2018.6.12⇨2020.10.19更新
コンピューターグラフィックではありません。
c音とg音の二和音の問題です。
通例音楽理論の学習をすると、「cとgのどちらが根音か」と考えると、cをイメージするようになります。自然倍音列の話や、ハ長調の感覚的な優先度を安易に想定してしまうからです。
不定調性論では「gが中心である、という状況も同時に思い浮かべてね」と考えるよう推奨します。
これを教材では「cg問題」と呼んでいます。
これを何も考えず"cだ"と答えるか、全てわかった上で"cにしておく"かの違いがあります。それを説明します。
常に相対するものを考え、バランスをイメージする、という東洋的な思想をしっかり持つ、です。
日本には禅の境地があります。
一歩引いて考えれば、我々は、陰と陽の側面があることを直感的に理解できます。
一歩引く、というのは深呼吸で良いと思います。
生きることと息は語源が同じで、我々は呼吸が生命に大切であることをよく知っています。
吐いて吸って、二つが交互に存在していて優劣をつけたり、どちらかを軽んじればバランスが崩れることを知っています。
西欧音楽理論を学習する時、「どうも強制的だな」「なんか押し付けがましいな」「それってなんか差別的、競走的」などと感じたら、深呼吸するサインです。
一歩引いてみましょう。
cとg、どっちが根音ですか?という問いにおける「根音」という概念自体が、すでに「決めつけられたもの」だったわけです。
cにとってgは3倍の振動数を持つ音である
gにとってcは1/3倍の振動数を持つ音である
という、より科学的な事実からあなたなりのバランスを作ってください。
互いが互いの要素を含んでいます。
子は母から産まれてきますが、母は子の所有物ですか?
母は子を産みましたが、子は母の所有物ですか?
これらの答えは介在する「愛」という未知数な存在によってそれぞれのケースで変化します。定まってはいません。
作曲行為は、あなたが普段考えていることそのものが音楽作品になる現象です。
自分の方法論を他者に解くよりもそれを作品にすれば、それは表現であり、表現になれば自由です。方法論のままにしておくのは不便です。
音楽理論そのものはあくまで教育のためのツールです。
音楽理論を学習するから音楽ができるようになるのではなく、音楽を本気で学びたいから音楽理論を合理的に自己の一要素として取り込むだけに過ぎません。または共通言語の学習として、です。
音楽理論にうるさい人は、教育ツールとしての完全性を解いているだけです。
「国語はこの教科書がいい!!」と言ってもあまりピンとこないと思います。
屋台なのにテーブルマナーにうるさい人、みたいな感じになったりしています。または喧嘩中に文法の正誤を説く人みたいになってしまうのです。
自分もそうだったから早く脱却したいと思った時期がありました。
最後は"音楽現場という現地"で創造的なコミュニケーションができれば問題ありません。
「cとg、どちらが根音ですか?」
の問題は様々な側面を持っています。
不定調性論では「根音」はなく、意識の中心音があります。それはc,gどちらでも自由にいつでも指定でき、それに基づいて音集合を作ることができます。そのかわりあなたが決めなければなりません。
それが禅問答みたいにふってくるのが嫌なら機能和声論があります。
両端を上手に行き来してください。
topicimage