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前回の続きです。
第5講 感情
<認知的再評価>
悲しい時、怒った時、激情を発する時は、文字どおり感情が自分を支配してしまいます。
その感情のままに行動すると、それはそれで情熱的ですが、時に社会生活では迷惑になることもあります。
そこで必要になるのが「認知的再評価」という行動です。
まず、
・感情反応に対して自覚すること(でも、頭にきた!!!、という自分を把握するのって訓練が必要です)
・把握して、少し時間が置くと(数秒-他文献では6秒-でいいらしい)脳は冷静になるので、改めて状況/原因を分析することで、「感情の支配」から抜け出すことができる(怒りを感じても待つ事などできないし、実際の生活感の中では成果はイマイチらしいですが...変な怒りとか気がつく時が確かにあります)
この「視点を変えて原因を再評価すること」を「認知的再評価」と言います。
これができる人は大人、ですね笑。
記憶をたどり、ロジックを駆使して、ときには他者の視点に立って、あれこれ考える認知的なプロセスです。その証拠に、認知的再評価をしているときは、前頭前野や下部頭頂小葉などのいわゆる認知系の脳部位が活動度を上げることがこれまでの研究で示されています。(中略)前帯状皮質も活動します。また、未知や架空のことも含めていろいろな可能性を想像する力も重要です。
これが欠如したり、気がつかないと暴力を振るったり、社会的害悪になるような行為になってしまいます。
演奏時、作曲時にもこれが言えて、作っている時の自分に酔ってしまうと「翌朝聞くと笑っちゃう音楽」になっていたりします。いわゆる"深夜のラブレター効果"です。
ラブレターはそんなに頻繁に書かないから尚更でしょうが、音楽はとにかく描き続ければ、そういった自我消失、自己陶酔は少しずつ避けられます。
良かれ!と思った演奏を友達に鼻で笑われたり、自分で満足した演奏でも人はあんまり聞いていなかったり、といった経験が豊富になることで(笑)、筆者のいうとおり、記憶とロジック、そして友人の未知の反応も笑、予測できるようになります。
できる限り感情の暴発から冷静になるまでが早ければ早いほど達人だと思います。
逆に薬物などでそれらの機能が低迷していると、感情が暴発し、普通の人では考えられない行動をするのかもしれません。
報酬系を活用する
悲しい時、辛い時、脳の報酬回路に頼ることは自然です。
(好きな)音楽を聴いてもドーパミンが分泌されます。ドーパミンが出れば、人は癒しというか歓びを感じます。
辛いときに仕事に集中するということも同様です(辛いことから目を背けることでもだいぶ辛さは減る)。感情は、打たれた痛みというような現実に起きた出来事ではなく体内で起きている現象です。考え方でコントロールできるものはコントロールできるように修練したいものです。
「感情をむき出しにするのは映画やドラマだけ」って言い聞かせるだけでも自分は違いました。
・自律神経系に作用する
スローテンポな曲は幸せホルモン「オキシトシン」の分泌が促進されるそうです。
アップテンポの曲はストレスホルモン「コルチゾール」の分泌を抑制するそうです。
音楽のストレス低減効果は短調の曲より長調の曲のほうが大きいそうです。
なぜのかは未だに不明とのこと。
・痛みを和らげる
線維筋痛症の患者さん23名(全員女性)にモーツアルトの曲「ヴァイオリンとビオラのための二重奏曲 ト長調 K.423」を聴いてもらい、その前後の脳活動のfMRIデータをとり、解析しました。全3楽章(約17分)を聴いた後は、多くの人で痛みが和らぎ、データ解析の結果から、楽しいことなどをあれこれ自由に想像する脳内ネットワーク(デフォルトモード・ネットワーク)が痛みを感じる脳内ネットワーク(セイリエンス・ネットワーク)から切り離されて痛みから解放されている様子を、脳内ネットワークの変化として確認できました。
・感情系に作用する
音楽はさまざまな脳部位に作用しますが、扁桃体もその一つです(Koelsch 2014)。うつ病や不安障害などの精神疾患は扁桃体の過剰活動と関係があると考えられているので、音楽、とくに安らぎや感動をともなう音楽が扁桃体に作用することによって、扁桃体の活動が正常化することが期待されます。
その他報酬系への作用、記憶系への作用で過去を思い出し、認知症患者が過去に聞いた音楽を聴くことで表情生き生きと会話をするようになる、というようにも書かれています。またオキシトシンの分泌により社会性を高める作用がある、とも書かれています。詳しくはどうぞ同書をご覧ください。
また報酬系を求めて「音楽に逃避する」のはまた逆効果だ、とのこと。むずい。
また当ブログでも触れている「短調はなぜ悲しいのか」についても言及があり、やはりまだ解決はされていないようです。
短調曲は「悲しさ」ではなく「美しさ」に共感しますから、紅葉を見たときの叙情性や、同書にも書かれている「カタルシス(精神の浄化、解放、解決/達成感)」などを感じることで短調の良さを実感しているという点にも共感できます。
悲劇に人がなぜ共感するかは「悲劇のパラドックス」と言われているそうです。
でも確かにふさぎ込んでいるとき、能天気な曲を聞くと不思議な気分になったりします。「自分の外はこんなに笑顔で溢れている」と気がつくとちょっと穏やかな気持ちになります。
逆に自分より苦しんでいる人を見ても自分を立て直すことができる時があります。
心の痛みは自分が作っている部分もあるのかも。
人間性、というより脳機能、体の機能を総合した全てが「個人の人間性」だとしたら。
ひとくくりで「彼は人間がちっちゃい」とか「彼女は人間性ができている」と評してしまうのは、もはや前時代的な人物評価かもしれません。
"ちっちゃい人"だって頼りになるときはなるし、"善人"だって陰で何をやっているかわかりません。
また食べ物や睡眠時間などに腸の働きが影響を受け、それによって感情が動かされることもあります。それも"自分だけの責任"とされてしまいます。それらも含めたものを「人間性」と呼ぶのであれば、人間性と「道徳」「社会性」みたいなものは少し切り離しして評価してもいいのかな、なんて感じました。もっと科学的なものかも。
道徳的になれるとき、なれない時の気分、って今日これまでに自分に何が起きていたか、にとても関わりがあるように感じます。"人間性"はコロコロ変わる???
コロコロ変わるのが"人間性"??だとしたら「社会的常識行動」なんてハリボテです。
道徳や社会性は偽って見せることもできます。
「ずる賢さ」で人間性を偽ることができます。
一人でいる時、災害時、パニック時にその人がどんな行動をとるかなんてその時になってみないとわかりません。そこを評価せず平常時だけを見て"人間性"を本当に判断できるのでしょうか。
人を信頼する、評価する、理解する、っていうこと自体がとても難しいかもしれませんね。
通知表や内申書、学歴や社会実績でとにかく人を安易に判断しがちですが、実際に会ってみると、すぐれた才人も自分と同じ普通の人間だったりします。
「脳はシンプルにしようとする」と一旦思っておきましょう。
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感情は外的な出来事が引き起こしてはいますが、感情自体は自分自身の中で起きていることです。出来事は二度と繰り返しませんが、心の中でずっとそれが繰り返されます。
これらが脳の働きであれば、やはり外的な要因でそれらが錯覚であることを知るタイミング、というものがあるんでしょうね。
心はずっとふさぎ込んでいるけど、体は「そろそろええんちゃうか?」と感じていて、復活するタイミングを見計らっており、ちょっとしたことで悲しみが溶けていく、ということが起きているように、後から思えば感じます。
詳しい仮説や研究者の最新状況については同著をぜひご覧ください。
同書によれば、脳科学としても「感情の定義」は難しいのだそうです。
不定調性論では、脳科学の研究を待ちながらも、音楽家として、歴史的な音楽文脈を学びながら得た感情をそのままに捉え、それが錯覚であっても勘違いであっても、まずそれを駆使して音楽制作に邁進する、という提案をしています。
錯覚や勘違いが独自性を生む、とも信じています。
ピカソの写実画も前衛絵画もどちらも理解できる脳の理解力は、まだまだ人知を超えているのかな?なんてパラドックス的に感じています。人間のことすら人知を超えているのは人間が宇宙から生まれた未知の存在だからでしょうね。
脳の可能性が未知だからこそ、自分の感覚を丁寧に捉えて活用して音楽を作るために音楽家は自分で自分のことを考えなければならないのではないでしょうか。