音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

<言語隠蔽効果>音楽理論的根拠は考えない方がいい?〜音楽制作で考える脳科学8

余暇を利用して、最新の脳科学の研究やトピックを題材に少しずつ音楽や作曲に応用した記事を作っています。

同じトピックはブログ内を「音楽制作心理学 」で検索してください。

前回

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参考にするのは「自分では気づかない、ココロの盲点 完全版 本当の自分を知る練習問題80」です。

 

脳と言語の影響の話です。

 

同書には、目撃した容疑者の顔の特徴を事前に警察に細かく言葉で伝えると、後日、本人を見た時正しく認識しなくなる、という研究結果が書かれています。

こういう例を「言語隠蔽効果(Verbal Overshadowing Efect)」というそうです。

 

言語化とは、言葉にできそうな容易な部分に焦点を絞り、その一部を切り取って強調する歪曲化です。

 

 

うちのブログでは、ひたすら言語を使って楽曲を述べています。大丈夫かな笑。

きっとその言葉によって「わかりやすくなる」反面、「情報が制限されている」「情報が歪められている」と私は自覚しなければなりません(毎日読まれている記事は見直して改訂しています)。

 

しかしこれも単純ではなく、様々な要素によって「ブログメディア」は存在しています。

単純接触効果(Mere-exposure Effect)

何度も同じものを見ているうちにそれを信頼してしまう脳の性質。

例;メーカー品の広告を何度も見るとそのメーカーを信頼してしまう

 

流暢性の処理(Procesing Fluency)

わかりやすい説明を真実だと思い込む傾向。

例:難しく厳密な論文よりも、わかりやすいブログを好む。

 

ゼロリスクバイアス(Zero-risk Bias)

確実性を求める脳の性向。

例:数値で正確に列挙された事例よりも、ブログの単純化された結論を好む。

 

判断ヒューリスティック(Judgement Heuristics)、ハロー効果(Hello Effect)

「わかった!」と思う体験を信じてしまう。外見に左右されて判断してしまう。

例:難しい論文よりも、わかりやすいブログを信じてしまう。

逆ハロー効果;メーカー品でも、欠陥が一つ見つかると企業全体の信用が失われる。「飲食店異物混入」など。こうした欠陥の指摘、あげつらい行為を嬉々として行う人は自己評価の低い卑屈な人によく見られるそうです。

 

自己ハーディング(Self Herding)

脳は過去の自分の行為を模倣する。

例:なんども見ているブログは信頼してしまう、通い慣れた店、常連さん、ゲンを担ぐetc

 

ラベリング理論(Labelling Theory)

男性名のハリケーンよりも、女性名のハリケーンの方が被害が大きいのは、優しそうな名前だと危機管理を怠る人が増えるから、だそうです。「有機栽培」って言われると健康に良さそうな気がします。人は根拠のない言語のイメージに根拠を感じてしまう傾向があります。素晴らしい歌詞を歌う歌手を信頼する、みたいな。

 

この辺にしておきます。

こうしたストーリーを好む脳の性質によってブログメディアは信頼を勝ち得てきたのだと感じます。真実を知りたければ論文を読めるように努力をすればいいのですから。

 

またフッと思ったことに

「著名人のスピーチの言葉に共感する行為」というのがあるのではないか?と感じます。時々、自分と同じ考えの著名人の言葉を聞いて、なんかすごく頷いてしまったり、「ほら!自分の言った通りじゃないか!(後知恵バイアス)」みたいなことを思って変に自分の正当性を感じてしまったりしませんか?

彼らと私は違うし、彼らのような結果を自分は出せていないんだから、考え方が同じだって行動力がなければ(結果が伴わなければ)意味がない、と思います。

これもある種彼らの言葉の中から自分に都合のいい言葉を切り取って快楽を感じていたりしないでしょうか?

これをこのブログで「有名人のスピーチ効果-Celebrity Speech Effect-」とでも呼びましょう笑。式典では必ずスピーチを聞きます。でもそれによって人生は大きく変わったりしません。そういう式典時は、偉人が自分が普段思っているところに「そうだそうだ、自分はこのまま歩めばいい」と強化されるだけで、特に行動に移さないからです笑(自分の経験)。

むしろ普段自分やっていることを正当化して、誤った道を進み続ける、っていう笑。

 

面白い習慣ですよね。スピーチが行われるだけで、何も結果が出てないのに気持ちはとても清々しくなります。

言葉の力と脳の錯覚が引き起こすのが「式典」。

 

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不定調性論では、「音楽的なクオリアの活用」という感覚を重要視するように述べています。

つまり「ぱっと浮かんできた直感、フレーズ、判断をそのまま活用する」 みたいなニュアンスです。これらの感覚を音楽理論的根拠に落とし込みません。

アナライズされることを考えずにその感覚を表現することに躊躇しない、という感覚を学習時でも忘れない、ということです。ここを意識するだけでも"理論に縛られる事故"は減ります。

 

言語化して単純化する、という歪曲理解方法は一つのエンターテインメントだと思います。音楽理論的分析もそういった脳の単純化欲求というか分類欲求がもたらす快感が作り上げた文化だと思います。

だから冷静にまたは科学的にそれをみた時、大変チープなものに映ってしまうのは、音楽理論的分析が悪いのではなく、脳の性向が具現化した結果が単純化する傾向にあるから、とは言えないでしょうか。

 

むしろそれらの分析や結論見解は、「分析者の脳が作り出す副産物」と見た方が面白いです(分析者も「私の見解だ」と明言する)。

あとはあなたがそれをどう思うかもあなたの判断であって、気に入らないなら自分の結論を自分に対して持てば良いだけのことです。

 

音楽的な直感も、前回の「好き」同様、理由を見つけようとすると厄介です(理由は無意識より上に上がってこない)。言語化できません。同書には雄大な風景などを言語化しても

無理に言語化したところで、紡がれた言葉はどこかウソっぽく、もどかしい残余感があります。

 

 確かに。。

もちろん言葉を扱うことに長けた評論家や文筆家、噺家といった人たちが表現する言葉はまた別格で格段の説得力を感じやすい(キーツ・ヒューリスティック(Keats heuristic)=流麗で芸術的な言葉は正しいと判断されやすい傾向)。ということ。

彼らでさえ脳の束縛からは逃れられない。

 

つまり、音楽性に長けたベテランロックミュージシャンが、言語化するのではなく、音楽理論的解釈ができるようにすることなく、そのままフレーズに落とし込んで良し、とするやり方は、彼らなりの方法論であった訳です。

不定調性論の「音楽的なクオリア」の活用です。

 

なんでステージでギターを叩きつけて壊したのか、と、後で聞くだけ野暮、というものです。ストーンズのこの曲の不協和は音楽理論的に誤っている、ビートルズのリズム感は良くない(実際は逆ですが)、みたいなことはやはり言語化による弊害を含んでいるように感じます。

 

今回の「言語化することで情報が制限される」という視点も(少しニュアンスは違いますが)、より正確に自分の着想を音に落とし込む一つの判断基準になるのではないでしょうか?

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