- 科学的解明を待つ間にやるべきこと
- 響きの細分と熟考
- マイナーコードは連続すると暗くない
- 天才たちは短調を超えてその先を表現する
- mより暗いdimは絶望?
- 切ないのは人生のほう
- 自分がそう感じたから、で成り立つこと
- クラドニ図形
科学的解明を待つ間にやるべきこと
「マイナーコードってなんで悲しい感じがするの?」
二年に一度ぐらい、このタイプの質問を受けます。事あるたびに最新情報を漁っています。この問題の科学的解明が待たれる中、大切なのは
「あなたが今そう感じた」
ことを認め、どんどん活用していこうとする行動力のほうだと思います。
この記事で科学的結論を書いているわけではないのでご了承くださいませ。
"友人も同じように「悲しい」と感じると言っている、短三和音には悲しみの要素が何か含まれているのではないか?"
という問いもよくありますが、これは「友人も同じ人間で似たような環境で育ってきたから、同じように何かを感じている」だけで、それは正常な脳を持っている人は誰でもそうです。
厳密にヒアリングすれば、感じている感情は微妙に個々人で違うでしょう。上手に言葉にできていない場合もあります。
実際、脳の障害があったり、失音楽症の人は、音楽を音楽と認知できません。
また、人の身体には「感情」を作り出す器官がある訳ではありません。
さまざまな身体反応の結果を、人が外部からその反応に対して名前をつけ「感情」と言っているだけです。
例えばの話ですが、「悲しい」というのは、脳内物質AとBの減少に心臓が反応して起こる独特の嫌悪感を「悲しい」という美しい感覚で表現しているだけで、実際は化学現象とも言えます。
ニルヴァーナが使うEmと『神田川』のEmは同じ情感でしょうか。
響きがあなたを動かすのではなく、胸の奥底であなたが自分で心を揺り動かして感じているのだと思います。人類が心を科学的に解明するまでは、もっと自分の弱さや素直さと向き合い、積極的に音楽に感じ入って思いを湧きあがらせ、感動してしまえば良いのではないでしょうか。
響きの細分と熟考
「短三和音がなぜ協和するのか理解できない」という問いは、なぜ人は切なさを感じるのか、という問いに直結すると思います。
この和音は、協和する、と納得できるのですよね?この時あなたは、長三度と短三度を両方とも響くと認めています。
であれば、それをひっくり返した和音が響かないわけがないと思うのです(これも根拠のない憶測ですが)。
下記音源は上の流れです。EmとDm7、"悲しげ"ですか?
またCM7=CとEmの合体型です。
もしそれぞれ違う印象なら、なんでこれらの組み合わせでその情感が沸くのかを一つ一つ解き明かしてみてください。そこで全て辻褄が合えば、それは音楽理論になるでしょう。
振動数比や哲学的/美学的立場から導く話は、結局結論が出ず、最後はこの記事が述べる内容に収束していきます。
そうした解釈としての学術的知識は他でご覧ください。
先天的に人が音現象のどんな側面をどう感じるよう生まれてきたか、という点は、下記の観点から御検討ください。
何故、音楽の旋律に悲しさを想うのか?は科学的に未解明です。
だからそう感じたこと自体を動機に、指針に制作活動に使うしか現状は手がありません。
何より「悲しさって?」ってなんでしょう。一括りでくくれるのでしょうか。
自分の現状の「悲しげさ」を音楽に当てはめて同調させることで自らの不遇を癒す、というニュアンスも考えられるそうです。だからその音楽が悲しげであるかどうかとは別で、自分の現状の精神状態が曲をどのように感じさせるかから考えないといけない、ということになります。悲しさではなく美しさを感じているのでは??と言われても否定できないでしょう。
そして、そうした自分との対話が十分にできれば、音楽制作や音楽鑑賞も十分に自己の意思に沿ったステップを踏んでいけるのではないか?と今の自分は考えています。
この考え方は不定調性論全体にも活用されています。
以下に文献を引用しますが、飛ばしてOKです。
いくつかの機能的脳イメージング研究では、「喜び-悲しみ」(Khalfa et al.,2005; Mitterschiffthaler et al.,2007)、「音楽的な美」(Suzuki et al.,2008)、または「好み」(Green ret al.,2008)を研究するために長調と短調の音楽が使われた。しかし2つの研究(Khalfa et al.,2005; Green et al.,2008)で短調と長調の音楽を比較した際の前頭前野内側皮質(BA10m/9m)の活動以外、これらの研究で一致した結果はなかった。
ポジティブな情動を誘発する音楽への反応の際には、右の前頭葉に比べてより顕著な左の神経活動を報告した。そしてネガティブな情動を誘発する音楽では優位半球は逆であった。これらの研究の1つ(Altenmuller et al.,2002)はDC脳波を測定し、他の研究(Schmit & Trainor, 2001)ではα帯域の振動性の神経活動を測定した。
情動もしくは混合した情動の強度、そして時にはその特性も時間とともに変化する。しかし、情動処理の時間的経過についてはこれまでにわずかしか分かっておらず、情動的なエピソードの異なるステージに関わる神経基盤については不明である。
「音楽と脳科学」S.ケルシュ(2016)より
この問いに脳の研究はまだ答えられていません。
2021年のこちらの記事集もご参考まで。
音大生・音楽家のための脳科学入門講義〜音楽制作で考える脳科学29
しかし「音楽が哀しく感じる理由がわからないから音楽がわからない」ということはありません。私たちは音楽に確かに情感を感じてしまいます。
でも、みんながあのコード進行は切ない!って紹介してるじゃん、
とか思うかもしれません。
でもよく聴いてみると、あれ?これ切ないかなぁ、どっちかっていうと爽やかだけど、とかって個人的に思うものもあると思います。
また、皆が同じような生活環境で生活してきたことによる同様な価値観を持っている可能性も脳科学は指摘しています(スキーマの形成)。あなたがアフリカで育ち、高校生になって日本に初めて移住してきたら、さて、日本の音楽、調律をどう感じるでしょう。生まれて30年木星で生活してる、的な人類もやがて存在するかも知れません。彼と私は同じ情感のニュアンスを共有できるでしょうか。すり合わせが必要だと思います。
大事なのは、同じ人間だから、感情を作る肉体は所持していますが、それがどのように反応するかは、人生によって変わってくる、という点です。あとは「ほら、これは切ないでしょ?」って言われて"教育"されていくことで、そのコミュニティの感じ方を学んで同意できるようになります。その人が他者との共感を持った柔軟さがあれば。
不定調性論も、自分の中に「沸き起こる情感」「確かに感じる直感への信頼」を頼りに、音楽を作る方法論です。
たとえば『東京音頭』は、短調的(ラシドミファ)ですが、この曲、悲しいイメージしますか?
もし「悲しい」を感じたとしても、ただ「悲しい」だけですか?
懐かしさ、憧れ、そわそわ、お祭りのイメージ、夜の提灯のイメージ、一緒に歩いた友人、恋人のイメージなどいろいろ他にも情感を感じませんか(エピソード記憶)?
これを拙論ではまとめて「音楽的なクオリア」と表現します。
楽曲に対して瞬間的に感じるさまざまな思いをいちいち分析せず「音楽的なクオリアを感じた」と認めてください。その感情にさまざまなエピソードや情感、郷愁が含まれたのをそのまま感じてください。そして「そういうものだよな」としっとり感じて、そのまま制作に移ってください。特にそう感じる響き、メロディ、楽器の音などに感じ入ったら、それをそのままあなたの表現制作に活用してみてください。
これらをあまり精密に論理的に分析しようとすると直感的感覚が失われてしまいます。
どちらかというとそれらの感覚を、日々素直に受け取れるように鍛えていく方が制作に活用しやすいです。
逆にワイドショーなどで「いかにも悲しみを演出したい音楽」が流れると時折"ウザ!"って思ったことありませんか?
その音楽は完璧に人の悲しんでる状況や行動、思考を旋律、和声にしているのに、ときに人はその音楽を受け入れません。
単純に感情を音楽に乗せるだけでは、人は音楽の期待どおり心を動かしたがりません。
そういう音楽の短調は「悲しい」ではなく"クサい"と感じられ逆に笑われます。
人は単純ではありません。
マイナーコードは連続すると暗くない
Bb-Cm-Dm
と流れる時、経過するCmもマイナーコードですが、私はこの流れをあまり"暗い""悲しい"とは感じません。
(こちらで音で聞けます→)https://rechord.cc/WLdL3td2O3s
(<専門>Bbメジャーキーを先に感じてしまうことでCmをCm/Bb△=Eb6/Bb的に感じるから)
人は知識として理解するより先に、反射的に心象を感じてしまいます。
短三和音はなんで悲しい響きがするのか、という問題意識自体が表面的な問いかけです(短調は悲しいと教えられて、そのままになっている)。
でもこの疑問に気がつくことはとても大切ですね。
先端の脳科学でも未解決な問題なのですから。
これはすなわちマイナーコードが悲しいのではなく、日常使い尽くされ体に染み込んだ大衆音楽の雰囲気が悲しさを作っている(心に刷り込まれてそう感じるようになった)のであって、和音の1つがそういった特定の感情を常に作り出すわけではないことを意味します。
天才たちは短調を超えてその先を表現する
以下は例えば、です(記事を作ってる時期に扱っていたアーティストより)。
・ユーミン氏は『ツバメのように』で自殺をテーマにしながらテンポの良い曲を書いています。悲しみの果てのドライな感受性。自殺が悲しいのはわかっているから、マイナーキーの曲にはせず、テーマと歌詞と曲調がミックスされることで、感情が凍りついたようなちょっと"怖い感じの悲しみの表現"が模索されているように感じます。
・『神田川』は、学生運動時代、闘争か、家庭か、つい女性の優しさに惹かれて自由への闘争を見失いそうになる男性を描いた、映画の1シーンのような断片歌です。
「貴方は もう忘れたかしら?」の一節によって、いつまでも思い出される歌になっています。どちらかと言えば内容は「甘酸っぱい」歌です。これも思い出ですから学生闘争と激しい感情の入り乱れをメジャーキーでも良かったのでしょうが、マイナーキーにすることで少し疲れたような、だいぶこだわりも抜けてきたような「私も少しあの頃からより良く変われたのだ」という思いを感じます。それがハッピーエンドのように感じられ、また聴きたいと思わせる曲になっています。
・『あの素晴らしい愛をもう一度』は、とっても暗い内容の歌です。曲調が明るいことで、暗いメッセージを昇華させ意味そのものを変質させる、という効果が起きています。これは「ツバメのように」と同じです。
・『We are the world』も、前向きな曲調ですが、その歌が生まれた背景にはたくさんの悲しみや絶望があったわけですが、それは描きません。その先の一縷の希望を思い切り描くことで、その悲しみがいかほどのものか腹の底の方で感じながらも、同時にそれらの悲しみを燃やし、パワーにして何か行動しようと思う心を作ってくれました。
先人の音楽は、すでに短調=ネガティブを越えたところで音楽を作っています。
短調が悲しい、と感じるのは、本当に(西欧)音楽文化理解の入り口なんですね。
そして誰もが(?)We are the worldに共感できるように、音楽理論などわからなくても「短調=悲しい」の先のもっと複雑で感動的な哀しさ、を人は音楽を聴くだけで感じることができています。
自分が感じたものの正体を突き止めたいのはわかりますが、それは学術的に未解明なので、今感じた情感を丁寧にイメージし、自分の心象の健全化に努めたり、その心象のままに音楽を作ろうとした方が現代では現実的かな、と。
わたしたちはまだ電気(完全人工知能)が発明されていない中世に生きている、とか思っておいた方が良いと思います。あと数百年後、わたしたちの文章は全員稚拙な戯れ的な文章でしかないでしょう。
mより暗いdimは絶望?
また、先の理屈にこだわるならマイナーコードより暗いdim(ディミニッシュコード)は必ず絶望なのか?という話にもなるでしょう。
確かにdimコードはアニメや映画などでの危機一髪シーンでも使いますが、
S.Wonderの『Christmastime』の下記0:06
S.Wonder『Christmastime』
のちょっと翳りが出る和音の響きはII#dim7はいかにもクリスマス!!って響きがしませんか?神秘さすら感じます。
もちろんクリスマス=絶望、ではありません(去年フラれた人以外)。
これは伝統的なクリスマスソングジャズアレンジの内にdimアレンジがあり、それが耳に馴染んでスタンダード化された感覚と考えて良いでしょう。
だからこのコードが出るとその雰囲気によってクリスマスっぽく感じるように我々は刷り込まれています。
切ないのは人生のほう
音楽に切なさ、哀しさを感じるのは、人生が切なさを感じることのほうが多いからではないでしょうか笑。
人生で日々感じてしまう感情を音楽に求めてしまっているのかもしれません。
「生まれてこのかた全く哀しさを感じたことがない人が短調を聞いたらどうなるか?」
を考えてみてください。
また、あなたがその和音に感じた悲しさを具体的に表現して、誰かの悲しさと徹底比較してみてください。年齢や季節、月日、休日と平日、朝昼晩によっても感じ方は違うでしょう。
悲しみは母親の胎内にいる時からそれを感じ、母親の悲しさも胎内で感じていたでしょう。
ここでもし母親が悲しみを感じた時に、逆に興奮してアドレナリンが出て踊ってしまうような母親であったらその子はまた違ったのでしょうか。その子は生後、悲しみをどのように感じるのでしょうか。その子にとっての短調はいかなる印象になっていくのでしょうか(情感のスキーマは幼児期にも形成/変化してゆく)。
現代は未来の人から見たらまだまだ資源も自然も豊かな世界かもしれません。
だから「マイナーコードは悲しい」なんて言わず、切なさを感じたら、それに気づき、次の希望に変える音楽家になっていただきたいです。
だから最初の問いは、
なぜ皆、人生に切なさを感じるか?
が本当の問いかけなのかも笑。
私は、マイナーコードの響きは、「マイナーコードの響き」そのもの、と感じるようになれました。
私の最初の強烈な短調の記憶はベートーヴェンの「運命」です。
あの肖像画といい、ハ短調の曲に「怖さ」を感じました。
短調=怖さ
「怖さがぬるくなったもの」=悲しさ
「悲しさから憂いを引く」=「美しさ」
みたいなことも学びました。
短調=儚い美しさの体現
です。
できれば「悲しみ」なんて誰も感じたくないです。
延々と事故の映像だけを見続けたいですか?
動物が死んでいく様をずっと見ていられますか?
親しい人や知人が死んでいく様をずっと見ていたいですか?
自分にとっての悲しみはとてつもなく負担です。
悲しみ、と表現しているのはどちらかというと、美しさを伴った自分に関係ない映画のような美しい"他人の悲しみ"について語っているのではないでしょうか。
通例自分自身が現実の悲しみを感じるとPTSDになるくらい健康に悪いです。体内でいろんな事故が起きているようにすら感じます。
音楽の「悲しみ」は音楽でしか感じない「独特の美しく怖い感じ」がします。
現実の悲しみとはちょっと違うもっと美しいもの、"理想の切なさ"をいつも抽象的に表現してくれます。そんなことを本でも読んだ気がします。
それは悲しみではなく、何かもっと別の概念ではないでしょうか?
悲しさを感じると見せかけて慰めを得ているのではないでしょうか。
コメントいただいたようにヘヴィーメタルのマイナー曲には逆に「絶望から立ち上がる決意」、すなわちカッコよさを感じます。
ヒーローの悲哀みたいな。
悲哀=かっこよさ、です。
「悲しみを感じて、それを乗り越えた!というカタルシスを目指そうとする」
から、マイナーロックメタルは魂が燃え上がるのかな。敗れて、努力して、最後は打ち勝った!!みたいなこと全て想像してしまうから。またはロッキーのテーマ。
音楽の悲しみが現実とは関係ないと言ってもモーツァルトの葬送曲を毎日聴くわけにはいかないと思います。
これ聴いて「よっしゃ!!今日もピーカンでぶち抜くぜ!!!!」と思う人がいたら、あなたは天才です笑。
しかし幼少時から、めちゃくちゃノリノリのシーンでこのレクイエムを流す人生だったら、感覚は違ってくるのかな。
人が慣れ、思い込み、信じている、ということにどれだけ束縛されているのか。
夕方、街にやってくる灯油屋さんのメロディ、そこまで悲しくないけど、すごく切なさを感じます。時間帯と、冬の寒さと、自分の今の境遇と、色々感じるからでしょう。
漠然とした切なさ=平和
かもしれません。文明国ならではの悲哀。
「悲しみを感じていられる余裕」ってよくいわれたりします。
指定紛争地域にいたら、今ほど悲しんでいられるのか?ですね。
僕らの切なさって、贅沢な感情なの??なんて感じます。暇なの?とか笑。
また、長三度と短三度を惜しげも無くごちゃ混ぜにしてblueを生み出すアフリカ人には今書いた理屈が通じないかもしれません。
「その音に何を感じるか」、言語、習慣、食べ物、ライフスタイルと脳との兼ね合いも何かありそうですね(一定年齢までに覚えた事が脳にスキーマを作るため文化によって感じ方は違う)。
彼らの音楽を聴いていると、すべての悲哀を乗り越えて歓びに昇華しようとする力強い伝統のようなものを感じます。ローリングストーンの気概。苦難を乗り越え、民族で団結し、止まらず転がり続ける生命力を感じます。それは自分たちだって同じのはずです。
自分がそう感じたから、で成り立つこと
最初の問です。マイナーコードがなぜ悲しい響きなのか、の「なぜ」の答えを
「自分がそう感じたから」
としてみましょう。その理由はまだわからないので、まず事実だけを受け止めるようにしましょう。もっと違うふうに感じたらその感じ方でも構いません。
あとはそれを感じて何を話すか、何を創るか、どう行動するか?
にどんどん反映させていくか、いかないのか?です。
不定調性論も音に根拠を見出すのではなく、自分に根拠を感じ、それを音にするために音楽理論を活用する、という姿勢です。
感じたらそれをとにかく表現にまで持っていってしまうわけです。
音楽家は、感情を音楽にする人種だから音楽家なのであって、音楽家には感情それ自体がすでに音楽です。音楽に悲しみを閉じ込めるのではなく何らかの、悲しみの感情を感じた音楽家がそれを音楽という形に昇華しているのであって それはすでに悲しみではないわけです。
その理由やその根拠を考えるのは哲学や科学、脳神経学、心理学にお任せしましょう。
クラドニ図形
上記の「クラドニ図形」は音の振動が物体の表面の振動の起伏に応じて様々な波紋を作るという現象です。振動数によって起こる形が決まっています。
同じことが耳でも脳でも起きていることでしょう。
人間もだいたい同じ耳の大きさ、聴覚器官、脳を持っているなら、だいたい誰でも同じ音響で同じような部位が刺激され振動し、似たような情動が生まれる構造になっているのかもしれませんよ。
脳のサイズ、耳のセンサーの機能や容量が異なれば、そうは感じないのかもしれません。カラスは人のバラードをどのように感じているのでしょう。
様々な人がそれぞれで感じてそれを用いる方法論があっても良いと思います。それを無視するのは資本主義という社会的価値に商品価値を設けたいがためです。
ある意味では人は建前で短調は悲しい、と表明することで自分の他との協調性をアピールしているというだけかもしれません。社会的価値のために。
ギターのEmコードは、マイナーコードの王様ですね。
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引用の際は上記出典または下記専門の文献を活用下さい。
<関連>認知的侵入可能性
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/51/2/51_65/_pdf/-char/ja
<関連>
源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学-』読書ノート⑧|S Y M.|note
==コーヒーブレイク〜M-Bankロビーの話題==
この曲のジャケット写真が野原で笑顔で爽やかに映える表情、ってわけにはいきませんね。
「運命」って感じのジャケになります。メタファーが効いてます。