音楽教育活動奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と...旧音楽教室運営奮闘記。

ポピュラー音楽理論学習のコツ紹介〜全てを理解しようとしない

 2019.7.18⇨2020.9.5更新

 

音楽理論の要不要

あなたが敬愛する作品を真似て、自分で作り直して展開し、自分の作品で応用できるのであれば音楽理論は不要です。先人の作品を上手に消化、展開できて、友達がみんな「ええ曲やん」と言うなら、それは盗作ではありません。それで活動できるなら、音楽理論自体は要りませんね。

音楽理論の要不要の話題を出す人は承認欲求の強い人ではないですか?話題に重要性があるのではなく、俺/私の話聞いて!が重要なので、そこで会話をしても時間の無駄になりがちです。どうしても結論出したければ、

「お互いのやり方で今年末にどこまでできるか今日から張り合おう、最後の作品の再生回数で決めよう」とかで決めたらいいのでは?やり合った人同士の結果はでますよね。

 

この話題の大きな括りになる概念は、ソシュールが「ラング」と「パロール」という話でずっと前に説明しています。お調べください。

中高生(日本で一番クリエイティブな人たちですが)は、国語の成績は悪くても、どんどん世界に新しい日本語を作っていきます。彼らの豊富な日常会話が「パロール」にあたります。そして彼らが学ぶ国語の授業が「ラング」です。

音楽に置き換えると、音楽理論がラング、実際の作品がパロールです。

変な日本語であったとしても友達と毎日楽しく会話はできます。いわば音楽理論がいらない状態です。感覚で作って、ギターをかきむしって、メッセージを伝える行為は素養と自信が揃えばできます。

やがてギター一本で歌うのに満足できなくなり、ホーンセクションを加えようと思ったら、美しいストリングスを入れようと思ったら、誰かと共有できる価値の中で自分の価値を認めてもらおうと思ったら、いよいよ伝統と格式、楽器の知識、音域、演奏方法、年代ごとの流行の歴史がわからないと人々がかっこいいね!って思うホーンの、ストリングスのアレンジになりません。音楽理論(音楽史を含む)であるラングの出番です。優れた音楽活動は、この二つの概念が組み合わさって次元が上がり、豊かに、文化的に価値のあるものになっていきます。それを知らないと、頑張っていいのが作れたけど、50年も前にファンクの分野で廃れたスタイルで、今やるとカッコ悪い、みたいなものが仕上がり、それを指摘されて修正しているうちにテンションが下がり、仕舞いにはぐだぐだになり「音楽理論うぜー」になります。あなたがサボっていただけです。

いざという時の仕事をスマートに完結させるためにも日々の勉強は欠かせないんです。

また、オリンピック出たこともないのに、俺は金メダルだ、って言っても社会は承認しません。社会での価値は、社会が定めたルールや様式を根拠に決定していかないと統制が取れないからです(社会的価値と個人的価値)。

広い世の中には、勉強しなくても最初の作品がデヴィット・フォスターみたいにアレンジできて「めっちゃ古臭いやん..使い物にならん、考えて直してもう一回持ってきな?」ってちゃんと今っぽくして持っていって二作目から作家デビューできちゃうような人もいます。そういう人と業界では闘うので、勉強努力諦めないのは当たり前で、音楽理論の要不要とかでイキっている暇とか全くありません。暇ができると言いたくなる話題なんです。

「音楽理論(歴史/思想/汎用術)がいらない」と思っているうちはそれでもいいです。これは「今の俺にはいらない」だけで、誰もが一生要らないはずだ、とまで思うのは厨二的思い込みです。他者の自由/才能/努力への思いやりの欠如です。

よく正体がわからない人(私みたいな)が音楽理論にうるさかったりする時「あぁ、運がなかったんですね」とか「頑張りきれず諦めたんですね?」とかって思いやっていただければ。

また、人との出会いによって考え方は変わっていくと思います。

 

 

理論書理解のコツ

音楽理論独習のコツは「全部を理解しようとしない」です。

「あとで学ぶ時のために何がどこに書いてあるかチェックしておく」ぐらいでOKです。

音楽理論書は辞書みたいなものです。その全ての知識/技法を覚えようとする行為自体が現実的ではありません。

本を読む時、わからない言葉だけを辞書で調べれば、現状のあなたなりに本は理解できます。その積み重ねが面倒なのは学んでも学ばなくても同じです。

毎日コツコツできる人は理論学習に向いています。

コツコツやれない人は不定調性論的思考で感性を研ぎ澄ませて活用する方法論を自分で創作するほうがいいでしょう。

音楽理論を使わず音楽を作る方法

理論書でわからないところ、興味が持てないところは飛ばしてOKです。何が書いてあるかのメモ紙を挟んでおいてください。後々わかります。

 

現代の音楽理論の学習体系は順序立てられていません。「セカンダリードミナント」なんて用語、レッスン以外で使ったことがありません。最初のほうに出て来るから大事だと思ってしまいます。音楽をやっていくうちに自然と使えるようになります。

  

また、「理論学習+オリジナル曲制作」はセットです。

そばの打ち方を去年から本で学んではいるが一切実践はしてない、ってどうなのでしょう。

そこで対応策として、最初は学んだ理論/知識(ラング)を無視してどんどん並行して自分が日頃から聴いている曲を参考に自由作曲をやってみてください(パロール)。

鼻歌でつまらない曲を作るでもOKです。

勉強は勉強、作曲は作曲と分けて同時に進めてOKです。

感覚的な判断に優れた方は、このほうがやりやすいでしょう。二つのリンクはある日突然やってきます。二つの方向から掘り進めたトンネルがある日、急に繋がるような感じです。一方からだけでは時間がかかります。そううことを昔の哲学者は教えてくれるので、文系理系満遍なく勉強してください。

 

やがて「あれ?これがセカンダリードミナントじゃね?」「これがクリシェじゃね?」「これは便利だ!使える!」って気がつきます。

 

順番にこだわらずピンと来たことから進めてください。

ポピュラー音楽理論の土台をマスターできたと実感できるのは、楽譜が読めて、完璧に書けたときです。

まず「読めるようにして」次に「書けるようにします」。

学習には自分が読めると思える雰囲気で書かれている本格的な音楽理論書を1冊お選びください。勉強できるならインターネットサイトなどでも構いません。ただネットの猛者でなければ三冊くらいは紙の書物で持っていても良いように思います。人類は長い期間紙の本で学習してきました。紙にメモする、というのは人間の脳と非常に相性のいい存在だからです。

ネット教材への移行は、脳の次の進化の入り口なのかもしれませんね。

 

しかし興味がなければ楽譜のところは飛ばしてください(でも明日、賢明なあなたはもう一度開くでしょう、それが二週間続くとあなたは楽譜が読めるようになっています)。必ずよく知っている曲の楽譜を最初に読んでください。

我々の時代はバンドスコアでした。なんであのメロディがこう書かれているのか、を音楽理論書を見ながら一つ一つ記号を覚えるしかなかったんです。

 

近代的音楽は基本楽譜によって作られてきました。だから音楽構造の謎を知るには楽譜の理屈を知っているのが一番得策なのです。

ただ、現在のようにDTMで音楽を作るという時代になった場合には、今度はDTMの知識も必要になってきますので、音楽家は50年前より大変になっています。

 

勉強→自由に制作→勉強のサイクルを作ってください。やがて勉強と制作が合致しはじめます。

 

本来は、スティービー・ワンダーのように、全米No.1曲を世に出してから音楽大学に行って勉強する、ぐらい勉強は後回しでも良いと思います。

音楽理論は何百年もかけて人が作り上げてきた学問です。一人の人間の一生ごときで学べるはずがありません。

 

 

本記事での参考書

今回は北川祐著「ポピュラー音楽理論」を参考にしながら、一回さらっと読むぞ!って決めた場合を想定して書いてます。

同著の目次はこちらで。

(アドリブまでやらない人は後半はまずは読まなくても良いです。)

北川先生は実際私自身が講義を受けた(数回だけですが)先生の中で最もフラットに音楽を捉えることのできる先生だと感じたので、ここでご紹介しています。

 

初心者はもう一冊欲しくなるでしょう。

一冊専門本を読み続けても実践にピンとはこないかもしれません。

そこでもう一、二冊だけネットショップや楽器屋さんで必ず自分で選んでみましょう(5冊までは失敗OK、もしいくら本を読んでも勉強が進まないならあなたは独学に向いていません、近所の音楽の先生を探してください)。

「初心者でもわかる!!」的な安くて薄くて楽しそうな本で結構です(実際楽しい)。

難しい知識がわかりやすく書いてあります。

この時同時に北川本を読んでいれば、初心者本の「わかりやすいけど、誤解を招く表現」も察知できます。

また、教材は自分で選んで買って読む、は私には一番学習への忍耐力を持続させました。性格でしょう。人に選んでもらった方が頑張れる人はそうしてください。

ちゃんと本が買える、というのも才能だな、と感じます。

うまく買えない場合は、上手に勉強している誰かに相談してみてください。本当に何事も素養が関わっています。

 

 

コードスケールって必要??

もしあなたがジャズ・フュージョン寄りのアドリブを求められる音楽性に向かっているならスケールは便利なので理解いただきたいです。

コードスケールの知識は、ジャズ理論/分析を学ぶための助けにはなりますが、アドリブフレーズを作る助けにはほぼなりません。

スケールの知識はただの外郭に過ぎません。

例えばギターであればスケールより、ポジション構造を全部覚えることのほうが重要です。

それ以外の人は、この北川本Part3は年末とか、お盆とかの休みの夜長などにじっくり読んみましょう。

 

楽器がある程度弾けるようになって、ちょっと余裕ができきた頃理論を学び始めるとすんなり入ったり。

 

 

 

読み終わっても曲は作れない

これに気がついた人は立派です。

英語の教科書を読めても英語のコミュニケーションはできません。

外国人と話さない限り。

音楽的な会話は勉強を始めたらすぐに行っていいです。どんどん音楽について自分と同じタイプの人と話をしましょう。そうした会話で、どういうテンションで何を語るべきかが分かってきます。

あとはとにかくコードを一つ覚えたら、すぐに弾いて鼻歌でメロディを当ててみてください。

「音楽で一発当てたい・・・」

例えばこの言葉に節を乗せてCM7の上で歌ってみてください。

これができないとコードを二つ覚えても意味がありません。

これは知識というよりも、スキルです。持って生まれた能力です。

 

 

音楽の理論的世界は美のちゃんぽん状態

音楽表現作品に対して美しい、と感じる時、人の感性はフル稼働しています。

旋律の文脈が...

歌詞とメロディの感じが...

編曲が...

リズムが...

歌い方が...

声が...

混沌のノイズが...

抽象的な空虚感が...

数学的に...

幾何学的に...

自然にあるもののように...

非現実的に...

すごい人がすごいというから...

...美しいと。

これらはさまざまな人類が感じる美しさの基準のごった煮です。一つの音楽理論がその全てを解析することはできません。

だから「いい音楽」とはそう判断した人にとっての判断基準の中で良い、と位置付けられているにすぎません。

だから音楽理論の文章の中に自分が感じた美しさの根拠を探すことを目的にしない方が良いと思います。

また自分が感じた美しさを音楽理論の用語で説明しようとするのもお勧めしません。

「音楽理論は視野を狭くする」などと言われる所以が、美的根拠をチープに理論用語で代替作業を行う段階の人が常にいるためでしょう。

 

余談ですが、不定調性論もそこが課題でした。結局、自分がどういう人間かを知り、どこに美しさを感じる人間だからそれを美しいと思ってしまうのか、を人生を通して知ればそれが一番良い、と現状は感じています。

 

 

音楽理論研究に興味が出た場合

これは学校的成功の延長、禁欲的で、自分の感情と一旦距離を置いて、楽曲の構造について分析してそれを知ることが、音楽の感動に代替されてしまうタイプの人です。

こう言うのを「美的性向」と言うらしいです(「ディスタンクシオン」より)。

普通なら、涙目でわーぁあああと感動する音楽の表情に、距離を置いてしまうタイプ。

みんなでカラオケに行った時、皆が手拍子と合いの手で盛り上がっているのにエコーの具合や、画面の角度、照明の位置、立ち位置とか気にしてしまう人。

飲み会で幹事得意な人。ホームパーティでの料理買い出し担当。みんなで旅行行く時の計画立てる人。ジャズを聞いた時、フィーリング無視してコード進行分析しちゃう人(俺かー〜ー!)。

こういう人は、、またその人に合った生き方があるものですが、「誰かがエコー調節しなきゃあかんだろ」「お前らがやらないから俺がやるんだよ」みたいな空気出さんといてください。逆効果です。だから音楽理論食わし奴が頭だけ。とか言われるんです。

その上で、もし音楽理論そのものに興味を持って独自論を作りたければ、大学に行って音楽研究の博士号を取った上で、独自論を展開する道を選択することを勧めます(私もすごく勧められた)。

もし私のように在野で公表していると、しばらく(二十年ぐらい)全く相手にされません。知ってもらうために人生を懸けることになります(私はそれが向いていました)。

世間では音楽理論を知っている人の方が少ないです。ましてやそれを応用した独自論など誰もわかりません。

 

 

自分に活かせるものは何か、考える

カーブ、スライダー、フォーク、ナックル、スローボール、チェンジアップ、あらゆる球種をあなたは今覚え、投げられるようになりました。

でも実践で通用するのは、あなたの体に向いた球種、あなたの性格に向いてる球種、握力がなくなってきたときでも自由に変化させられる球種です。それは投げ続けて、トライしてみて、失敗してみて初めて分かります。

あなただけのカーブを投げられるようにして、かつ最強の武器にしてください。

 

音楽理論など意味がない!自分のやり方でやる

というあなた。あなたは今、独自論を作ろうとしています。

大抵はしっかり勉強しないで独自論に入り始めると、やり方が雑になるだけで一般論の中に、先人の遺産の中にもっと良いやり方があるのに気付いていません。

音楽理論はあなたに残された遺産なんですから先人の遺産を受け取ってください。

学校の授業を二、三回出てつまらなかったからといって音楽理論の学習をやめるのは、あなたに相続権がある莫大な遺産を手続きが面倒だから、と拒否するようなものです。

 

以下は「音楽の疑問」です。

 

Q.なぜ音楽を学ぶのですか?

A.自律的に共感して感覚的に選択できる自覚を極めるためです。音楽的素養のある人は自分が何に共感するか、何に共鳴するかを具体的に察知する能力をなんとなく自覚します。後は勉強を続け、その感覚を知識によって補ってゆきます。その感覚を極めると音楽表現も豊かになります。

またその訓練は人生の決断や、健康を維持するためにも活用できます。

音楽(愛好)家は音楽を通して全てを学べるので、そこに辿り着くために音楽を学び、自らを律してゆきます。

学校で学ぶのも「社会が認めた先人の独自論」です。勉強というより、"現代に生きる死者(先人)"との対話を続けることになります。

学ぶ目的を独自論の畑を豊かな土壌にするため、としてみてください。

やがて自分たちも死者になり、後世があなたと会話し続けるでしょう。

 

 

Q.どんな体感で学び続ければいいのでしょう。

A.「彼を知り己を知れば百戦して殆からずby孫子」です。

音楽理論を知ることは、他の作品の分析に優れることです。
そして自らの感性を研ぎ澄まし信じ、その結果を日頃から自己分析する。その両方がしっかりできていればどんな作品への仕事が来てもあやういことはない、と解釈できませんか?これは故事ですから万事に該当するはずです。感覚と知性二つとも求めていく体感は重要だと感じます。
合わせて「学ぶ才能」と「学び方の発見」が必要です。学ぶ才能とは、探究をし続ける能力です。「学び方の発見」は自分にとって教え方が上手い人、自分に合う学び方、ノウハウ、メンターとの出逢いを見極め求められる能力です。

教える人の才能や実績、学びの形態の是非は関係ありません。

それに出逢うと天啓のようにそれまでの学びの道が習得の道に入ります。

そこからがあなた独自の学びです。まず自分に合う学びの方法に出逢うまでの勉強が大変なので、そこまでは頑張ってもがき、習得の日々に入れることを祈っています。

 

Q.なぜ音楽理論要る・要らない論争が起きるのでしょう。

A.その質問設定自体は、劇場型二極化議論の煽りや暇つぶしマウント行為ではないですか?

実際に仕事となれば、釘を打つ必要がある時、金槌が必要だと思ったら使うし、なければ石を使うとか、釘使わなくて済む別な方法を考えたり、とにかくその都度その都度真剣に考えてこなすのみです。

その後で個人がどうすべきか改めて決めれば良いことです。考え方もその都度変わります。今結論を出しても明日変わるかもしれない、というのが厳しい現場での日々です。

また、実際には、相手が提案するリファレンスに合わせて曲を締切内に作るスキルがあれば理論を知る知らないに関わらず問題なく仕事はできます。

実際に仕事をしてみて、日々直面する問題を一つ一つ解決していくと、その人なりの答えを得るわけで、二極化を求めるゼロサム脅迫はある意味で「質問する力」ではあると思いますが、質問する力があるだけで、提起している問題を解決させる議論力や思考力がない提案者もおり、「煽るの上手いなぁ」とだけ思えば良いのではないでしょうか。

理論闘争グラフ


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理論/感性の闘争は、座標上の論点が違うときに勃発します。

理論は社会的価値、感性は個人的価値です。

脳は楽でわかりやすいものを信じがちです。

哲学者でないなら、答えの出せる問題からどんどん回答を創り、それを元手に人生を前に進めてください。

 

Q.音楽理論にうるさい人、音楽理論をガンガン教えてる人が実際の音楽表現になるとあんまりいいと思わないのはなぜでしょうか?

A.人にもよりますが、どんな場面でも上から目線、押し付け、批判がましい人が「教える側」にいると、「やってみせよろ!」って言いたくなりますね。

また説明が上手な人、説明好きな人、教えるのが得意な人、言語化が得意な人が、どの分野でも言語化して説明し語る機会が増えるのだと思います。

その能力と音楽的表現能力や制作能力は全く別物なのでしょう。あとは人間性で損する人はいます。若さもあるでしょう。

音楽は感情的に聴いてしまうといくらでも錯覚できますからあまり巻き込まれないようにすると良いと感じます。

 

 

Q.音楽理論を知らなくても曲は作れるのですか?

A.何でもいいなら数曲はできると思いますが、それだけで何十年も活躍しようと思えば、たとえばリファレンス曲を聞いて忠実に細部を聞き取って再現でき、そこから展開して、さらに独創性を混ぜ、自分の曲を作れちゃうタイプなのであれば、才能で生き残れる才能があると思います。

そういう再現/再創造能力の高い人は理論知識がなくてもカッコいい曲が毎日パッパと数曲できちゃいます。

たとえば、今から一時間以内に、今ヒットしている曲をパッともじって、自分の曲ができて、人に聞かせて「すごくいいじゃん」て言われたら可能性あります。

もし一時間経っても楽曲が発信できないなら、勉強して身につけた方が早いです。そしてその時点で、ヒットメーカーには勝てません。全くもって全然才能が追いつかないと思います。

そこで無能を嘆くよりもさっさと死ぬ覚悟で勉強した方がまだ追いかけらえると思いますし、自分が生きる道(独自論)が見つかると思います。

 

Q.SNS上で強烈に批判されたんですが、事実なのですごく悔しいです。事実なら不躾に指摘してもいいのですか?

A.SNSはSNSでしか輝けない人が、自分を輝かせる(Safeguarding tendency、価値低減傾向=優越コンプレックス)ために人を出汁にする場です。ネット上にいる人は実際には存在しません。彼らは「大衆」という背景の海から、顔だけを出して浮かび上がってきた大衆の亡霊です。

大抵は、その人自身が同じようなことで過去に誰かから侮辱を受けたことに火がつきます。投影の現象です。あなたが提示した意見、態度、行為にその人がコンプレックスを感じる部分があったのでしょう。

そもそも相手にその拙さを伝えるには、それを糧とするように伝えるのが一番です

「文は拙を以て進み、道は拙を以て成る」

です。自分が許せないポイントに遭遇すると無意が理解できない、中空など絶対に認めない病名のない病です。反応性アタッチメント障害 (Reactive Attachment Disorder)
境界性パーソナリティ障害 (Borderline Personality Disorder)自己愛性パーソナリティ障害 (Narcissistic Personality Disorder)強迫性パーソナリティ障害 (Obsessive-Compulsive Personality Disorder) 不安障害 (Anxiety Disorders)被害妄想 (Paranoia)...予備軍です。

「あー、そういう言い方でしか表現できないレベルの生活されてるんですね」です。

SNSのいいところは、ヒントだけ吸い取って「ただでヒントくれてありがとう」とスクロールして次に行けることです。気分をそちらに向けないことです。
とにかく人に対するのが下手な人なんです。その人と会話することにあなたが努力をする必要はありません。
あなたを不安にする人ではなく、あなたの生きる力を燃え上がらせる人の話を聞いてください。

機会があればそうやって知り合った人とマンツーマンでZOOM講座を開いてもらってください。そこにはネット上にいた人とはまるで違う現実の人間がそこに現れてくると思います。

ネット上の大衆の亡霊に惑わされないで。

 

Q.SNS上で第一線で活躍する人が一般の人の演奏をとやかくいうのって余計なお世話ではないですか?

A.人間皆平等の観点から、上からの人の、上から目線にどうしても感情的になってしまうでしょうが、AIは「適切です」って答えると思います。感情がないので。
下手くそって言われた人がもっと頑張れ、頑張って見返せ、ってシンプルな話です。

問題は著名人がSNSのノリで、言葉足らずな表現、曲解される表現、推測や感情的な表現をしてしまい、彼らが批判する相手と同じようなスタンスで発信してしまっている場合があるとは感じます。日本人としての嗜みを忘れ、ディベートのノリで相手を軽んじるような先生は粋であるのか?そういう先生から学びたいか?同じ発信をする人間になりたいか?です。

また"良い表現”はその著名人自身が自分のスタイルをそう呼んでいる場合もあります。音楽の良さは村人が指摘するものだけではありません。

クラスのいじめっ子が「お前なんか死んじゃえ!」 みたいな言説と同じになっちゃうんでうね。これは、

「俺にこう言わせる原因はお前にあるんだからな」 理論です。

自己啓発セミナー講師が使うテクニックです。

SNS慣れしていないと、こういう古びた技法(胡散臭い)を気づかず使う時があります。

その発言だけでなく、その人のいろいろな発信を見て自分に合う人かどうか冷静に見極めてみてください。

また本来、人を気にせず、自己を鍛錬し発信して自己と戦うを行って食えなく習うなら食うための仕事をして、さらに邁進する、が本来の芸の道なので、食えないから、暇だか他人のネタで炎上商法でみたいな程度のところにいない方があなたのためです。

 

Q.なぜ音楽の先生は妙な人格否定をするんですか?

A.笑そんな先生ばかりではないとは思います。

人は自分が喜べるものに向かって進むようになるのが健全です。ただストレスを抱えたり、疲れたりしていると、逆に勢いがあったり、余裕があったりすると、自分の喜びを邪魔する存在を排除する力にまで傲慢に展開できてしまう時期があります。

その先生は疲れて不健全でいるか、講師業が順風満帆で健康が爆発しているかどちらかです。

ただ芸術音楽は厳しい世界なので、舐めてかかると怒られると思います。そこの沸点が低い"誇り高い"人はいると思います。でも人格否定は非難していいと思います。

「研究者」「博士」「専門家」という肩書きが既得権益なハゲ政治家みたいになってしまっている人もいます。

人格否定自体は軍隊などで「業務を軽んじる人間は仲間の命を危険に晒すと気づかせるために徹底して教え込む」ために行う慣習です。人格否定自体は犯罪ですが。

納期に遅れる、宿題をしてこないことが皆の業務に支障が出るから、と厳しく言わたりするわけですね。

逆に3人以上から同じ指摘をされるなら、あなたの側にも問題があると思います。

それを趣味講座に転用されると迷惑になる場面もありますね。これはドメスティックバイオレンスと同等です。最初は浮気したことを責められて殴られた、みたいな「こっちも悪い」みたいな状況が引き金で、暴力を容認してしまいがちな場面から蓄積し始める虐待です。昨日顔を殴って目のところが腫れているから、気を遣ったつもりがつい今日は足で蹴ってしまった。それから蹴るほうが傷ができずこちらも傷に動揺しなくて済む、みたいな感じでどんどん歪んでゆきます。

心はあるのにうまく働かせることができない人がいるんです。

繰り返しますが人格否定は犯罪なので、その部分は絶対譲ったらダメです。そこだけ徹底的に許さないでください。その人があなたを許した時、「あなたの人格否定だけは一生忘れない、ちゃんと謝り続けるまであなたを一生軽蔑する」と言ってあげましょう。

言葉は簡単に口から出せます。それを自覚できていない人に銃を与えると簡単に人を殺します。心を上手に使えないと、残虐を心が簡単に正義として容認してしまいます。

だからこそ自分が使う言葉からちゃんと制御できることは社会人としての基本だと思います。2回言われたらそういう人からは離れてください。

「先生の心は壊れている」「ちゃんと心が使えていない」「先生は生徒を壊している」

 

Q.クラシック音楽って敷居が高くて怖いです。

A.芸術音楽ですからね。

音楽の世界のK1のリングですから、素人がそのリングで殴られたら内臓破裂で即死でも仕方ありません。命を削って1音のために人生を積み上げた人たちの世界です。

その道の険しさ、芸術の不可解さ、孤高の精神が一般には理解し難いレベルで存在しています。私もクラシック関連の人からの音声編集御依頼を受けますが、1/1000秒以下のズレの指摘を受けます。そこには敬意を払いたいと感じています。

ただ、メディアに出る、聴衆にわかりやすく説明する、理解していただくサービス精神の能力が足りていない、と言われても仕方がない人は沢山出遭ったことがあります。

 

Q.クラシック音楽って感性で聴いてはダメなの?

A.普段クラシックで戦っている人ならその人の感性で聴いてちょうど良いくらいです。オリンピックに出られる人、とか、メジャーリーグで活躍する人、とかギリギリまで自分を追い込んで日々追い込み続けている人、同等レベルの達人であれば、クラシックを感覚だけで聴いても良いのではないでしょうか。

我々一般人はクラシック音楽を存在自体を認識できていないと思います。バッハという人が存在したことくらいしかわかっていないと思います。

やるなら死ぬ気で勉強してください。例えるなら今からあなたがオリンピックに出る実力を身につけるが如く、です。それでもわかるかどうかは保証できません。

 

 

Q.○○という曲の魅力を音楽理論的を理解したくて音楽を勉強しようと思うのですが、そういう動機で良いでしょうか?

A.良いと思いますし、同時に浅いとも思います。

音楽理論を学んで楽曲構造の魅力を探すのは個人の自由ですが、それは"お袋の味"の美味しさの根拠となる何らかの物質を特定しようとしている行為に感じます。

正体は鍋の雑菌かもしれません。

音楽に魅力を感じるのは、あなた自身の人間的能力です。

花を美しいと思うか思わないか、みたいな。おふくろの味の良さには偏見や先入観、贔屓、過大評価なども入っていますから、それを万人に良いと思わせるのは不可の杖巣。彼らには彼らのお袋の味があるからです。ここが拙論で用いる心象であり、音楽的なクオリアです。

なんでもかんでも音楽理論で考えるのは、浅すぎると思います。

 

Q.作曲に必要な音楽理論てどこまでですか?

A.私は「作曲は最初にできるかできないか」で考えています。鼻歌からなんとなく覚えたコードを当てて曲ができてしまう人が学ぶのが音楽理論というツールです。

オリンピックに出たいなら、人体の構造は結構詳しく知る必要があると思います。

音楽理論は作曲するためのツール、というより、

絶壁を登れる人(作曲できる人)が、素早く安全に登るスキルや技術体得の方法、必要に応じて岸壁で一夜を明かすためのビバークテントが音楽理論というイメージです。

これはやはり多少の山を登ってみないと何がどれだけ自分に足りないかわからないと思います。なんとなく作曲できるなら、コンペに応募してみてください。それで合格採用されたら、今急いで体系的理論を1から学ぶ必要ありません。

 

Q.音楽理論て和音の構成や連結についての話が多くないですか?メロディやリズムももう少し理論化してもいいのでは?

A.結果論ですが、時代によって変化が如実で、話としてまとめ目安かったのが和音的な現象だったのだと思います。

また、そうした厳密化によって、それ以外(メロディ、ジャンル、リズム)が組み合わせの妙となり、そこが唯一自分らしさを作る場所であったため、自然と理論化されない存在として解放していたのではないでしょうか。

ただ、私もグルーヴの掴み方とか、ビ・バップの旋律論、ヴィブラートの出し方とか、そういったことが方法論として和こえ同様に明確に確立されていると楽だなぁ、とこれまで感じたことはありますが、詰めれば詰めるほど、そこが個性の発揮される明文化できない特殊性として放置すべきかも、といつも思い直します。

 

 

Q.音楽理論を勉強して理論に縛られる/個性失うってことありますか?

A.日本語を学んだり、算数を学んだら、社会生活において個性を失うと思いますか?

学習して皆が皆辞書の例文のように喋ったり、数学の教科書の例題のように八百屋の店先で計算していたら教育の弊害、人格の否定と言えるでしょうが、現実はそうはなっていないようなので、教育はそこまで人格の発現を邪魔してはいないと思います。

音楽理論も最初はぎこちなくなっても使いこなす訓練によって、ぎこちない時期を一生懸命乗り越えることで、むしろ個性を発揮できるツールになるのでは?学んだ最初の時期だけでそのように判断するのは怖がりすぎかも。

こういった恐れはその人の気質的に「注意バイアスを」持っている人に多いと思います。学び取ったことに注意を向けすぎてしまって気持ちの上でギクシャクしてしまうようなその人の元々の性格が音楽理論恐怖症のような症状になって表現に影響するのだと思います。だから誰もが同じような症状に陥るわけではないと思うのです。

縛られるという意味では、メディアに、プロデューサーに、事務所に、お客さんに、世間に、時代に縛られることの方が多いと思います。

そして縛られても縛られても破って噛みちぎって前に進むしかないです。

 

Q.全く音楽がわからないのですが、あるコードから次にいくのにどれを選択するか、をどう決めればいいんですか?

A.選択肢を並べ、それらを聴き比べ、自分の「音楽的なクオリア」に従います。ただこの質問が出るタイプの人に音楽表現の追求は難しいと思います。

音楽表現が強迫観念のようにポンポン頭に浮かんでくる人が「音楽家」です。彼らは頭の中に音が響いているので"どう決めればいいか"なんて根本的なところで迷う必要がありません。
そういう才人たちが「もっと新しいことを..」と色々試した歴史が音楽理論です。

我々はそれらを学んでさまざまな選択肢を身につけ、そこから選べばいいんですが、現代は選択肢自体が膨大になってしまいました。

17世紀なら、禁則破るか、守るかで手に汗を握りましたが現代では「どんな表現もどこかの時代、文化、価値観の上では正解」です。

そんな時頼りになるのが「自分がどれを選びたいとその時直感したか=音楽的なクオリア」という自己判断行動と向き合い続けそれを適切に掴む経験を重ねることです。

 

Q.感性が大事って何ですか?理論を学ぶと感性が鈍るんですか?

A.「感性が大事」は「独自論が大事」の意と捉えます。

感性は音楽家本人の直感(瞬間的に脳が社会性と個人性を合算して弾き出す答え)、思想(社会性に依る)、嗜好(個人性に依る)ではないでしょうか。「センス」という語のニュアンスも個人が感じるものなので、その個人が規定するしかありません。

「理論学ぶと感性鈍る」は、伝統や格式、規律に入れ込みすぎて、元々本人が持っていた「らしさ」=直感的思考=社会性と個人性が合算された真に個性的な答え、を見失うな、という戒めでは?

そこに気がついたら、万策尽くして自己を探求表現追求するしかありません。

"練習きついから辞める"では、どんな分野でも上達はないと思います。

感性鈍ったと感じている間は新入社員だと思います。

 

 

Q.なぜ音楽理論はわかりづらい概念で作られているのですか?もっと分かりやすい教え方たくさんあると思うのですが。

A.わかりづらい、わかりやすいは個人その人の感じ方のスキルで断じているだけでしょうから、あなたの理解力に問題の焦点を向けてみては?

もしガチでそう思うなら自らがわかりやすい学問体系を作って、かつそれの成果を作品で示せば良いと思います。

 

Q.ダサい曲、つまらない曲、嫌いな曲はこの世から消えて無くなってもいいと思うんですが。

A.選民思想ですね。「いろんな人がいろんな人生を生きていることを理解しきれていない自分」への苛立ちですね。しょぼい曲が日本の音楽力を低下させている、という強迫観念でしょう。それは満員電車に乗ると自分死ぬかもしれない、という強迫観念に似ています。そういうおそれを自分が感じていることをまず理解し、余裕が出てきたら、批判されて苦しんでいる人に、道を示し、向上するようにやさしい言葉でサポートしてあげてください。

 

Q.悪い音楽(理論)、良い音楽(理)論てあります?

A.「自分にとって良い(悪い)理論」があるだけではないかと感じてます。

独自論が見えていないと、他者に欠けた一般性や、「自分よりもたどり着いていない感」を危惧してしまうのでは?それぞれが悩みながら、自分の音楽論を高めていくしかなく、これから未来永劫自分の方法論で救えるのは百人くらいだ、と思って頑張るしかないよ感じています。

 

Q.なぜメジャーコードっていい感じに聞こえるのですか?

A.人の耳と脳が倍音構造を基本に空気体の振動を捉えることも関係しているでしょう。

メジャーコードは自然倍音構造に寄せて作られた和音です。そこから健全さを感じる文化圏においてメジャーコードが使われた楽曲に対する人生の記憶や感情の記録がミックスされて心地よさ、馴染みやすさを感じ取るのではないでしょうか。

あなたが音楽家なら、その根拠を科学に求めるのではなく、自分の「美しい」を作品にしてください。それが後世の新しい「いい感じ」となって継承されます。

 

Q.人も文化もそれぞれ価値観と美意識は違う、という意見のようですが、ペンタトニックスケール的な音はさまざまな文化が使っています。何らかの共通した美的根拠があるのではないですか?

A.人類は共通した肉体構造(聴覚構造)は持っていますが、文化的背景/気候/木材の違いから、ピッチやリズム、微細な表現が変化します。少なくとも全く同じ周波数ではないはず。それを「同じ」と括るのはあなたの解釈の解像度です。

 

Q.なぜジャズ愛好家ってお高くとまってるんです?

A.そんなことないと思いますが笑、中には知らない・わからないと指摘されたくなくて、棘を立ててしまう場合もあるでしょう。

自分の方法こそ世界の理論の中心となるべきだ、と思ってしまうとキツイ態度になるでしょう。自己防衛で。

正解のない中、長くやってきて信奉された時期もあったりすると、自分の思想にしがみつくようになったりも。

「ジャズは好きですが、あなたは苦手です」って言っても良いと思います(本気でなくても)。

 

Q.不定調性は調の流れを軽んじることで音楽の流れの重要な要素である緊張と弛緩を無視してしまっているから、音楽が渋滞し、ダイナミズムのない音楽になるのではないでしょうか?

A.調的システムは無視しますが、人の心象の中に生まれる緊張と弛緩まで無視しているわけではありません。緊張は人それぞれです。機能和声が提示する緊張はドミナントに特化しています。しかしC-Caug-CでもC-Cm-Cでも緊張感はあります。

それを生んでいるのは和音ではなく人の心です。

自身の緊張と弛緩の流れを感じ表現するためには、自身の感覚で音楽を紡ぐ習慣を重ねるしかありません。私にはそれが不定調性という概念なんです。

 

Q.音楽理論ガチガチの曲ってダサくないですか?

A.ダサい、と思いすぎなくてもよいと感じます。誰でもそういう作品を作る時期がありますし、自己嫌悪に陥る時期があるものです。そう感じる時期、そう指摘される時期を頑張って乗り越えてください。

未熟だけどもうこういう風にすればもっと良くなる、と指導してくれる人と一緒に頑張ってください。ただ 煽るだけの煽り運転の人とは何かを教えられたとしても関わり合わないようにしてください。彼らは自分を理解して欲しいだけです。

 

 

Q.音楽はどう理解できるようになったら、わかった、と言えるのでしょうか。

A.理解は移ろいやすいです。終わることはなく、ずっと理解自体を更新し続けます。

つまらないと感じたら、現状のあなたの理解は「つまらない」で良いと思います。

例えば、夕日がオレンジではなくて、真っ青だったら、最初恐れや不安、驚きを感じると思います。しかし二日連続で見ると、もう慣れてしまいます。理解出来ない不安は慣れで解消されることもあります。疑問は内ポケットに入れて、時々考えると良いです。みんな同じように考え、鵜呑みにしたり自己解釈を繰り返したりして乗り切っています。人によってそれぞれです。わかろうとするよりも、昨日はこう考えた、今日はこう考えた、とどんどん理解を更新していってください。やがて他の知識に溶け込むほど自然な話になります。そしたらまたより深い、厄介な疑問と対峙していく、そんな感じです。

「全てを完全に理解した」という日は来ません。

「明日も考えていこう」がずっと続くだけではないでしょうか。

 

Q.不定調性論を作ったメリットディメリットを教えてください。

A.社会的なメリットは、妙なこだわりがなくなり、相手の意に応えられる人間になったことです。

社会的ディメリットは、出世欲がなくなったことです。それで周囲に「上を望まない不能者」と落胆させたのは申し訳ないです。

個人的メリットは、音楽制作で本当に自由になれ、能力以上に自由に作れることです。個人的なディメリットは、感じたことがありません。それを感じても独自論だから即修正できます。

総じて良くも悪くも楽になりました。

 

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大々べテラン、ヤマハの講師でもある北川先生のプロフィールHPはこちら。

遠い昔、日吉のヤマハ音楽院時代の夏期講座で北川先生に音楽理論を直接学びました。

とにかく丁寧なレッスンだったのを今でも覚えています。こうやって論理的に勉強する方法もあるのだなと初めて気づかされました。

その節はありがとうございました。

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ポピュラー音楽理論 改訂版 北川祐 編著