武満徹の作品を不定調性論的に考える
129,雨の樹素描 1-1
Rain Tree Sketch I (1982)の考察
今回のレポートで参考にさせていただきましたのは、
(樋口あゆ子 PTNA『ピアノ曲事典』より転載)
こちらの動画です。ありがとうございます。
なお楽譜がたまたまスタジオにありましたので、取り上げさせていただきました。
楽譜に振られた赤色青色文字はワタクシが資料解釈のために付したものである。
■はじめに
不定調性論を介した楽曲分析では、作者の意図を意識しません。
聴き手の意思、解釈を増大させて、作者に寄って行こうとする準備を整えます。その先で専門的学習をするかどうか、作者の意図を探求するかどうかを決めればよいのです。
不定調性論は、自分の音楽を作曲する人のための解釈の感受性を高めるための考え方の学習方法論であるので、楽曲を聴き、あなたがどのように理解し、それらの理解をどのように自分の音楽性に活かすか、が優先されます。
下記の解釈は、今の私が感じたストーリーです。参考にして楽曲の権威に関わらず、あなたの中に入れてその音楽を一杯に鑑賞してみて下さい。
■同曲から想起されるプロット
細かく書いたのは、曲を聴きながら、セクションを自分で分けて、そのストーリーを吟味し、脳内に浮かぶことを丁寧に描写して書いたものです。いちいち楽譜を追いながら読まなくていいので、全体のプロットがどんなふうに頭に浮かんだか、だけご覧ください。
1-6小節---「導入」
墨色の森の奥にある、大きな雨の樹に向かって歩みを進める。かすかな神秘の想い、わずかな畏敬を抱きながら、湿った森の道を静かに歩いていると、霧の中から突如その樹木が視界に現れた。霧の白色と墨色の空が見える。
7-11小節---「木の営みの音」シークエンス1
近づくと、その樹木は人のように呼吸し、人のように感情を持ち、人を前にどこかしら他愛のない存在を観るようなまなざしを向けるが、全く感情は動かず、ゆっくりと呼吸をする。霧の水分が樹木に吸い取られ、人はその営みの荘重さを感じる。
12-13小節---「ざわめき」動き1
やがて目の前にいる人間という存在の罪深さがじわりじわりと木々の肌を浸食するように感じたのか、ざわめきの音を立てる。人と木はここではじめて精神的な出逢いを確信する。
14-20小節---雨を吸う樹木
人を睨みつけるように見ながらも、樹木は、体表面に付着した雨を少し荒れた呼吸で体内に取り込む、この何百年ずっと続けてきた行為である。
21-23小節---「ざわめき」動き2
膨大な雨の水分を吸い付くす快感のような名もなき感覚をうけながら、目の前の人を威嚇するように、その余韻の呼吸を吐き出す。
24-30小節---動き出す樹木
低音が響き、まるで大地の奥底にまで張った根が新しい水分によって活力を取り戻すように、水を吸い上げ、また全身に行き渡らせようと樹木全体が機能的に動き出す。時折上昇する音型は、幹の中をてっぺんまで吸い上げようとする水の音のようである。
31-34小節---全身に行き渡る雨、名もなき快楽の絶頂
人が生を喜ぶ快楽と呼ぶであろうその感覚は、樹木にとっては忌むべき感覚であるが、生命である以上、その感覚に身体が反応しないはずはない。まるで身体が快楽に打ち震え、絶頂を迎えるように最高音、最低音に達し、全身に新しい命がみなぎったことを表している。
(その雨に、人間社会が生み出した欲望に満ちた雨の成分も混じっているからかもしれない。)
35-39小節---余韻
その営みが終わると、えも言えぬ余韻が全身を淀ませるように波紋となって広がる。
40-41小節---通常機能の様子
やがて樹木は静かに日々の営みを取り戻し、森の空気を吸い、光を浴び、あらゆる樹木の機能が円滑に進んでいく。
42-43小節---人への威嚇も勢いづく
まるで目の前の人間がいることで自然の営みが意識もせぬうちに阻害されるかのような人の存在に対して行う威嚇。(または吸い込んだ雨の成分に何らかの人と樹木をつなげる成分でも混じっていたかのような。)
44-46小節---動物的な興奮と習性
その邪悪に淀む空気を吸い、まるで浄化するように、体内に入れる。動物的なけいれんのようなシークエンスを表現する。しかし人と違う所は、感情に対する思惑、思索がないため、処理が終わると何事もなかったかのように怒りも憂いも収束する。
47-60小節---雨を吸う樹木
先ほどまでのざわめきは何の名残もなく、突然、普段の営みに戻る。また喉がかれるように、雨を吸い始める樹木がそこにある。何百年もこの営みを続ける樹木の存在意義とはいったいなんなのだろうか。この木はいったい何に生命の喜びを感じるのだろうか。
61-62小節---異様への観念
樹木もまた人に対して、その存在意義が理解できずにいる。樹木にとっても人の存在は脅威であり、なぜそこに存在しているか不明である。その双方への驚きと異様さへの理解がこの二小節に感じられる。
63-65小節---全ての存在には“疑問”がある
理解しようとするのではなく、その疑問そのものを理解する、疑問によって終止できる器量によって、互いが争うことなく共存できるのではないだろうか。
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と、まあこんな印象を感じました。
それを日本語にした時、意味が分からなくてもいいのです。
もともと「言語」はあなたのものではない。
からです。
あなたは、あなたが考えるとおりのあなたです。
それを言語が上回るとは到底思えません。
あなた自身が感じる、言語にならない表現性を凝視してください。言葉にする必要はありません。感じたことは言語以上の存在だからです。言語は人間社会で育まれた『自我の表現』です。あなたは自我ではありません。自我は社会に形成させられたもの、です。
あなたがもともと持っているものさえあれば、その感覚こそ純粋な「作曲」の動機なのではないか、なんて感じます。
■各段落に見られる特徴と表現観点
1-6小節---「導入」
7-11小節---「木の営みの音」シークエンス1
添付楽譜1-6小節目までの高音部に赤丸で囲った音が、高音→低音の流れでアクセントが付けられ、旋律形として強調されています。
無調的作品においてはこうした旋律のリズムの基調があると、そのパターンの中に表現を置くことができます。
これを不定調性論では「音楽の模様感」といい、何を表現しているかは分からないが、独自の模様に対する人の情緒的反応が起きる部分を指します。
一つの音型のリズムが、上から落ちる水滴のようなものをイメージさせます。
またここではプロットに書いたように、異様な霧の森の中を歩いていく人物の足音ともリンクします。
ここでの技法的特徴は、「一定のリズムと音型を繰り返すことで、そこにある種の表現が確立できる」という事です。
これらの詳細な音程の細部が変わっても、大きな変異を感じさせないのが無調的楽曲の特徴であり、これはジャズのソロにおいて、Dm7-G7といったコード進行で、決められたソロを吹かなければならない、という決まりがないのに似ています。
また5小節目の青字で囲った音型は、11小節までに至る流れの中で、シークエンスを組む和声の流れがあります。この曲の導入部分では最も印象的な和音です。
この流れを下記にメモします。