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前回
参考「自分では気づかない、ココロの盲点 完全版 本当の自分を知る練習問題80」
脳と言語の影響の話です。
同書には、目撃した容疑者の顔の特徴を事前に警察に細かく言葉で伝えると、後日、本人を見た時正しく認識しなくなる、という研究結果が書かれています。
こういう例を「言語隠蔽効果(Verbal Overshadowing Effect)」というそうです。
まあ、3人いたら3人違うこと言うしね。聴取した警察官の解釈力もあると思います。
言語化とは、言葉にできそうな容易な部分に焦点を絞り、その一部を切り取って強調する歪曲化です。
言葉によって「わかりやすくなる」反面、「情報が制限されている」「情報が歪められている」と自覚しなければならないのでしょう。
こんなブログでも存在していられる理由は、下記のようなバイアスが関係しているかもしれません。
単純接触効果(Mere-exposure Effect)
何度も同じものを見ているうちにそれを信頼してしまう脳の性質。
例;メーカー品の広告を何度も見るとそのメーカーを信頼してしまう
流暢性の処理/処理流調性(Procesing Fluency)
わかりやすい説明を真実だと思い込む傾向。
例:難しく厳密な論文よりも、わかりやすいブログを好む。
ゼロリスクバイアス(Zero-risk Bias)
確実性を求める脳の性向。
例:数値で正確に列挙された事例よりも、ブログの単純化された結論を好む。
判断ヒューリスティック(Judgement Heuristics)、ハロー効果(Hello Effect)
「わかった!」と思う体験を信じてしまう。外見に左右されて判断してしまう。
例:難しい論文よりも、わかりやすいブログを信じてしまう。
逆ハロー効果;メーカー品でも、欠陥が一つ見つかると企業全体の信用が失われる。「飲食店異物混入」など。こうした欠陥の指摘、あげつらい行為を嬉々として行う人は自己評価の低い卑屈な人によく見られるそうです。
自己ハーディング(Self Herding)
脳は過去の自分の行為を模倣する。
例:なんども見ているブログは信頼してしまう、通い慣れた店、常連さん、ゲンを担ぐetc
ラベリング理論(Labelling Theory)
男性名のハリケーンよりも、女性名のハリケーンの方が被害が大きいのは、優しそうな名前だと危機管理を怠る人が増えるから、だそうです。「有機栽培」って言われると健康に良さそうな気がします。人は根拠のない言語のイメージに根拠を感じてしまう傾向があります。素晴らしい歌詞を歌う歌手を信頼する、みたいな。
この辺にしておきます。
ストーリーを好む脳の性質によってブログメディアは信頼を勝ち得てきたのかもしれません。
真実を知りたければ論文を読めるように努力をすればいいのですから。
また自分が昔から思ったことに「著名人のスピーチの言葉に共感する行為」も感じます。自分と同じ考えの著名人の言葉を聞いて、なんかすごく頷いてしまったり、「ほら!自分の言った通りじゃないか!(後知恵バイアス)」みたいに思って自分を正当化したり。
彼らのような結果を自分は出せていないんだから意味がない、ともいえます。
「有名人のスピーチ効果-Celebrity Speech Effect-」とでも呼びましょう。
式典でのスピーチによって人生は大きく変わったりしません。
そういう式典時のスピーチは、偉人の言葉の中で、自分が普段もそう思っているところに「そうだそうだ、私も同じ考えだ、であれば自分はこのまま歩めばいい」が強化されるだけで、特に行動に移さないからです(自分の経験)。
スピーチが行われるだけで、何も結果が出てないのに気持ちはとても清々しくなります。だからなくならないのでしょうが、それらは最初に示したバイアスが脳にあるからです。話し手も聞き手もそれを理解した上で、エンタメだと思って楽しめる現代性が必要ですね。
先に講義をして、自分に共感する人は明日から具体的にこうしなさい、これをいついつまでにしておきなさい、共感しない人はこうしなさい。という洗練された選択肢を挙げ、そのあとで感動的なスピーチで締めくくる、というのはマインドコントロールのよくある手なので、それも気をつけましょう。
スピーチ頼まれたら、あんまり中身がなくてもみんなが頷くような経験談や失敗談を語れば、なんかそれだけで場が晴れやかになる、、、らしい。そう思ってみんな聞くので、それがないと「できないやつだ」って言われるから怖い。
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不定調性論では、「音楽的なクオリアの活用」という感覚を重要視するように述べています。
「ぱっと浮かんできた直感、フレーズ、判断を根拠を考えずそのまま活用する」 みたいなニュアンスです。言語化しません。
言語化する、という歪曲理解方法も一つのエンターテインメントだと思います。
音楽理論的分析もそういった脳の単純化欲求というか分類欲求がもたらす快感が作り上げた文化だと思います。
だから冷静に、または科学的にそれをみた時、大変チープなものに映ってしまうのは、音楽理論的分析が悪いのではなく、脳の性向だから、といってしまった方がわかりやすいです。わかりやすさの演出による脳の満足度遊びであり、真実とは違う脳のジャンクフードである場合もあると思います。
インフルエンサーの優良情報、五年前の自分の日記に書いてあることかもしれませんよ?満足したいからお金を払って同じ情報を得ているだけです。
だから音楽理論的分析も情報価値になってしまうとチープになります。
現代なら、上記したバイアスについての知識を社会が理解しているからです。
情報と脳の間にある存在が現在の情報の価値であり、そうした「認識して言葉にする前の状態」をいかに知覚/意識できて活用できるかにかかっています。
可愛い猫がいると「シェアしよう」と思ってしまうのは承認欲求です。
昭和の頃は、可愛い猫と自分との間にある誰も精査していない情報をぼんやり楽しみ、それで少し元気になり「あれ?なんかいいことあった?」とか言われたりしました。
音楽的な直感も、前回の「好き」同様、理由を見つけようとすると厄介です(理由は無意識より上に上がってこない)。言語化できません。この言語化できない認識の「感じ」の価値が当ブログでの「音楽的なクオリア」であり、現在における非常にプライベートの個人的価値であると思います。
同書には、「雄大な風景などを言語化」しても
無理に言語化したところで、紡がれた言葉はどこかウソっぽく、もどかしい残余感があります。
とあります。
好きを言語化するというのも同じような感じかもしれません。
もちろん言葉を扱うことに長けた評論家や文筆家、噺家といった人たちが表現する言葉はまた別格で格段の説得力を感じやすい(キーツ・ヒューリスティック(Keats heuristic)=流麗で芸術的な言葉は正しいと判断されやすい傾向)。ということもあります。
彼らでさえ脳の束縛からは逃れられない。
つまり、音楽性に長けたベテランロックミュージシャンが、言語化するのではなく、音楽理論的解釈ができるようにすることなく、そのままフレーズに落とし込んで良し、とするやり方は、彼らなりの価値の発信方法論であった訳です。
不良高校生が、学校のガラスを破るのもその行為によって、言語的主張ではなく、自己の今の存在イメージを体現しているのだと思います。そこには自己表現があるわけです。
なんでステージでギターを叩きつけて壊したのか、と、後で聞くだけ野暮です。ストーンズのこの曲の不協和は音楽理論的に誤っている、ビートルズのリズム感は良くない(実際は逆ですが)、みたいなことはやはり言語化による弊害を含んでいるように感じます。その言語化できない「感じ」を捉え、そのエネルギーというか、そこにある意義そのものを体感できることでそれは言語を超えた理解になります。
多くの人はそれがわかっているし、アーティストや批評家だけが作品や言語にすることに長けている、というだけで、言語や作品にできるから彼らが優れているだけであって、それをしない普通の人々はもっと当たり前のクオリア的理解でその価値を既に感じている、ということを忘れたくないですね。
音楽の価値も批評家の言葉以上に、世論が作る雰囲気による力が大きいのはそういう理由ではないでしょうか。それをいちいち音楽理論的用語で説明するのは価値の退行である、とも言えるわけです。