この記事はレッスンでのご希望ご指摘を受け、あくまでレッスンのお時間を短縮するための予習復習補填を兼ねた考察です。
ここではレッスンでお話しする内容以外の「現代における十二音技法スタンスとの付き合い方」という視点中心に描いてみます。
十二音技法が作られた理由は、時代の流れにありました。
ショパンらによって始まった調性の混在化から、意識的な「微妙な無調」の楽曲たちが「完全な無調」という地の底の世界をちらつかせ始めました。
以後、誰もなし得ていない"完全なる無調"または調性システムではない音楽の仕組み、を誰かが作らねばずっとざわざわしたままだった、といえばいいでしょうか。
宇宙に行けるロケットがあったら、誰かが行かないといけません。
シェーンベルクは調性の概念について述べています。
一つの基礎となる音、即ち根音が和音の構成を支配し、和音の連なりを規制するという考え方--それが調性の概念であるが--
と言っています。十二音技法がこのシェーンベルクが思う調性重力からの解放であったことはいうまでもありません。
この調性の概念自体が個々人違うので、十二音技法の理解の際もそこをご注意いただければ。
「不協和音の解放」という言い方も有名ですね。
シェーンベルク自身、12音技法を用いるのは初めてなわけで、あれ?大丈夫かな、できるかな?と内心不安になりながら作曲を進めていったであろう光景が浮かんできます。新しい自己の方法論で何かをする、というのは、もう飛び込むしかない状態で、飛び込んだらすごい濁流で、終始もがき苦しみ、理性などあったものではありません。
引っ込みつかない感を感じるのは感じすぎでしょうか。
その試み、時代のうねり、作品の全てがとても美しいです。それまで誰も知らない美しさだと感じます。
"12音による作曲方法のねらいは、わかり易さ以外にはない"とシェーンベルクは述べています。これが意図するところは深すぎるので、ここでは述べませんが、私にはシステムはわかりやすいけど組み合わせのバリエーションと創造性は大変だよ、という宣伝文句を言われているような気がしました。
現代語に例えると何でしょう。
プロレスは単純だけど奥が深いんだよ!
ということと似ている、と捉えていただければ。
音楽記録技術は、蓄音機、レコード、DAT、CD、MD、mp3..と音楽媒体は進化して一応現在はデジタルサブスクが最先端、みたいな感じになっていますがきっとまだ進化するでしょう。
これで例えれば、十二音技法はDATあたり、と言えばいいでしょうか、例えが適切でなかったら申し訳ありません。
当時は必要だったんですが今は別に必要ありません。もちろん、それは十二音技法という方法論が存在したからこそ、現代はより簡単に無調を表現する方法論を応用展開しやすくなっただけです。
無調よりも面白いことがもっともっと調性音楽でできることをジャズ、ロック、フュージョン、ポップスが再発見してくれたからです。「アイドル」という音楽も"技法的"に言えば、日本においては十二音技法よりも進化した混沌の表現方法論、と言えます。
調性音楽は死なず。です。あの12音技法の先に現代のロックもあるわけで、芸術の非必要性に対する反動がロック、というなら12音技法は人類が経過すべき過渡期だったわけで、その必要、不必要性について言えば、米津玄師が生まれるためには必要だった、といっても良いと感じます。
今からDATの可能性を追求する、と言ってもやめなさい、と言われるのと同様「十二音技法を極めたい」というのも現在は無視されます。
すでにシェーンベルクとその門下生によって、完全無調の地の底は暴かれた、と信じられているからです。
そのように言われると、果たして本当にそうだろうか、って思ってしまう点が現代なら現代で生まれます。
レコードがDJたちに新たに発見されたように、古い技術は次の世代の価値観によって常に利用されても良いはずです。
fこの記事では、実際の音列生成作業で現代人/一般人である私が感じることを述べながら、調性音楽が復活を遂げた現代で、十二音技法って、どういう視点で捉えられるんだろう、というポイントを考えています。
(シェーンベルク以前にもこの十二音をモチーフに考える技法を発案し実践した作曲家がいるそうです。)
世界初の12音技法の楽曲と言われるのだそうです。自分、こっちの方のハーモニー感の方ががシェーンベルクより好きかも!(失礼)
(音列1)
例えばこの音列をみてください。これは12音を一度ずつ書いた音列です。
十二音技法の作曲では、まずこういう音列を作ります。
普通の作曲では、メロディづくり、とかコード進行作り、リズムトラック作りを先に行うように、十二音技法ではまずこの音列作りが非常に重要なステップとなります。
これらの音を全て均等に用いて曲を作れば、中心になる音は生まれず、調は現れないはずだ、という発想からこの音列作りが必須と考えられました。
この時、厳密にはこの並びに長三和音とか短三和音を匂わす並びが出てきたり、一つの調性が感じられないような配置にします。
昔、自分が受けた授業では現代音楽初心者でしたから、この作業に皆で1時間とかかかったと思います。
"君、ここにF#mができてるじゃないか"
とか言われながら。
(音列1)
この音列1も例としては(厳密な意味で考えたら)よくありません。
途中にd→a→f#というD△が現れているからです。
たとえば、音列1を使っていると、無意識にD△がでて来る可能性がある、ということです。そうなれば調性(例えばDメジャーキー)を「感じさせる可能性がある」ということです。調性が少しでも匂うならそれは無調とは言えません。これはもう概念の問題です。私はこれが厳密すぎると感じなので、不定調性という概念を作ったんだな、自分と感じました。
この場合、前のcはD7のcになりますし、その前のg,c#,e♭はA7(b13)の構成音だといえなくもありません。そうなると知らず知らずに、A7(b9,b13)→Dみたいな流れが生まれてしまう可能性があるということです。
現代人は一般人でもこのサウンドをジャズ・フュージョンとして経験しているからこれは無調音楽ではなく、ジャズであると言われかねません。
じゃあ、トライアドが現れなければ良いんだ、と下記のように直したとしましょう。
たとえこんな風にしても、コルトレーンがやりそうだな、とかコールマンがブルースの上で吹きそうだな、とか思ってしまいます。
昔そう感じてこういう動画とか作ってましたすみません。ドルフィーじゃないか!テイラーじゃないか!とか言ってましたすみません。
そこで、これを作ってみました。これでなんとなく無窮動のような感じがして無調っぽいです。
これでいいだろう、と音列を見てみると、最初のa♭、f、e♭がFm7と言われたら...そういえばいえなくもないです。
そこで
結局こうしました。dとe♭を入れ替えました。かなりディミニッシュぽくなりました。
これは楽曲がディミニッシュの様相を呈するよ、ということになります。
この一つの音列が持つ「性格」が大切であり、それが新たなシステム(または新たな調性)を生むと信じられていたように読み取りました。
結局無調という調性が概念として出てくるのではないか、という根本的な指摘が十二音技法が一つの幻想として片付けられている点でもあると感じます。こうなると、哲学になってくるわけです。
それならば、ブルースを演奏した方が深い感銘を得られると人が感じたから、時代はジャズに移っていったのかもしれません。
無調を作るという作業は"自分がひたすら求めないものを作る"事への矛盾に皆が気がついたのだと思います。
音列を無調的に作るときのコツとして、現代的に考えるとするならば、
・自分が無調のイメージのある音程を多用する(ex.短二度、増四度...)。
・上下激しく動く
・何度も聴いて、でも聞きすぎず、"ただの難解なジャズ・フュージョンのフレーズ"になっていないか考える
あとは私などではもう「割り切り」しかない、という感じもしました。キリが有りません。
この音列づくりはどこか「非音楽性を作る」という作業になりますので、ちょっとした音楽理論ゲームで使えます。
音程や和音、音楽的なことがわからなければ、非音楽的なことは作れないからです。
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十二音技法は、1曲1音列、と考えるのが基本なので、まずは自分の音列を持ちましょう。12桁のマイナンバーを自分で決められる、くらいに考えていただければ。
一つの音列を作れば、それだけで一生無調の曲を作れます。 この技法はそのくらいバリエーションが豊かです。
出てくる順番が決まっている以上、これを繰り返しているうちに積み上げられる和音として出てくる和音も、生まれる旋律もいずれ似てきます。それがその音列の「調性」となり得るわけです。
まさか調性を破壊しようとして、別の「しがらみ」を発見してしまう、とはシェーンベルクも思っていなかったでしょう。
不定調性論的には、「時々調性的になるのはグッとくる」ので、むしろ音列の何処かにM7とかm7(b5)とかを潜ませておきたい、という欲求にも駆られます。
最近では、この「感電」のCメロで12音が全て出てくる、ということでぉぉおお!となったのを覚えています。もちろん、そのフレーズは調的な要素が入り込みますから、十二音技法的、と言うわけではありませんが、12音を全て使う、と言うのは技法的にやはり面白いと思うのです。
このような作業は、やはりDTMがあると便利です。
またこの音列を用いて、最初の数小節で、音楽的な主題を作ってみる、というのも面白い試みです。受講生の音楽性を見抜くことができるでしょう。
シェーンベルク自身も、そういうことができるのが作曲科に入学する必須条件になる日が来るかもね、とかエッセイで述べています。
あとは個人の解釈です。
・完全四度や完全五度を虚無と捉えるか、調性的と捉えるか。
・(音列1)を聞いて、「あ、こういう感じぐらいの色合いはあった方がいいな」と感じるか
シェーンベルクの最初の十二音技法の作品、op23も二小節目にはbの長三度が出てきます。厳密な「無調であること」については把握しきれません。
シェーンベルクの直門下のベルクやウェーベルンも結果的に、自身が信じる音列感覚や音楽性や意図に基づいて独自ルールを作っていきましたから、この音列作成はルールがあるようで、結局「個人の音楽的なクオリア」に委ねられてしまいます。
「音楽的なクオリア」は非常に便利です。
同時に、これがシステムづくりに一番の弊害にもなります。
もともと12音技法は、個人の意図を極力減らして、無調を作る、というゲームでした。ゆえに自分でなくてもいいのでは?などと感じたりします。出来上がった作品に、自分という存在の「大事な意図」がちゃんと入っているか??と言われると今回作ってみてすごく虚しさを感じました。
この作っている時の「虚しさ」はクリエイティブな作業としてちょっと物足りないなぁ、というのが第一印象でした。
いってみれば、十二音技法はシェーンベルクの独自論といえます(創始者は複数いた、としても)。
だから彼にとっては、その技法を用いること自体が自身のアイデンティティだったわけです。
私が積極的に不定調性曲を作らなければならないという使命感に駆られる時と同じような感覚を、生命力先生も感じておられたのではないかと思う次第です。
シェーンベルクは十二音技法について次のように述べています。
十二音技法は作曲のやり方を易しくはしない、むしろ作曲をしにくくする。(中略)ただ一つの音列のみによって一つの作品を完成しなければならない、という作曲家に課せられた制約はあまりにも過酷であって、多くの冒険を経て生き残った想像力のみが克服することができるものである。この技法を用いることによって得られるものは何もない。反対に多くのものが奪われるのである。
ちょっと笑ってしまいますが、こう言いたい気持ちわかります。単純と言ってみたり、難解と言ってみたり。
かなりストイックなヤツ以外こっちくんな、と言われているようです。この時「こんなに面白いんだよ!!みんな!やってみて!!!」と言われたら時代の中にもっといろんな作曲法としてのバリエーションが生まれたかもしれません。
次回はこの音列を使って、どのように作曲するか?まで見ていきます。