例えば、その直前に奥さんとか上司とか、少なからずマウント気味な電話がかかってきて、あれこれ文句を言われたとしましょう。少しイライラして、少し凹んで。
その後で向き合う仕事に、その気分が反映されて、つい言わなくてもいいことを確認したり、相手がいる場合にはその人に当たって叱ったり(情動の転移)。
人によっては、全く切り替えて仕事に向き合える人もいますが、それは才能です(情動性行動の掌握)。
ズボラ(情動との乖離)と言ってもいいですが。
自分の気分や感情的なバランスが仕事や、言動、行動に反映されてしまう人もいます。
それが分かり易ければ(情動性発露気質)、周囲も認めやすくなりますが、それがわかりづらい(情動性隠秘気質)と、なかなか持って付き合いづらいものです。何を考えているかわからないからです。
おそらくそういう側面も、周囲が理解し(情動性気質の周知)、互いにそこがうまく働く徳川家臣団のようになれば理想的なのかもしれません。
人のクオリアや判断は、上記のようなことも要因の一つで意識的、無意識的に千変万化します。
感覚で音楽を作る場合には、自分が突き動かされている感じを掴める必要があります。さっきこういうことがあったから、この判断はさっきのそれに影響を受けている、と知っていればまた違うでしょう。この記事ではそれを自覚するための記事です。深夜のラブレター効果にも関わる内容です。
和音のテンション
キーがCメジャーで、トニックコードと言えるCM7が置かれた時、
自分がむしゃくしゃしていると、
・さっぱりしたいからCM7、CM7(9)
・真実をぶつけたいからこそC△
・憂さ晴らしで刺々しいCM7(#11)
といった行為が起きていないでしょうか。
逆にとてもいい気分で仕事に向かった時、
・気持ちが穏やかだからCadd9、C6
・少し興奮するからCM7(9,#11)
また状況によってはトニックに戻らず、FM7やA♭M7、D♭M7などに高揚、曲折したくなるかもしれません。
転調の挿入
ちょうどむしゃくしゃした出来事の後、AメロからBメロへの展開を考えていたとして、
つい、三度上げ転調、増四度転調、みたいなことをしていないでしょうか。
逆にすごく落ち込んで、「ここは転調しなくていいや」などと本来であればそうはしなかった、などということをしていないでしょうか。
これらの情動性行動はメロディの流れや、アレンジ、歌詞も影響受けるかもしれません。
ツールのビジュアル
またこれはブーバキキ効果的な考え方ですが、音楽だとわかりづらいですが、ゲームなどで魔術と剣術を使える主人公を操るゲームとして、さっきひどく落ち込んだとすると、魔術で今日は戦おうと思ったり、めちゃくちゃいいことがあると、力技の剣術で攻め落とそう、とかってすぐに考えてしまうのも情動性行動だと思います。
観ている方は分かりやすくて楽しいですが、ゲームの方は波瀾万丈になるかもしれません。
音楽ツールでもそれは起きるかもしれません。
今日はノリノリだから、マルチファンクショナルコードマトリックスを使って作ってやろう(カタカナのノリ)、とか、
嫌なことがあって、いまいち乗らないが締め切りが迫っているのでマザーメロディの方法で抽象的に作りたい(じっくりとしかし奔放に)、とか。
または、今日はフラットな気持ちだから労力を上げて動静和音と動静進行を規律良く組み合わせてやろう、とか、
殺伐として嫌な気分だから和声単位作曲技法で、統一的に理路整然と展開したい、などなど。
攻撃的な気分だからカクカクした形の連関モデルを使う、優しい気持ちだから柔らかい丸みを帯びたモデルを使う、といったことが影響していない、とも限りません。
作る時は前後の情動的関連性など考えないかもしれません。
ただ作曲モデルや、何らかの音組織モデルを作る時、その形、外見からの印象、が創作者にどのような印象を与えるかを考えてみると良いかもしれません。
深みのある場面の映画音楽を作るのに、シンプルな音関連モデルの図を使って音楽を書こうとは思わないものです。それならば、即興で一回勝負!みたいな緊張感と責任を抱えたほうが、深みが出る可能性があります。
四角いモデル
丸みを帯びたモデル
立体的なモデル
建造物のようなモデル
自然生物のようなモデル
カラー豊富なモデル
数式が出てくるモデル...etc
何かを選択するとき、それらのモデルの外見が創作者にどんな気分を起こさせ、それをどのように使いたいと思わせるか、を考えても良いと思います。
ただ毎日様々なモデルを使っていると、良き時も悪しき時もそれと向き合ってくるので、どんな気分の時も適切に使いこなせるようになります。それは楽譜の外見に似ています。
音楽家は明けても暮れても楽譜のフォルムを見ているので、それをみるたびに情動はリセットされ、情動の拡散を抑制できることもあるでしょう。
もちろん、手書きの楽譜を初見で弾く、という場合、汚い譜面、記号がわかりづらい、みたいなことは当然影響を受ける人もいるでしょうが。
楽譜の仕組みが悪くても、そのフォルムに人生を投影してきた「愛着」があるので、楽譜よりも優れた表現の仕組みがあったとしても(DAW画面のように)なかなか受け入れられるものではないでしょう。
すごく気難しい天才演奏家に対しては誰もが気を遣って綺麗な譜面だけを用意する、と言うのは健全でしょうか。
どんな譜面も笑顔で完璧にスタジオの要求に応じる演奏家は汚い譜面をもらう機会もあって損をしているでしょうか。
またビートルズメンバーのように、半生を楽譜なしで過ごした彼らは楽譜など音楽制作に用いまない、なんて人生もあります(スタッフ伴奏者以外)。
「愛着感」は依怙贔屓と忖度の温床です。
それを切り捨てて、どんどん新しいものに行ける人は、愛着欠乏病、と呼びたくなるかも。しかし変に古いバージョンに執着し、XはダメでTwitterは最高とか、wavesは昔の方が良かった、とか、昭和はよかった、みたいな話のいくつかは事実でありいくつかは愛着がなせる感情でしょう。
こうしたフォルム、見栄え、名称、情況が創作者の中に引き起こす意欲の閾値があるように思います。
たとえどんな感情を抱いても、創作の時はスパッと切り替えて、その閾値を絶妙にコントロールできるのがプロの製作者なのでしょう。
しかし、作品がマンネリ化しないのは、感情の抑揚ができないせいで作品に影響を与えているのかもしれません。
問題はこうした気分による方法論の選択を良しとするかどうかだと思います。
様々な気分の変化によって自分が選択している制作物の表現が変わっていく様を第三者的に眺めながらそれがいいのか、それではいけないのかを判断する力をつけなければならないということになると思います。
この判断ができないから明くる朝読んだラブレターを破り捨てるはめになるのだと思います。
独自論は、いかに自分が制作しやすいような方法論としてまとめるか、ということがテーマになりますが、さまざまな感情を持った時や精神状況においても常に集中して作れるほど「自分が愛着を感じられる存在」に作っていくべきかと思います。
フォルム、思考経路、ツール、全てが自分を常に解放する存在に育てていただけると独自論はそれこそめざましい成果を出してくれることでしょう。
若いうちは、歴史の偉大な演奏家の作品を掲げたりするかもしれません。
しかしやがて彼ら隣人の庭の整った姿を褒め称えているだけでは、自宅の庭が、彼らの植えた立派な大木の影になって荒んでいくことに気が付きません。
いずれば、自宅の庭をきちんと整備し、隣人に気を切ってもらう願いをしながら、自分の状況でできる範囲で自宅の庭を整備して、自分であることを主張しなければなりません。それが独自論であり、理想通りにはいかない本来の自己の姿、自己の現状を的確に捉え、それを活用することを目指すことになります。