前回
前回作った音列を見てみましょう。
(音列1)
ローカルルールが様々ありますが、
・なるべく音列の順番で出現させる
(シェーンベルクは基礎音列に聞き手が馴染んだ楽曲後半においては入れ替えを伴奏声部で多少許容しても良いのではないか、という提案をしています。)
・和音でも旋律でも良い(暗黙の了解で和音における順番の変動は許容されるっぽい)
・オクターブの変化はOK
・連打は同じ音とみなす
・必ず12音を出してから次の音列のタームとする(出尽くす前の反復は厳禁だが、厳密に守られてはいない)
というイメージです(セリー技法が変革するまでに、より厳密にルールが決められた時期もあった)。
結構ガバガバで、理論とは言えず、やはり「技法」なのだと感じました。
理論だと、鉄棒に飛びつく前にどのくらい滑り止めをつけるかは分量を正確に指定しなければなりませんが「俺は三本指にちょちょっとつけるだけだよ、それがポイントだよ」みたいな感じの話は「理論」ではなく「スタイル」と言います。
これだけ読むと、下記のようなことになります。
え?ってことはめっちゃ音足らなくない?
と彼らも思ったでしょう。最終的には
こういうイメージです。
しかしこれですと、最初の音列が被っている領域で、
注意しないと、万が一調性的な和音ができてしまうかもしれません。
この辺りから、個人の潔癖具合が試されるわけですが、私の場合は粗野なので「聞いた感じが、無調であるならば良しとしちゃおう」とつい思ってしまいました。
下記は、極端な考え方をいくつか示しますので、皆さんが「自分はそこまでいかず、こういうやり方にする」というスタンスを決めて行ってください。
まず下記を聞いてください。
これは先の音列のかぶせを用いた旋律です。
青とピンクと茶色がそれぞれ音列1を組んでいます。
これ、聞いた感じは「めちゃくちゃ無調」だと思いますがいかがでしょうか。
音を詳しくみてください。
1.赤枠はオクターブの被りです。これではその音が強調されてしまい主音的色彩感が生まれないとは限りません。
2.紫枠は三度ないし三和音を示唆しています。これが何らかの調的印象を喚起させる可能性があります。
3.緑枠は完全五度です。これは意見が別れますが、協和に対して嫌悪感を抱く人は避けたほうがいいでしょう。
この辺のルールが時代により曖昧です。
現代においてどう考えるかです。
ベートーヴェンの時代の楽器の音色で現代で再現してもつい、「音、しょぼ!」となってしまうのが現代人です。まあ仕方がありません。十二音技法が当時に極められたのなら、"当時、極められていない2020年代の価値観(あたりまえだけど)"で考えるしかありません。
では、一度これらの"よくないところ"を直してみましょう。
どうでしょう。治っているかどうかご確認ください。
この中で
①は修正忘れです。この作業をしていて後から気がつきました。
また②はトライトーンですが、トライトーンは属和音である、だからこれは調性音楽だ、というスタンスを持つ人にってはこれはNGでしょう。
不定調性論でも増四度は「最も美しい不協和」とか呼んじゃってますし。
厳密にやっても、ミスは出ますし、修正忘れも出ます。
これを曲の最後まで維持して作っていくのって、もう相当マゾなんじゃないか、と感じました。いえ、でも当時の作曲家はこのくらい普通曲でも苦悩してたかも。
ちょうど良いのでこの機会に述べておきますが、
厳密に命を削ってやった作業にも関わらず、まだ調的な響きがのこってしまった、というのは、あえて許されます。ミスがOKなのでも、適当でもOK、なのではありません。そのくらい探求してやってどうしても吹きこぼれた泡はその瞬間それ自体がアートになる、というニュアンスです。
ピアソの絵に価値があるのは、彼が新しい技術を求め、その結果苦しんで苦しんで生み出されたものだから、ピカソが一本線を書いただけれも価値があるわけです。そこにミスがあったり、崩れた部分があっても、その技術と努力に裏打ちされたその他の大きな世界観があるからこそそれ自体が価値になるわけです。
普段DTMをやっていると、「ま、こんな感じかな」と軽く受け流して、俺すげー!と誰でもなると思います。
それと芸術音楽への取り組みは少し違います。
基本血反吐まではやる、というのが普通のようです。
モーツァルトも禁則破ってミスってるから俺も禁則破ってミスっていい
というのはちょっと理解が違うわけです。
くどくなりましたが、そういう気概で取り組んだ結果引き起こる全てがアートだ、というところに自分もたどり着きたい、と思って毎日命をかけています。
自分を表現する、ってやっぱり人生ぐらいはサクッと犠牲にないとダメなのでしょう泣。それによって今起こっているミスや未熟さ全てをアートにしたいものですね。
ここで私の意見とは違う、シェーンベルクの言葉。
"十二のそれぞれ独立した音に基づいて作曲を行う者"には「全てが許される」という言葉に象徴されるような、はっきりとした自由が存在するのである。つまり「全て」は次のような意味において芸術家には常に許されるということである。即ち、一つには、全てをマスターした芸術家には全てが許されるのであり、もう一つには、何も知らない無知なものは恐れを知らないという意味において全てが許される、ということなのである。
音楽が自由だ、ということについて語ったこの文章は、なかなか斬新です。
シェーンベルクは、ビギナーズラックもまた大事だ、と言っているのでしょうか。それとも皮肉なのでしょうか。よほど初学者に痛い目にでもあったのでしょうか。私よりシェーンベルクを信じてください。ただこの文章も、突き詰めても調的可能性を排除できない、と思ったシェーンベルクが珍しく弱気になった文章かな、なんて思えてきたりします。だからこそ、生命をかけた人のミスはアートだ、という文脈が現代では残っているように思います。または日本人的な武士道精神で、それを称える、という気概と連動するので受け入れやすいのかも知れません。
次回は誘導形の意義について考えましょう。