんありますが、もはや宗教的な信頼感を歴史的に人の記憶に刻んでいるので、ミスも音質の悪さも全く別の存在として受け止め、自分が作る音楽とは区分けしてしまっています。

 

著者は誕生パーティーを例に出して「期待を裏切る」というポイントを説明します。

誕生パーティーのスキーマは(音楽と同じように)文化によって、また年齢によって異なるだろう。スキーマははっきりした期待を形成するとともに、それらの期待のどれは融通が利き、どれが絶対的なものなのかと言う感覚も生み出す。典型的な誕生パーティーで期待するものを列挙することができる。どれかが欠けていても驚きはしないが、欠けているものが多いければ多いほど、そのパーティーは標準から遠ざかることになる。

・誕生日を祝われる人

・その人を祝う人たち

・ろうそくが立ったケーキ

・プレゼン

・ごちそう

・パーティー用の帽子、鳴り物、その他の飾りつけ

 

つまりそれらが守られていれば誕生パーティーとして安心できます。

しかし誕生日を祝われる当人がいないと誕生日パーティーという存在は異質に感じます。

子供のパーティーで子供たちにお酒が振る舞われたら驚くでしょう。

ビートルズが死ぬほど好きな人へのプレゼントがスタートレックのレアなTVバージョンのレーザーディスクだったら変でしょう。

期待通りにそれが来ないと人は動揺します。

音楽においても、国歌などは、それを聞く機会、歌う機会が特殊な場に限られているため、それこそ何度聞いても新たな気持ちになるような効果を作るのかもしれません(そういう感情が起動する)。さらに「星条旗よ永遠なれ」や「君が代」などは少しセオリー(いつも聴く曲)からブレて構成されていることで(「君が代」は本当に偶然なる和洋折衷による異質性)、さらにこの印象的な度合いが増している、と言えます。

 

偉大なアーティストもこの期待の裏切り方が絶妙だったわけです(真似ができない要素を多く含むがゆえ歴史の中で際立ってしまう)。

どんなに勉強して真似をしても同じように偉大なアーティストになれないのは期待を絶妙に裏切ると言う行為自体が大変難しいと言うことを指していると思います。

なぜなら人は自分が理解できる範囲である程度期待を感じながら制作をしているからでしょう。

 

音楽の「カッコいい」はこれらの詳細なそれぞれのケースについての心象をたった五文字で表現しているわけです。拙論冒頭でも申し上げましたが、あなたの「カッコいい」と私の「カッコいい」はもっと丁寧に要素を突き詰めたら全く違う感情で説明される感情かもしれません。

 

赤ちゃんは5歳になるまでに、それぞれの文化の音楽のコード進行を認識できるようになる---この間にスキーマを作り出す。

 

 

私たちが発達させる主なスキーマには、ジャンルとスタイルの表現形式のほか、時代(1970年代の音楽には1930年代の音楽とは違う響きがある)、リズム、コード進行、フレーズ構成、曲の長さ、どの音符の後には普通どの音符が続くか、といったものが含まれる。 標準的なポピュラーソングでは1フレーズが4小節か8小節でできているといったが、これは私たちが20世紀後半のポピュラーソングについて発達させてきたスキーマの一部だ。(中略)だから<イエスタデイ>が7小節のフレーズを演奏すると驚きを感じる。たとえ何万回聞いたとしても<イエスタデイ>に興味を惹かれてしまうのは、 この曲の記憶よりもしっかり定着しているスキーマの期待を裏切られるせいだ。 何年たっても思い出す曲と言うのは、いつも多少は驚きを感じる位に、期待をはぐらかしている。(中略)何度聞いても飽きないと言われているアーティストのほんの一例だが、これがその理由の大部分を占めている。

 

脳の音楽体系は、言語体系からは機能的に独立しているようだ *1。それは脳の損傷によってどちらか一方だけの機能を失った患者の、たくさんの症例から実証されている

*2。(中略) 大脳皮質左側の一部を傷めた作曲家のラベルは、音色の感覚を残しながらピッチの感覚だけを失ったために、音色の多様さを強調する《ボレロ》の作曲を思い立った。 (中略)音楽と言語は実際には一部の共通した神経資源を共有しながら、独立した経路も持っている。

(中略)生後間もない赤ちゃんは共感覚を持っていて、異なる感覚のインプットを区別できず、 あらゆる知覚をひとまとめにしたある種幻覚として生命と世界を経験していることを考えてみよう。

 

最も驚いたのは、音楽の構造を追うときに活動することがわかった左半球の領域は、目の不自由な人が手話で会話するときに活動する領域と、全く同じだった点だ。(中略)そこは視覚に反応する領域、手話が伝える言葉の視覚的な構造に反応する領域と言うことだ。

 

ここに時間の経過につれて処理する機能が脳にあることを示していると著者は述べています。

前回、時間は脳が作る、みたいな話を書きましたが、脳が時間という概念を用いることで連続的な処理を順に行う必要から、脳が時間的序列を構成し知覚するようにできている、と考えることもできそうです。

人が生まれ、成長して老いていく、と言うのは宇宙は知覚しておらず、人にしかわからない感覚なのかもしれませんね。

もし宇宙にいる神様が地球を作ったなら、その神様は人が生まれて老いてゆく過程を認知していないかもしれません。本当に泡のように人が弾け飛ぶ過程しか見えていないかもしれません。

神様は永遠に存在するので、百年など感じないでしょうし感じても過去という概念がわからないなら過去を重視できません。人の罪って何?状態。

 

例えれば、記憶が1日しかないとしたら。世界中が常に朝起きたら新しい状態だったら?昨日以前の過去の記憶がない世界は存在するのでしょうか。

 

最後に、著者が述べていた表現から、音楽鑑賞の実際を描いてみましょう。

・ あらゆる音は鼓膜から始まる

・ 音はピッチごとに分解される

・ 言葉と音楽は別々の処理回路に枝分かれする

・ 会話の回路は個々の音素を識別できる信号を分解する

・ 音楽の回路はピッチ、音色、音調曲線、リズムを個別に分析し始める

・ ニューロンからのアウトプットが前頭葉にある領域に送られひとまとめにされ全体の時間的パターンに応じた構造や秩序があるかを見つけ出そうとする

・ 前頭葉は海馬や側頭葉の領域にアクセスしこの信号を理解するのに役立つ記憶を問い合わせる

・ 以前聞いたことがあるパターンか聞いたことがあるならいつかどんな意味か...etc

これらの情報作業から、音楽鑑賞で感情が湧き、さまざまな心象を感じる、ということになります。ふかふかのソファに座ってワインを飲みながら音楽鑑賞をすることは個人の習慣以外に意味はなさそうです笑。脳は音楽を聞きながら大運動会を引き起こしています。

この過程を見ると、音楽は頭の体操/試運転です。

ハイスペックな機能を持つ人の脳が、こうした膨大な処理作業を瞬時に楽しみながら、機能確認をおこなっているようにも感じます。音楽の情感はこの作業中に飛び散った水しぶきを浴びている感じなのでしょうか。

脳は疲弊しないのでしょうか。

 

少なくともある程度の時間なら、私個人は音楽を楽しんでいるので、自分の脳も楽しんでいるのではないかと感じる次第です。

 

続く

*1:著者は後に述べているが音楽や言語のそれぞれの経路発達が行われ共通の資源を持っているかもしれないとも書かれている。 SSIRH= 共有統語的統合資源仮説

*2:ブログ主注、音楽の記憶と妻の記憶以外全て失った指揮者の話や、音楽の記憶を全て失ったが言語やその他の記憶を留めている例が紹介されている