先に結論を書いておきます。
不定調性論には五度の領域の音楽と四度の領域の音楽があります。
ブルースは四度の領域の音楽に属します。
ブルースで最も特徴的なブルーノートは、五度領域の音楽(西洋的な音楽構造)の上に乗せられた四度領域の旋律が作り出すクロスオーバーな存在です。
調性音楽理論や西洋的ジャズ理論がブルースを定義できないのは、四度(I,IV)で考えるべき音楽構造を無理やり従来の五度領域の音楽(I,V)で解析しようとしているからです。
二つの旋律を聴いてみてください。
音源1
音源2
音源1の方は最初の音楽理論的な疑問の壁でもありました。
皆さんはブルースの独特の節回し、演歌の節回し、各地方の独特な節回しがそれぞれの音楽として成り立っているのを理解していると思います。
しかしそれらはポップスとは違うところに存在している、という見えない差別、仕切りを設けた上で、ちょっと人と違ってかっこいいし、もの珍しいからもてはやした、という印象もあります。
しかし民謡的な節回しを元ちとせや個性的すぎるカラーボイスであるアラニス・モリセットのように歌うアーティストが独特の詩情を商業音楽で醸し出すようになると、いよいよ西洋音階理論の中にこれらの音が持つ雰囲気を物珍しさだけではなく、より理論的に説明する必要が生まれてきました。演歌のこぶしをフィーリングではなく、理論で説明しようというわけです。
しかし、それは理論で説明する必要のない感覚でもあります。そうなると彼らのようなアーティストを異端である、独特である、などと認識して正当から排除しようとします。一昔前のビートルズです。
楽譜に書かれていない歌い回しを歌で表現できる、というのはその通りなのですが、じゃあ具体的にどういう風にその概念を自分用に置き換えて身に付けていけば良いのでしょうか。
奄美で育ち、その歌い回しを自分の歌に含めることで表現できる詩情がある自分はどんな音楽をやればいいか、、などと教科書には書いてありません。
現代では「感覚でつかむことの大切さ」を皆知っています。拙論もそれを中心に考えを進めています。
いわゆる「フィーリング」です。ずっと昔からアーティストはそのニュアンスを使っていました。しかし、方法論としてではなく、リップサービスのようにその語が用いられてきました。
「ホテルで休んでいたら、突然降ってきたのさ」「難しいことはわからないが、要はフィーリングだよ」
とか。
これを方法論だ、としたのが不定調性論です。
このフィーリングという存在を音楽理論の延長線上に埋め込めなければ、音楽理論も失速します。学問の失速は文化の失速です。
そこで私は、このブルースが持つ独自のフィーリングを紐解くところから、西洋音楽理論的思考と不定調性論的思考を融合させる道筋を作ることにしました(最初は自分のために、でしたが)。
教材の第6章を、何回かに分けて簡単に紹介していきたいと思います。 これによってブルースの音程感覚への理解を作り、ブルーフィーリングが感じられるようになると、近代音楽の半音主義や不定調性主義が見えてきます。
教材では最終的に「エクスプレッションノート」という考え方で音階音をゴムのように引っ張ることのできる存在にします。理解を楽譜に書き記すのではなく、脳にやらせるために聴覚や感覚器官をこれまでの「理論の言葉」と同じように機能させます。
楽譜の方が本来補助的な役割であったはずです。
元々は人の意識という曖昧な存在の中でこそ理解できるのが音楽という概念であったと思います。
知識の権力による統一が行えないために、音楽理論という形で、価値の基準を作っただけで、本来は良い曖昧なものとして存在していることには変わりはありません。
一方で人が意識して考える以上のことを脳がやっている、ということを認めるわけです。
これをブルースのセッションの時の脳、ジャズのセッション時の脳の状態、と言ってもいいです。
こういう状態で、音階や和音から解放され、その時感じたものを周囲の状況に合わせて発信することができるようになります。ミュージシャンが当たり前にやってきた状態を不定調性論、という枠組みにくくることで一つの独自解釈集合論ができました。
あなたのフィーリングが何を良い、と捉えるか、が判明すれば、好きな武器を取って、ひたすらに鍛錬をすればそれでいきていくこともできるでしょう。
何回かシリーズになりますがよろしくお願いします。