自分で作った概念を「私の場合」とするのもなんですが、不定調性の概念自体は数百年以上?前から存在するので、やはり「私の場合」とするべきでしょう。
ここに書いてあることもご自身の文脈に置き換えてください。
DAWは楽器
まずこんなII-V-Iのフレーズがあったとしましょう。

まんまヴォイシングのDm7-G7-CM7です。
DTMミュージックはこれでいいんです。
DTMは音も綺麗だし、リズムのズレもありませんから人が弾けない(弾かない)ヴォイシングは「それまでにない新しい響き」とも言えたわけです。
DAW自体が一つの新しい楽器と思える瞬間です。
今回はここからアレンジ、リハーモナイズ、不定調性化を順々に整理して考えてみましょう。
ヴォイシング慣習のおさらい
例えば旧ヴォイシングなら、

このよう和音の流れや音域を揃え、スムーズにするとジャズっぽく、合理的です。美しいですが手垢だらけのサウンドです。
このように音を揃えるのは、生の演奏ではそのようにするのが技術的に演奏を豊かにでき、表現に余裕を持たせることができる、というだけです。
このまま保守的なアレンジで続けましょう。次はテンションに置き換えるだけです。

少しだけサウンドが軽くなります。テンションを加えることで響きが曖昧、抽象的、パステルカラーになってきます。
ここでちょっとアナログっぽくアレンジしてみましょう。

音の強さ、とか演奏ニュアンスをつけます。さらに人間ぽさ(前時代的または手作業的表現の模倣)が出ます。
これと先ほどのテンションを乗せただけの音楽は意味合いが全く別物です。
どっちがいいか、ではなく、手作りのご飯か機械が作ったご飯という意味で別物です。
音楽理論でできるのはここまでです。ここまではセトリー、慣習、これまでの音楽の分析の組み合わせで信念なくある程度模倣は可能です。
ここから先、このサイト的に表現すれば、
自分の音楽的なクオリアと信念に従うことで生み出す音楽
となります。つまり方法論の先に自分が進む必要があるわけです。
これまで照らしていたライトはなくなり、五感を全て研ぎ澄ませて、谷底に落ちないように進むことになります。
自分の慣習を作る〜音楽理論の先に進む
ここからは決められたアレンジや誰かの真似ではなく個人の文脈を組み合わせた音楽を作れることが指針になります。音楽理論や慣習に依存せず、暗がりの中に目を凝らし、耳を澄まし、「自分がどこに行けば良いか、自分の欲望を感じ取る」必要が生まれます。それまで作っていたポピュラー音楽のように、なんとなく向かう方向がぽっと浮かんでくる、という生やさしいものではなく、多くの今を輝くトップアーティストがやっているように、手放しで綱渡りをするような過酷なクリエイティブな感覚での作業です。普通は真似できません。
ただ、そういう怖さを体感し、自分の欲望がどこに向かっているかを知るだけでもその後の音楽活動が変わります。
生きてゆくには社会のニーズに沿った音楽を作る必要があるわけですが、万が一、あなたの真の音楽性が、そういった社会との呼応を持たない場合、無理して社会的ニーズを掘って作業することは自らをさらに殻に閉じ込めるだけです。
今音楽活動をやっていて苦しい人は、どこかで自分の本質と真っ向向き合って、
「本当は自分は何をしたいのか」
という、これまで逃げてきた問題と向き合い、必要なら音楽を趣味にしてでもその自分のための音楽表現から、社会に向かって発信する再チャレンジを強いられるかもしれません。そうした怖さが、これまで自己の本質との向き合いを避けてきた理由にもなります。
下記は私自身の価値観について述べてみます。皆さんそれぞれの音楽に活用して行っていただきたいです。

和音もII-V-Iの雰囲気はギリギリ保たれてますか?
音楽理論的な支えは全くありません。
ただ、自分の判断で自分が起きたいと思う音を置いていった結果です。
自分を信じる、というのは、慣れないと実に違和感があるものです。
100%好き嫌いで、全ての規範を無視し、全ての伝統を気に留めず、今自分が何をしたいのかを問うので、とっかかりが何もないんです。
私はDAWがちょっと音の強弱やタイミングを変えるだけで不協和音は協和して響く感じが好きです。
それにより20世紀では不協和だった和音が、21世紀には不協和ではなくなりました。絶妙な不協和が「"灰色の焦燥感"をしっかり作るサウンド」になっています。
次を聞いて下さい。こちらは先の旋律感ではなく、より歌うようなフレーズのままこのソリッドな感じを用いた音表現です。

歌詞が載っていたら歌えそうですね。
私にとってはこれはこれでエモーショナルです。
こうしたやりかたを拙論では「音楽的なクオリアを駆使した表現」と言っています。
今回最後の音源です。

いくつかII-Vの音源を聴いてきたので、II-V感を感じてしまっていると思います。不定調性論はそうした感覚も用いてゆきます。調性音楽に馴染んだ身体があるから、こうした音楽の意義もその個人の中では生まれます。
ただこういう質感や制作感が好きなだけです。
私自身二つの調性を同時に感じることができません。
C∇とCmを同時に鳴らすと、C7(#9)の「かっこいいサウンド」に感じるからです。私にとっての複調ではなく、Cadd#9という混じり合った世界として感じられます。
皆さんには皆さんの音楽世界のありようがあると思います。
どうぞ趣味作曲では、既存の価値で自身の価値を覆うことなく、自分自身のサウンドをとことん追求してみてください。