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前回
この記事の表題は、
「なぜ音楽理論を勉強しても曲ができないのか」ですが、これは要点をまとめた表現です。つまり、その人が音楽理論を等して音楽を学べる素養がないと、音楽理論を教えてもそれが音楽表現に繋がらない、わけです。
音楽理論は誰でも学べる基本的な音楽知識、のように宣伝されていますが、
・音楽を文字から読み解ける素養
・楽譜というシステマチックで、かなり限定した情報から音楽を読み解ける素養
・順を追って学べる素養
・座学の才能
・伝統に敬意を持って接し、敬える素養...etc
などの能力がないと、音楽理論は苦痛です。具体的にいうと、
・音楽を文字から読み解ける素養→音は耳から聞いてなんぼ、楽器弾いてなんぼという人は文字ではなく、ライブから学ぶ。
・楽譜というシステマチックで、かなり限定した情報から音楽を読み解ける素養→楽譜のような抽象的な内容からは音楽の生きたノイズは学べばない、膨大な情報をシャワーのように浴びて蟹体、というタイプは楽譜で学ぶより、ライブで学ぶ。
・順を追って学べる素養→二分音符を学んで、四分音符を学んで、みたいなやり方で学ぶことができるタイプは限られます。それより好きな音楽真似して皆で演奏し、恋人に聞いてもらって喜ばれた方が腕が上がるという人は教科書からは学べない
・座学の才能→机に向かって概念を学ぶことが嫌い、理屈を覚えるのが嫌いな人は実践で結果を先に身につける方が向いている
・伝統に敬意を持って接し、敬える素養→反抗的な精神があると、皆と同じものを学ぶことすら嫌がるが、街で出会ったアウトローなおじさんからの方がどんどん吸収できるタイプは学校の勉強は嫌い
...etc
という個々人の素養の機微をしっかり掴まないと、「みんながやっているのだから従いなさい=日本人特有」の感覚が支配してしまいます。冷静に考えれば当たり前のことが、愚かな教師によって見えなくなってしまうことがあります。落ちこぼれで退学をさせられたとしても、結果を出して生き抜く力を得ていれば問題ありません。
むしろ主席で卒業したがスキルも職もなく知識だけがある、という方がより困った状態かもしれません。
以下は、そうしたことの根拠を丁寧に編んでいく記事です。
今回参考にするのが上記です。
世界有数の頭脳が書いているわけですから参考程度に引用するには十分でしょう。
内容は少し古いものになるので、これまで当サイトで触れていない内容や視点について書き残しておきます。
人の感情や認知についての関係性をうまく表現しています。
ロバート・シルウェスター博士は、「感情は、ある出来事やものが、私たちにどれほど重要かを教えてくれるシステムであり、注意力は、その人にとって重要なものに焦点を当てさせ、重要でないものから焦点を逸らせる能力だ。認知作用は、そこにあるものがなんで、どうしたらよいかを教えてくれる。認知技術は目的を実現するための技術である」とうまく要約してくれている。
『脳を最適化する』
ロバート・シルウェスター...オレゴン大学教育学部名誉教授
つまり、感受性を豊かにせよ、と言っても、何でもかんでも感動して、受け入れ、何でもかんでも心で捉えようとする、というのは不自然だ、と言っているわけです。
不定調性論的に置き換えて云えば、
自分が本当に注意力を引かれたものを観察するべきだ、となります。
最近のセルフイメージ向上傾向なども、落ち込むべき脳内状態であるに、無理やりセルフイメージを上げてポジティブに考える、というのも不自然、ということになります。というか普通にしていればいいのだから、自己啓発、というジャンル自体が必要ないわけです。
そのことをより具体的に考えるため脳の主な機能を把握してみましょう。
同書の要約を音楽家向きにしてみました。
知覚能力
雪の冷たさを感じる、チョコレートの匂いを嗅ぐ、風景や絵画を鑑賞する、猫を撫でる、料理を味わう
→五感がある以上、普段は何でもかんでも知覚しています。そこから本当に自分が心惹かれるものを見つけられる意思がはたらく必要があります。
注意能力
周囲の情報を遮断し作曲に集中する(焦点化注意力)
テレビ番組を見ながら電話に応答する(分割注意力)
→演奏技能、編曲技能などに必要な能力。特別な対象、行動、思考への集中技能です。競合する要求を同時管理できます。これは訓練も必要で「知覚」のように感じてしまう、というものではありません。
・あなたはギターを持って座っています。それを見たBさんが目の前に座りブルースの伴奏を弾きます。あなたはそれに気がつきアドリブを重ねます。Bさんがそれに反応し、テンポを上げブギウギにします。あなたはソロを弾きながらそれに反応し軽快なソロに移ります。といった例は「注意力」+「音楽理論」を用いた音楽技能でしょう。これらのどれかが劣っても音楽は面白くなくなります。素養も左右します。レッスンでここをひたすら鍛えようとする講師もいますが「人の処理能力にはそれぞれ限界がある」とわかった上で教える必要がありそうです。
記憶能力
相手が歌ったフレーズをそのまま覚えて真似して歌う(短期記憶)
かつて覚えたスタンダードの名曲を弾く(長期記憶)
→短期記憶は机の上に並べておける記憶です。机の大きさで並べておける記憶も限られます。長期記憶は机の下の膨大な引き出しによく使うものから整理されてしまってあり必要なときに取り出せます。
→これも潜在能力により差があるので、これを鍛えようとすれば努力が必要です。何より「覚えたい」という自覚がなければできないでしょう。
運動能力
楽器を持ったらささっと弾ける運動能力、歩くとき歩き方を考えない等。
制作するためにパソコンを操作、楽譜を書く、アドリブする運動能力
→長年のトレーニングによって脳の領域を拡大して効率化を図れます。
下記でもそのトレーニングの秘密について書きました。
マウスが変わるとフレーズが出てこない、みたいなことってありませんか?
脳が創作能力と手指の動きを連動させて回路を作っているのでしょう(数ヶ月我慢すれば新しいものにも慣れますが)。
言語・聴覚処理能力
会話する能力、耳コピする能力、調を把握する能力、歌詞を作る能力、新しい言語や理論を学ぶ能力、
→音楽表現の具体化能力です。向き不向きが出てくる分野です。
作曲はすごいけど耳コピがダメ、スポーツはすごいけど外国語がぜんぜんだめ、など成長過程で明らかになる素養です。早くに見極めてくれる教師や保護者がいて、向いた分野を発見し、トレーニングする必要があります。
高次視覚空間処理能力
好きな店のロゴを探し出す、好きな人の顔を思い出す、車間距離を把握しながら運転する
→視覚に映る情報を把握したり、関連性を処理していく能力。知能指数と関わる分野。生まれ持ったスペック。自分のスペックに合わせた自分の人生が構造化できれば良いわけで「幸せは人と比較できない」のはこうした高次機能の差によるものでしょう。
車間距離がうまく判断できないのに、車を運転しなければならない仕事についた人は不都合と不幸を感じるかもしれません。
自分が何ができて、何が得意か、得意なものは、それをやっているだけで楽しくなることもあります。
これらを統合すると、脳は下記のような「実行能力」を最も簡単に起動できます。
・youtubeで見た練習法が今までやっていた自分の練習法より良い、と判断し取り入れることができる
・ピアノコンクールで優勝した人の気持ちに共感できたり、想像できたりする
・予算を計算して機材を買おうと計画できる
・イライラしたまま録音に臨んではいけない、と思い、外に出て深呼吸して気持ちを整えられる
・このままこのバンドを続けるか、独立するかを自己判断できる
・次の日に大事なレコーディングが待っているので前の晩の暴飲暴食や飲酒などを抑制する
これらは「柔軟性」「洞察」「予測」「問題解決」「意思決定」「計算能力」「判断能力」「感情の制御」「感情の抑制」...といった言葉に要約されます。
脳の主機能に「感情」がないところに注目です。同書では感情について、
感情[emotion]...生理的・身体的体験と心理的・認知的体験の両方を含んだ複雑な状態。モチベーションとの間に密接な関係がある。
と述べています。怒ろう!と思って怒るのは能力ではなく、シミュレーションによる結果や脳内物質の作用が作る状態である、いうことなのでしょう。
俳優が状況に合わせた怒りを表現できる演技は、まさに特殊な能力なのですね。誰もができたらハリウッド俳優が高いギャラをとっていません。
そうなると、心が本当に「美しい!」と感動できるかどうかは、自分が何を知覚しているか、何に注意を向けられているか、によります。能力によっては偽りで「美しい」と感じることもできるので、いまの自分の感動は本物か、演じているのか?などを考えずとも感じられる能力とかも必要です。自分を偽っても気がつかない人はその作品のぎこちなさにも気がつかないのでしょう(その作品が悪い、というわけではない)。
音楽の能力を向上させる効率的な知識に「音楽理論」があります。それらは様々なレベルの様々な先人たちの技術が平均化されて残ったものです。
だから自分に合ったレベルの、自分に合ったやり方を用いる工夫ができないと、対位法を3年やっても対位法の曲があまりできない、となります(自分笑)。
だから、教師がその人の能力や嗜好を見極めず、その教師にとって大事な知識をひたすら1年教えても、全く違う素養を持つ学生には魅力的に映らず、効果も出ません。
高校時代の化学とか数学、美術や音楽などもこうした向き不向きと教える内容の非リンクが悪印象を残すことがあります。
良い教師に出会い、良い教え方に出会い、かつそれがあなた自身の素養に沿ったものでないと、
結果
「音楽理論を勉強しても曲ができなかった」
となります。
語弊のある表現を使いますが、教わる側の気質として和声論を理解する知能に欠けている場合、その人が和声やコードを勉強しても「理論なんてクソだ」と思うはずです。
それでも適当にコードを弾いて曲ができてしまうタイプもいますし、そのままヒットチャートを駆け上がる商業音楽性に能力を発揮する人もいます。
平均的な人にとって、勉強や、学校で学ぶ、という行為は戦場です。いかに自分に有利な情報を学費を払って得られるか、という闘いです。自動的に言われるがままに学べた義務教育経験は、学び手側の知能が平均的であったからで、知能の高い子は、意志を持ち、どんどん先に進んでいたはずです。元々集団学習のビジネスモデルの動機は競争を煽ってしまう側面があり、同時に「闘い」だと諭すことを控え、気づかせない側面すらあります。
学び手が学び方を知らないというのは悲劇です。それはハサミの使い方がわからないが故に「一体こんなものいつ使うんだ?人生に必要ないだろ?」と理解してしまうわけです。それをさせないためには、その人にそうした仕組みを教えるに足る良い講師に出逢う必要があります。
十分に危険回避訓練を受けた上で「その人に合った独自論」を作れる人は、独自のやり方で鍛錬を極めて行くしかありません。自分勝手にやることを奨励するのではなく、それしかその人にあった方法がないのであればその道を極めていくしかないと思います。
逆に上記の脳の主要機能で、今すぐにでも鍛えられる部分、というのは
知覚能力と運動能力
だけ、となります。
最初は教えられたことをひたすらメモしていく、教わったことを忠実に再現していくというシミュレーション訓練で様々な自分の向き不向きを体験することができると思います。
その先に、自分の五感が反応したものをスマホに記録して、自分という人間の実際を体験していくというやり方から本当に自分が何をしたいのか自分が何を考えているのか どういうことができる人間なのかをしっかり把握していくことで自分が生きる道を切り開くというのが適切であると思います。もし 個性を尊重するというのであれば。
例えば、
・今日外の匂いを懐かしく感じた
・すれ違った女性の匂いにすごく癒された
・空を見上げたらなんか匂いのようなものを感じた
と並んだら、その人は匂いで何かを捉えらえる人です。匂いをベースに感受性を働かせ、自分なりの世界を作り、それを表現に活用する、というスタンスが生まれるでしょう。
部屋にそうした匂いをさせることによって、メロディーが生まれるかもしれませんね。そういうことは、音楽理論の教科書には書いてありません。
・今日外にいた猫の模様がマフラーみたいだった
・すれ違った女性が民族衣装みたいな服だった
・空の雲がブラジャーみたいだった
という人は、きっと服飾や雑貨、インテリア的なものに世界観を感じる人です。
この二人の人物は同じ景色を見ています。注意能力の焦点が「自分にとって大事なものに向く」というのが、シルウェスター名誉教授の言にありましたね。
個人が感じるものはもっと複合的で、カテゴライズできないような感覚でしょう。
自分が「注意力」を向けられるものに「感情」も生まれる
に気がつけば、自分探索は少し容易になるのではないでしょうか。
現代は情報があふれています。アインシュタインによれば"情報は知識ではない”そうですが、あまりに「個人の注意力」がそれらの情報に吸い取られているような気がします。
しかし思えば昭和の頃もそうでした。
学校から与えられる情報が多すぎて自分が何をしたいのかわからなかったことを覚えています。優先順位を学校がつけてしまうから、自分にとって何が大事か全くわからなくなりました。
音楽をやらなくても誰も気にしないけど、計算ドリルをやらないとひどく怒られるのですから。
私は、音楽は楽しかったけれど、先生が嫌だったり、音楽だけ一生懸命やってるとこを見られるのが嫌だったり、いろいろな感情に自分の感性が曇ってしまう弱い人間でした。
それでも音楽の授業で自分で作った曲をギターで演奏して発表したら、音楽教師が「タダ者ではないね」と言ってくれたから、今日があるのかもしれません。ちょっとした講師の言葉が自分の感性に引っかかって、知らず知らずに能力を開花し、ここまで生きてこれたのかもしれません。今でもその先生に対しては良い印象しか持っていません。人生というのは大方偶然が左右していて啓発書のようなものこそ幻想だな、などと感じたりもします。
自分が「注意力」を向けられるものに「感情」も生まれる
という言葉は個性豊かに生きる大きなヒントかもしれませんね。