前回
コールマンと付き合いの長いトランペット奏者、ドン・チェリーの言葉も書いておきます。チェリーがハーモロディクスについて述べた言葉です。
楽器を扱うテクニックを磨くのと同時に、耳をしっかり鍛えるのが基本だ。実に、奥が深い。……コードの仕組みを完全に理解しなくてはいけないし、音程もすべて分かっていなければならない。そのうえで演奏に入る。私が"ド"の音を出して、それを主音として頭に入れておけば、その流れで進んでいく。ホ短調かロ長調のコードだと音階が上がっていくから、音の性格が変わっていく。
ハーモロディック理論では、結局、どの音も主音のように聞こえるという境地に達する……
「コードの仕組みを完全に理解しなくてはいけない」ことは先に述べました。理屈が分からないまま弾いても「ただミスフレーズのように聞こえ」てしまうからです。
「私が"ド"の音を出して、それを主音として頭に入れておけば、その流れで進んでいく」
これも「まずアイオニアンで行こう」とプレイヤーは決断して自分の判断で フレーズを弾いていくというニュアンスだと思います。自分が何をしているかイメージできていないと、「いつダサいミスが起きるか分からないまま弾いてる」ことになり、フリー という形式も楽しめませんしそこから様々なスキルの追求に向かうこともできません。ただ適当に弾いているだけになってしまうからです。
「ホ短調かロ長調のコードだと音階が上がっていくから、音の性格が変わっていく。」
ちょっと意味が分かりません。
恐らくダイアトニックのcがそれぞれの調で半音上がるかcのままかということを言っているのだと思います。そのレベルの話はこれは訳す人がかなりジャズ理論に詳しくないと訳せないと思います。
「ホ長調かロ長調」なら、ドは、スケール音がド#になるので半音「上がらないと」音階音になりません。Cメジャーキーではcは主音ですが、Eメジャーキー(ホ長調)においてcはb13thになります。キーがホ長調になれば、ただのcもオルタードテンション感のある音となり「音の性格が変わり」ます。
自分が弾いている音が今現状想定されるキーや和音に対してどんな音として響いているかを判断しながら演奏を紡いでいく必要があるということです。
あまりに調性的になったりしてしまえばフリーでなくなりますし、あまり当たらない 音を双方が用いてもそれは音による会話とは言えません。
それらを瞬時に把握しながらスリリングのある面白い演奏、新しい演奏にしていこうとライブの中で真剣勝負していかなければ、フリーという形式はジャズ以上に面白い表現行動になりません。
もちろんこうした感覚は普段のジャズで当然養われているものですから、彼らのほどのレベルになると考えたり感じようとしたりすることなく体がそれに反応し、次にどんな行動をすればいいか考える前に体が察知して動くことでしょう。
E△上でcを聴いて「b13thだ」と分からないと話にならないし、そこからフレーズを構築することができない、という意味かなと読み取りました。もちろん「b13th」だと分からなくても、b13th独特の「こすれ感」「しのぎ感」を反射的に感じれば同じことができます(不定調性論)。それらが本当に考える間もなく感じて次の表現行動に移れるまでは普通のジャズをやった方が良いと思います。
「あ、b13th感だ!」と反応して、オルタードフレーズ的な質感をさっと出すか、スケールアウトな速弾きに展開していくか、すぐ対応できないとバンド全体の音楽が「間違い」に思われ、そうなれば観ている人もやっている側もモチベーションが落ちてしまい、大変難しい、つまり「実に、奥が深い」と言っているのかな??と捉えましたがいかがでしょう。お互いが呼応しないまま演奏だけが個々人の自由勝手に進んでいくというのは意外とジャズ初心者にもバレているものです。
この辺が具体的な指摘が少ない(一般のライターでもわからない)ので「思想」化してる、と感じました。
この手の境地で音楽をやるにはよほどジャズに飽きていないと、または表現行動自体の野性味に心底興味を持っていないとのめり込むことができないのではないかと思います。
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コールマンの発言もそれを助長しています。
ハーモロディクスには豊かな多様性があるだけでなく、個性をも尊重する。何も私のように演奏しなくても、十分にハーモロディックであり得る。自分らしい演奏をすればいい
「個性をも尊重する。」
は、個人個人の着想が音になった時(個人個人が、これで音楽を作ろうと欲して音を発して、それが重なり合ったとき)、初めて新しい解釈が生まれ、新しい音楽が生まれるからでしょう。
人にはそれぞれの音楽があると信じていた。お互いを排除し合うやり方には反対だった。この考え方は、「ハーモロディック理論」にもはっきりと表れている。人が自分の感情や自分自身を音楽を通して表現する方法として、彼が考え出したのがこの理論なのである。
「人が自分の感情や自分自身を音楽を通して表現する方法」
ハーモロディクスの場合は、特に材料の指定がありません。
あれをやってはいけない、あれを用いるべし、というのがありません。
プレイヤーはこれまでの音楽姿勢のままセッションに来ます。今述べたことを理解せず、そのまま演奏の現場で皆でフリーにやったら、混沌となるでしょう。「新たな表現」として一つの音楽にするためには、メンバー間が互いを深く理解し合う必要があります。瞬間的に。人種がちがえば、ノリも間の取り方も全部違うので、「こんなかんじなら、普通にブルースやった方が盛り上がるんじゃね?」となります。
フリーは適当ではありません。全員究極のプロでないと音楽にならない至高の境地です。
現代音楽的ジャズは芸術的領域の側面を垣間見るため、中途半端な音楽をそれっぽく適当にやっても、ちょっとそれっぽいよく分からない難解なフリーが出来上がり満足してしまうという状況は今この瞬間でも様々な場で起きていると思います。
しかしそれも一時期で、これからジャズ自体が停滞し、しばらく経てばコールマンの偉業はもっと讃えられるでしょう。
コールマンのアプローチ(コードの捉え方、ソロの着想の仕方)は、長年鍛えられた独自の脳の状態に関わっているので、何回かレッスンを受けただけで実践はできないでしょう。USTを作曲で使え、と言われてもなかなかできないのに似ています。
F1レーサーに車の運転を習ってもF1のレースで勝てるわけではありません。
ハーモロディクスには制限がなさすぎたのだと感じました。
みんなで集まったら「chiken」をやろう、"ただしコンセプトはハーモロディクスで"といえば、盛り上がるでしょう。ホーンセクションが十人いて、全員が別々のキーで拭いたり、譜面を逆さまに読んだり、でもリズムだけは合わせたり、時々ドラムが演奏をやめてしまったり、ボーカリストが歌いながら水着に着替え始めたり、まあとにかく音楽的自由を謳歌できることは間違いありません。それが自分だ、と言ってしまえば成り立ってしまうからです。
しかしオーネットの考えていたハーモロディクスには「敬虔さ」が必要でした。
なんでもやっていい現代音楽の崩れたような表現方法ではありません。
一音必死であらねばなりません。
聴衆を驚かせたり、笑わせたり、意表をついたりすることではありません。
自分が信仰している対象に対して音を捧げる、というような気持ちで行う行動の中において自由であるべきというニュアンスを持っているのだと感じました。
こうした環境とニーズが収まることはなく、彼は教壇に立ちます。
「何人ものオーネット・コールマンを作りたくはなかったから、教えることには関わってこなかった。だが、私の知っていることをだれかに伝えたいとは思っていた」
彼から学んだ人は、いろんな意味でのプラシーボ効果があったでしょう。
まあ、言ってみれば、ロックされちゃったドアの鍵をオーネットが渡してくれたようなものだ 。
ジョン・スナイダー
音楽に対する基本的な姿勢についても教えてもらった。私はギターを持って彼のロフトを訪れた。彼の前で弾いてみせると、インプロヴィゼ―ションのやり方について、いくつかのヒントを与えてくれた。ハーモロディック・システムの理論的なことがらについても、書き抜いてくれた。だが思うに、これはシステムとか理論ではなく、自分の音楽に応用したり活用できるアイデアの集大成、と言う方が当たっている。とにかく、それほど厳密なものではない----メロディ、ハーモニー、リズムを同等に扱うこと、そして楽器の種類に関わらず、この三つの要素をすべて表現すべきだということだ。----気持ちの持って行き方と言ったらいいだろうか、つまり、実際に演奏に取りかかる前に考えるべきことである。
ピエール・ドルゲ
ドルゲの言葉は一般向けには最良かもしれません。
同書によると、ハーモロディクスを実践する初歩は、オクターブの違いを自由にする、というところから展開していく、と読み取りました。
メロディのどの音をオクターブ変えてもいい、というわけです。
<メロディ、ハーモニー、リズムを同等に扱うこととは?>
メロディをリズミックに弾き、メロディを作ろうとせず、決まったグルーヴを出そうとせず、メロディのようにリズムを刻み、決まったコード進行にならないよう、メロディのようにハーモニーを作り、そのハーモニーのリズムも拍頭とか一小節に二つ、とかにこだわらずメロディのようにハーモニーを並べる。
たとえば、「枯葉」でこのコンセプトをやってみましょう。
一人はテーマを弾きます。しかしバンドのテンポと関係なく、拍節も拍子も、テンポも関係なく、伸びたり縮んだりして自由に吹きます。二回し目でリズム隊が入ってくるとします。やはり自由に伸び縮みする、詩吟を歌うような自由さでリズムを刻み、ベースラインを作ります。やがて双方が互いを意識します。相手が崩れればこちらは正確に弾き、時に一緒に崩れ、キーが分かれば時にそれから半音あげたり、時には合わせたり、そんな気の知れたメンバーが何年も一緒に演奏すれば互いの癖がわかり、次にどんなプレイが来るか予想できます。それらの即興的プレイはどんどん高度になっていくでしょう。おそらくこれらの感覚演奏を研ぎ澄ますには、一回のワークションンプでは無理です。メンバーを集め何年もプレイして醸し出せる感覚でしょう。
リズムにこだわる人、ハーモニーにこだわる人、スタイルにこだわる人、全てハーモロディクス以前の思想段階です。調性内にいることにこだわるような感じです。
そこから解放され、たとえ劣化しても、お粗末になっても、恥ずかしいプレイになっても、それが自分であると表現できるなら、そこがハーモロディクスの概念になります。
コールマンはコードを熟知していたので、もっと具体的な指示を生徒には述べていたと思います。
そもそも「オクターブを自由にする」なんてオーネットの演奏からは感じられません。
これはベートーヴェンが始めた一技法の系統だと思います。ハーモロディクスにおいてそこまでの重要性はないと思います。ただ旋律を自由にするわかりやすい技です。
フリー(ハーモロディクスを内包した)はオーネット・コールマンの独自論でした。
だからそれが通用するのはコールマンだけだった、と今の時代なら、いや私なら言えます笑。
不定調性論が通用するのは私だけだが、私には有用だ、と宣言することを恐れません。
要は、「君もハーモロディクスを学べ」ではなく「君もオーネットの生き方を学んで、独自論を作れ」が現代での正解ではないか、と私は信じます。
ただ独自論ですから、生涯後ろ指を刺されますし、権威がない分、99%は無視される人生になるとは思います。でも自分が興奮することを発見し、それに自分が生きる、というのは、社会的価値を放棄する価値があるほど麻薬的です。コールマンにとっての「敬虔さ」とは程遠いですが、魂が燃えるのです。
PREPARED GUITAR: The Harmolodic Manifesto by Ornette Coleman
上記ページ文のように、コールマンの分析から独自にハーモロディクスを展開・活用して書かれたものもあります。
しかし、これらは現代のジャズ教育をしっかり受けたプロミュージシャンならほとんど知っています。要約すると、ハーモロディクスの思想は通例の変格的リハーモニゼーション(調からの逸脱を含む和声改編)のセオリーの中に組み込まれている、といえます。不定調性論も同様なアプローチを持っています。
例えば、c音がメロディであるとき、曲のキーがハ長調なら、通例CM7、Am7、Em7等を用いて、機能を変えていくならDm7、Gsus4、FM7も使えることになります。これを拡張すると、C#M7やF#7(#11)でもc音があります。「汎調性」です。
ドルゲが言った「アイデアの集大成」をコールマンはもっと具体的なリハモの手法等でドルゲに述べていたのかもしれません。当時はジャズの学問としての浸透が弱かった分「突飛なアイディア」とされていたかもしれません。
そういった、当時の価値観をベースにハーモロディクス理論を「スピリットだ」というのは一般的なイメージが固まっているだけかもしれません。
PREPARED GUITAR: The Harmolodic Manifesto by Ornette Coleman
こちらのページに、コールマンのインタビュー風景が掲載されています。
Interview with Ornette Coleman - YouTubeパート2も上記サイトに掲載されています。
Youtubeでご覧ください。
2000年になる以前は、こういう"雰囲気インタビュー"が主流でしたよね。今見ると宗教的な教義を語っているかのようです。この手の印象がハーモロディクスを「スピリットだ」と言わせる遠因になっているようにも思います。
しかし、逆を言えば、これだけイメージが具体的に表現ができるからこそ、コールマンは感情によって音の翻訳が可能だったとも表現できます。
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下記の情報も置いておきます。
英語版ウィキペディアでは、
The only other known explanation of harmolodics that was written by Coleman is an article called "Prime Time for Harmolodics" (1983).
とあります。
「コールマンによって書かれたハーモロディックに関する他の唯一の既知の説明は、「Prime Time for Harmolodics」(1983)と呼ばれる記事です。」
ということです。だいたい訳しますと、ハーモロディック理論とは、
自分自身のやり方で、フィジカルなフレーズ、感情的な演奏を、一人またはグループによって実行し、音楽的調和の音楽的感覚をもたらす。ハーモニー、メロディー、スピード、リズム、時間、フレーズはすべて等しい。
引用:コールマン、オーネット。ハーモロディクスのプライムタイム。ダウンビート、1983年7月、pp。54-55
「Harmolodicsはあらゆる調性から音楽作品を解放しようとしている、伝統的な緊張と解放の概念に依存しない調和的な進行を可能に。Harmolodicsは、大まかに言って、調和、音の動き、メロディーがすべて同じ価値を共有する音楽の表現として定義される。」
となります。これはこれまで書いてきたことですし、不定調性論の音楽制作のあり様にも類似しています。
またリディアン・クロマチック・コンセプトの書評にはコールマンも一言寄せています。
ここに書かれた音楽的知識は私が今までに体験したどれをも凌駕している。
互いに影響を受けあっていたことは間違いありませんが、やはりそれぞれが個々の方法論に辿り着いています。
これらを考えると、現代においてはジャズ理論マスタークラス(三年目とかのハイクラス内容)でコールマンの手法や精神は切れ切れにでも網羅できているのではないか、と感じました。
リディアン・クロマチック・コンセプト(以下;LCC)でいうなら、使用モードがリディアンから解放されるところまでマスターすれば、それはコールマンのハーモニーに対するアプローチと重なります。なんでもOKだが何かが支配はしている、という状況です。
不定調性論で支配しているのは個人の音楽的なクオリアだとしています。
しかしLCCでリディアンにハンドルさばきを頼り切っていた学習感覚がリディアンモード感から解き放たれた時、果たしてすぐにコールマンのような"目隠し手放し運転"ができるでしょうか。脳の働く部位が微妙に違うのではないかと直感します。車が運転できても、目をつむっても運転できるかは全く別です。
ギターならソロはフレットとモーダルなポジションから繰り出しますが、フレットが無くなってチューニングが変わっても同様に音楽的なソロが取れるか?という問いです。
誰から何を教わり、どう理解して、どう頭を使うか、で行動は同じでも質が変わるように思います。
楽器を弾こうとするのではなく、楽器から出る音を駆使して何らかの音楽的表現を送り出そうと必死になる、できなくてもできても必死に作り出そうとする、そういう時に生まれる独自性や偶然性が実にハーモロディクス的な音楽経験ではないかと感じます。
学生さんは学習段階で様々な方法論を勉強すると思います。
でも、最後は自分がどうやるかを自分で決断しなければなりません。
ラッセルのように書物として完成させる人もいれば、コールマンのように完全に体の隅々まで浸透してしまい他者に伝えることすら難しくなってしまった人もいます。
それでもどちらもそれは「方法論を作った」ことで同義です。
自分の作品でその存在を証明しています 。
楽譜が読める、理屈が分かるということは二次的で、やはり、自分からアウトプットしたものが自己の意思や方法論によって成り立っている、という自覚(自分にしか分からないこと)の有無が大切なのかな、と今回改めて感じました。
その時のテストの点数ではなく、それを実生活で活かせるまでになったかどうか、まで見てから採点をすべき、
ということですね。非現実的ですが、本来はそうあることで救われるタイプの人もあるでしょう。
教育の根本を揺らしてくる話に辿り着きました。
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今回色々読んでみて、遠大で曖昧過ぎて「ハーモロディクスは思想だ」と言わざるを得ない風潮が良く分かりました。でも現代ジャズメンはすでにその領域を一回回って、新しい汎調性的アプローチをすでに手にしているのでは?と今感じています。不定調性論もそれをコンパクトに用語にしています。「音楽的なクオリアを言語化する、旋律化する」「共感覚的知覚を音に反映させる」「音から共感覚的理解を得て読解する」などなど。そして何より「彼らのあり方を学んで君も独自論を持て」に辿りついて一件落着です。
これをコールマンの代表作とかとすると、話がこじれると思います。これはハーモロディクスに至るあくまで過程(出だし)でまだまだ粗雑な思想状態、と感じます。
その後のこの曲のほうがコールマンの「Free Jazz」をより表現している(一般には分かりやすいという点)と感じました。テーマという枠組みを設けることで形式、メロディ、モード、ハーモニー、リズムの解放が実践されています。
完全即興って陸の見えないまっさらな海で、目的なく四方八方に泳ぐようなもの、です。
自分もこうした思考だからこそ自分には不定調性論という形ができたのだ、と改めて自分のバックグラウンドを気づかされました。
この作品は確かにメロディの自由なハーモニー感を感じますが、コールマンの演奏とは違う次元での実現になります。フリーとハーモロディクスをごっちゃにするな、というご指摘もここから来るのでしょう。
ジャズを変えすぎて、リアルタイムでは理解されづらかった男、という印象でした。
理解する手段がなかったんです。
でも現代なら不定調性論的価値観を最初に完成させた男、と評することができます。
また現代ジャズの教科書を見れば見るほど、コールマンなしには語れないコンセプトの手法が沢山あるなあ、と感じます。
ジャズ形式を極限まで自己旋律で極めた男=パーカー
形式がない事で出来ることを極限まで極めた男=コールマン
という位置づけがしっくりきます。
<参考>
各ページは英語ですが、google翻訳で意味はなんとなく捉えられます。ハーモロディクス理論を「これはスピリットだ」とあなたが断言するときの具体的な根拠となってくれるでしょう。私もまだすべて読み切れていないので、折に触れて読解してまいります。
PREPARED GUITAR: The Harmolodic Manifesto by Ornette Coleman
https://colingodbout.com/musical-essays/global-guitars/
https://wesscholar.wesleyan.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1095&context=etd_diss
https://www.questia.com/library/journal/1P4-2066568009/derrida-coleman-and-improvisation
The Dead, Ornette Coleman, and Harmolodics | gettingonmysoapbox
http://soundamerican.org/sa21ornette.html
まとめです。