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自己満足の探究
不定調性論は、独自論によって音を楽しむ行為、つまり自己満足の世界です。
皆さんにも自分だけが浸れる喜び、フェチ、安息があると思います。それを発見し、自身を満たす方法論を極めてみてください。
その先に社会貢献できる要素があれば社会貢献し、ただの変態なら、法律の範囲内で楽しむ方法を創造し、人生を豊かに暮らしてください。
私も多分後者の方ですが、何十年も自己を認められず生きあぐねてしまいました。
自分にとってふさわしいものを自分で判断できず、決めかねていました。
自分が共鳴するもの、交換するもの、快を感じるものを受け入れられませんでした。
これは自分との乖離に繋がり、現実に現実味を失います。
そうではなく、自分の有り様を認め、自分の快を認め、それをどのように生涯を通して展開していくことができるか、を静かに考えれば良かったのですが、そこに意味を求めることができませんでした。
おそらくその不満と意識のシミュレーションが不定調性論となり、その外観を俯瞰することで初めて自分の有り様を把握することができ、自分の欲求も把握でき、そこから自分が及ぶことのできる世界を予測できました。そういう自分なのだ、と認めると、いろいろなことが瞬時に判別できるようになりました。
人間は振動数を数値ではなく「音」という現象に変換して理解します。共鳴を「快」として認識します。しかし音楽の理論は、「整数比の音が快である」などと吹き込むので話がおかしくなったのです。
自分にとっての共鳴とは、快とは、自分の心象が「快」と判断したものであり、音楽理論の定義は関係ありません。
人間は複雑な振動数の是非を「心象」で判断しています。
自分に合うか合わないかは、難しい振動数の計算やEQをいじる必要はなく、自分の心象に「快か不快」で判断できます。機械も知識も要りません。
あとは万人にとっての快を求められる才能を持つ人と、自分の快を追求する才能を持つがいるだけでしょう。
あとはどのように自分にとって健全に、発展的に、意義のある心象力(音楽的なクオリア)を働かせられるようになるか、日頃から自分に挑戦していって切磋琢磨していくか?であると思います。
それらを全て自分で考えて、自分で推進していく道が「独自論」だと思います。
また繰り返しますが、この探究が人や社会に弊害を引き起こす方向に向かうなら、残念ながら法的/医療的/社会的措置を受けることを受け入れないと、自らの快によって自らを滅ぼすでしょう。
自分の責任を自分で持つ、ことは現代ではとても難しいです。
独自論=全部自分の責任
を覚悟してください。
自分の中にある答えしか自分にとって答えではない、はずです。
誰かが答えを、ヒントをくれる、と感じるかもしれませんが、それはあなたが自分を信じているから見つかるヒントの解釈です。その先にはいつも自分の責任を執ることから生まれるのではないかと考えます。
全ての音楽制作は独自論
全ての民族が英語を選ぶわけではありません。
独自解釈は社会に対する自分のセカンドオピニオンです。
人は未熟なまま決断していかなければなりません。
鍛錬と学究をやめてしまうと独自性は消えてゆき社会の底辺的価値観に留まります。
認められない、排除される、無視される、という状態は、独自性が保たれている証拠です。個人的価値は他の何かと比較できない存在です。
人は社会に根差し、世界の繁栄のために生きるべし、音楽も世の中に役立ち、音楽人として真っ当な社会貢献をすべき=社会的価値、
人は地に根差し、地に生かされているから、音楽はただの空気の振動であり、価値や美意識とは無縁=個人的価値
自分中心に考えてみる
個性の発見(独自論の剪定)は良いことばかりではありません。
「自分ができないこと」を認める作業も含みます。
しかしできないことを認めても可能性がなくなることはありません。
それがストレスになるなら独自論は勧めません。
例えば、あなたが目が見えないとしたら、楽譜はあなたにとって基準にはなり得ません。耳が聞こえなくてもあなたの手を握る誰かの手の感触があなたに美しさを感じさせるなら、それがあなたにとっての"美"であり、音楽といえます。
あなたが「音楽はよくわからない」と感じるなら、あなたがおかしいのではなく、あなたの身体の現状がそのように理解させているだけです。
勉強は自分からの逃亡です。
葉っぱが地面を目指しても、根っこが空を目指してもうまくいきません。自分の役割を冷静に見つけるためにも独自論の聖域を丁寧に構築する必要があります。
あなた自身の解釈の責任もご自身で執ってください。
最後は全て自分で決めています。
楽曲解釈の心象表現化
楽譜では読み解けないこと、例えば、コンプがきつい、ピッチが悪い、グルーヴが良い、表情がいい、ダンスが良い、衣装が良い、等他にも言語化/非言語な感覚を人は音楽に感じます。
失音楽症の人がショパンを聞いた時、ショパンはただのノイズだ、と感じるそうです。それがその人にとっての現状のその曲の心象であり事実です。社会はそうした個々人の価値観の差異を排除し、経済を動かす仕組みを優先して作っています。
あるコード進行に対して、
HM7 |Jm7 |KM7 |Lm7 |
「寒々しい冬のような」と思えるなら、この感覚は自身の冬の作品で応用できます。逆に「寂しい真夏の誰もいない海岸」を感じるならそれに従います。
小さな子供のパフォーマンスが未熟でも、笑顔が素敵だ、衣装が素敵だ、と感じるスタンスは誰でも持っています。
ライブで音楽はよく聞こえなくても観衆の熱狂が最高だ、合間のトークが面白い!と感じる人は、それも音楽鑑賞への願望と心象です。だからライブに行きたくなります。
自分なりに楽しめる人は、その人の独自論はすでに出来上がっています。
当然「何も感じない」も心象です。
"アート思考"のその先へ
アート思考=自分なりの意見を持つ
しかしそれだけでは、バッハの作品を聴いて「くだらない」と意見を持って良い、となります。
・自分が感じることを受諾しその"価値"を創造する(自覚)
・価値を自分の生活/活動に具体化できるよう訓練する(活動)
・次なる価値観を与えてくれるものを見つける(冒険)
バッハに感動しないなら、今無理にバッハに何かを感じる必要はない、と解釈できます。それが自分の知識、経験、熟考の甘さ、浅さからくるとわかっていれば大丈夫です。理解は常に一時的な心象です。
独自解釈は社会学習を怠らず日々更新改訂していく必要があります。
今のあなた自身の美意識、フェティシズムを満たしてくれる存在を探してください。
やがてバッハに共感できる日が来るかもしれません。バッハは人類の共通言語として相性が良いと認知されているからです。価値に気がつくのではなく、価値を認める行為です。そしてそれはすべての存在に適用できます。日本語では「慈しみ」とも言います。
感受性教育のその先へ
誰もが音楽を聴いて情緒豊かに感じるわけではありません。
音楽を聴いて情緒豊かに感じる人が、その感覚を活用し、音楽という存在を通して自分自身の人生を構築すれば良いだけです。
音楽を通して何かを感じ取ることができる人は、その他の教科で学ぶべき文法や、計算、物理を音楽を通して感じます。
感じるままに感じたら、自分が生きる価値がないと思い至った、と私に訴えてきた人がいました。
それは感受性教育の副作用だと思います。自分の周りに共感できるものがない、と絶望したのでしょう。これは「慈しみ」という心の不足です。注意しないと、誰でもそうなります。寝不足でも他者の価値を認める能力は欠如します。
体の細胞がなんとか今日も明日も生きるために全勢力を使っていることが感じられないと人生の価値を見失います。
以下は自分が制作時に"考えなくても済む"ために設けた様々な音組織法です。
「考えないで済む」ことの意義はこちら。
「Zone」という状態と比較されるかもしれませんが、もっと積極的に感覚的な作業に徹していく感じです。無知だろうが、集中していなからろうが、とにかく感覚的に作業をしてゆきます。いちいち考えてつくらない。しかしひたすらその作業にのめり込んでいく必要があるので、向き不向きがあるとは思います。
12音のモデルの再形成
音楽的和音も、海の波音も「自分が感じる音」と説明するための材料です。
自分が気持ちいい音はその都度変わります。
和音/和音進行を再形成する
音集合、音連鎖の作り方も再構成しました。
聴覚と脳と心
直感を重視すると、脳と心のバグについての知識と理解が求められます。
何も信用できないからこそ、素直に心に起きた反応と一緒に生きてゆきます。
さらに具体的方法論について
やることはシンプルです。現状の自分にとって感覚的に自在に統制しやすいと感じる材料、音グループ、音集合、理論技法/概念を一旦感覚的に取りまとめ、その中で実際に自由に制作行動、業務遂行を行う経験を重ね合わせながら、制作時に「何かを参考にするために負担に及ぶほどに本を開いて分析考察したり、ネットを開いて手を止めて勉強しなければならないほどの時間を割いたりしないで完遂できる制作体制」を整え、経験を積んで、出来上がる自作曲、仕事体制があなたの独自論であり、それを生涯に渡って磨いていくために、勉強、経験を積む、という発想です。
創作作業自体が現状の全自分のみで生み出されるようにします。
例えば答えを出すためにフレーズ自動生成ソフトを使っても、それ使って答えが出ると直感したら、それは"負担のない自分の使い方"だと思います。
毎回何でもかんでも頼るようにそうしたソフトを使うと、負担になる自分の使い方になり、疲れると思います。疲れない作業方法を創造してください。
だから独自論が決まらないのに勉強をしても、確率の雲だけを増やす作業であり、確定的な作業はできません。制作時に生み出す答えが定まらない、次にどうしたらいいかわからない、という感覚を抱いていては意味がありません。結果は自分で定め、答えという情報を自分で確定した上で仕事を収束させないと実態は生まれません。
作業し、自在に答えが出て、仕事として完遂する、自分の範囲をまず定めます。
それを生涯かけてさまざまな勉強、ツールを駆使して拡張していくのが独自論の最大の魅力です。
下記はその前段階の、今述べた「自分にとって感覚的に自在に統制しやすいと感じる材料」を定めるための素材、と考えてください。
読みながら、自分はこうしよう、と思ったら、不定調性論から離れ、どんどん自分で可可能性の雲を作り、そこから実体化する作業に移ってください。
その作業を独自に極めることで、独自論が定まり、考えないで自分お仕事を完遂できる状態がやってきます。
それによって自分の可能性の方向にいくつかに振り定めるので請け負える仕事が減り、収入も少し減りますが、今後の人生、しばらく枯渇することなく、探究心も(少なくとも私は)数十年失われません。得意なこと、好きなこと、自分にとって負担にならない作業が仕事となり、それを極めることは努力と感じず、ひたすらにそこに探求できることで唯一無二スキルとなり、結果として仕事が安定するからです。
動画シリーズでも概略がつかめます。