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前回
前回の続きです。
第7講 情景
冒頭、川端康成「雪國」が引用されます。本当に講義のようです。
確かにこの小説の冒頭は読む者に鮮やかに冬の冷気を想起させ、その物語の中に吸い込まれますね。文章から人が感じるイメージ構築能力ってすごい。
同書では続いて最初に音を聞いた時の心的イメージが脳のどの部位で新たに構成されるか、現状の研究で分かっていることが記されています。
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<マインドワンダリング>心がさまよう、意識が一つに集中しない状態
心ここに在らず、みたいに感じますが、人は集中している時でも、その時間の約半分は心がとりとめもなく働くような状態になるそうです。そしてそれこそが思わぬひらめきを得たりすることにもつながるそうで、ひたすら集中してひたすらがむしゃら、っていうよりも、やはり適度な集中と無意識をさまよう状態がバランスよくある方が良いようです。
<メンタル・タイムトラベル>
脳は必要に応じて過去を思い出したり、未来を想像したりします。これから先自分がより良く生きるために必要な行為なのだそうです。
過去のことを思い出すことも未来のことを想定するのも、脳は同じネットワークで処理しているのだそうです。ちょっと意外ですね。
過去と未来、脳内データの種類的には同じものなんですって。
時間という概念は人が作り上げたものですが、宇宙自体が作り上げた私たちの脳の中は、時間とはもっと違う形式で組み立てられているのかもしれませんね。
思い出は変えることができる、記憶は簡単に歪められる、という話はしてきました。
もし社会の中に記録媒体がなく、人の記憶だけだったら、真実はめちゃくちゃ、ということですよね。
またはいくつも真実がある、ということが真実、となります。
事実ってなんでしょうか。真実ってなんでしょうか。
未来の事実をイメージして、未来を創り変えることもできます。
過去と未来が時間軸の中で一体どのように存在しているのか、途方も無いところに放り込まれそうです。
未来=過去
という図式が脳の中ではあるのかもしれません。
新しい。
人の5000年ぐらいの歴史に大宇宙での重要性はどの程度なのでしょう。
私たちは何をそんなにこだわって生きているのでしょう。やはり人間の認識の範囲内で生きる小さな生き物なのでしょうか。それじゃ虫さんと同じではないか。
だからこそ宇宙自身が作り上げた「脳」という存在は、記憶媒体はあまり正確に作らず、遺伝子構造の進化に全てを費やしてきたようにも思います。
人が音楽を美化して行えるのも、曖昧な存在であることの証明かもしれません。
そうなると大切なのは事実ではなく、今懸命に生きていることであり、過去も未来も考え方で変えられるものなのかもしれません。
<ディフォルトモード・ネットワーク>
人は起きている時の半分は意識を自分の内側に向けているそうです。もう半分は外側に向けて、ネットを見たり、人の話を聞いたり。二つのベクトルが頻繁に切り替わり、意識で気がつかないくらいだそうです。そしてぼーっとしている時も、脳はぼーっとしていません。その時働いているのがディフォルトモード・ネットワークなのだそうです。
デフォルトモード・ネットワークは内側前頭前野の「自己」、角界の「他者」、楔前部の「イメージ」が統合されるネットワークです。(中略)瞑想をしているときにこの内側のラインのネットワーク結合が強くなることが最近の研究でわかりました。内側前頭前野と楔前部は「自己」と「イメージ」なので、瞑想によって意識を内側(自己)に集中させていることと、そのときにイメージが重要な役割を果たすことが示された興味深い結果です。
脳が考えているベクトルの向き(内か外か)がある、というのは面白いですね。
外敵から身を守るために外に向けることができるのはともかく、自己内省をする必要とかあるんでしょうか?それが進化なのでしょうか。
ただ感情が豊かな人、イメージが豊かな人はディフォルトモード・ネットワークが活発なのだとか。世に言うクレーマーとか、煽り運転とか、いかにもディフォルトモード・ネットワークが鈍そうな人がいます。それは先天的なのでしょうか。それとも現代社会の何かが原因でそうなってしまったのでしょうか。
とにかくアーティストは、イメージが豊かでないと仕事ができません。
ディフォルトモード・ネットワークは好みの音楽または悲しい音楽を聴くときに活性化される、という研究もあるそうです。
<神経美学>
脳科学には審美性を脳のどこでどのように感じるかということを研究する学問があり、神経美学(neuroaesthetics)と呼ばれています。
音楽でも絵画でも、美を感じているときに共通に活動する脳部位があります。そのうちの一つは内側眼科前頭皮質(medial orbitfrontal cortex)です(石津:神経美学)。これは以前にも出てきた報酬系の脳部位です。視覚的な美を感じているときや、聴覚的な美を感じているときでも活動するので、美しさそのものが報酬になっていることを意味していると考えられます。
そして、とどめの一言です。
感動の理由は私たちの脳にあると考えられます。
脳画像研究によって、音楽鑑賞時は聴覚野以外にもいろいろな部位が活動することが明らかにされました。(中略)聴覚以外の感覚、認知、記憶、運動機能などさまざまな機能を総動員して聴いています。中でも記憶やイメージの役割は大きいと思います。脳が統合的な情報処理をする過程で「音楽」を作り出しているということができると思います。
また失音楽症についても触れられていて、特定の部位が働かないと、音楽を音楽として認識できないそうです。歌は叫び声に聞こえるのだとか。
つまり脳が「音楽的な認知」を作っていることは明らかです。
我々はV7はIに解決する、と習いました。
しかし当時は脳科学がありませんでした。だから観測結果と慣習をそう述べたにすぎませんでした。国境を越えてV7ーIが成り立つのは脳機能に共通の機能があるからでしょう。
機能和声論は、その謎を音の動きに求め、理論を構築しました。
不定調性論もそれに従っています。そこをさらに発展させて、そうなるからそう感じるには「個人の感じ方でそうなる」としていくことで、自分の感じ方が主体となり、それを自己の音楽制作に活用することができます。これは失音楽症の人にとっては「美しいと感じない」ということを認めてあげる方法論にもなります。
人それぞれ、とはもっともっとイメージが及ばないほどの多様性を含んでおり、「古い音楽理論」は当時の範疇で定められた常識、と捉えておくことで「現代的な音楽理論」の必要性を個人個人で感じて頂ければ、と思います。
脳科学が音楽理論の恣意性を作り出すのか、逆に裏付けるのかはわかりませんが、あなたが良い、と思ったものはあなたにとって真実である、と言うのは確かだと思います。
もしあなたが失音楽症だったら、ショパンはただの金属音の騒音に聞こえるはずです(同書の紹介事例より)。それがあなたにとって事実である、というスタンスが不定調性論的思考です。
世の中の伝統、と自分の価値観、は必ずしも一致しません。
そして自分の思う通りに社会を変えることもできません。自分がいつ失音楽症になるかなどわかりません。
伝統的学習と独自論を両方上手に持つ、というのはいろいろな未来への対応策なのかもしれません。