2017-07-12→2019-7-28(更新)
参考
2016年の著書ですが、遅ればせながら読ませていただきました。
不定調性論の第六章の内容を補填できる素晴らしい内容でした。
勝手ながらブルースに通じる部分だけピックアップして書かせていただきます。
第三章 アフリカに「ハーモニー」が響く
アフリカ民族に平行五度、平行四度、平行三度を操る部族がある、という話は、「初期のジャズ」ガンサー・シュラーの著書で知りました。
(下記も...)
当然、シュラーはジョーンズの著書からの参考としています。
『アフリカ音楽の正体』ではそれらに加え「飛越唱法」についての言及や、
ストリーミング配信による著者自身の録音物の提示などで、より臨場感のある勉強をすることが出来ました。
不定調性論では、これらの平行ハーモニーのアプローチからブルースのI7-IV7を展開するのですが、同著の「和声的等価性の原理」をさらに活用することが出来そうです。
P114以降の「ヴェンダ人の子どもの歌」の旋律が、ラから始まるフレーズと、その下のミから始まる二つのフレーズが、ヴェンダ人にとって代替可能な音である、としているというのです(音は近似値ですので音符のみで彼らの音楽を理解しようとしないように)。
これらの音は代替が可能で、それぞれで色付き音符の音で出来た旋律、色なし音符で出来た旋律はそれぞれ一緒に歌っても、単独で歌っても、同等と考えている、との事です。
歌いながら主線を歌っても、ハモリを歌っても個々人自由ね!みたいな発想ですね。どちらも主線、と考えたらいいのでしょう。なかなかポップスではこうした発想はあり得ません。
ブルースにおいてI7だけの旋律が続いてIV7に変化していく、という様も結局こうしたある種の等価性によるものと考えることもできます。
我々からすると、I7から四度上げて歌うのは、「サブドミナントへの展開感を出すため」みたいに感じてしまいますが、このように二つの音の関係を「同等とみる」「代替可能とみる」という発想はしません。またこれらがあれば、歌いながら
I7⇔IV7
と移動し、これがいかにもコード進行のように解釈できます。でも彼らの中ではこれらは同じコードなわけです。ブルースの成立仮説の一つが出来上がっています。
しかしジャズの和音代理を赦す、という発想自体が、このアフリカ的な発想です。
こうしたアフリカ音楽における、「音の代替」という文化的精神性から「リハモ」という発想がクラシック音楽の和声とは全く違うコンセプトで自然と展開していったとも言えます。
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またクワーク歌謡の一曲「サウォノ」における三度のあいまいな唱法についても、「ああ、これはブルーノート的な色彩だな」と感じました。三度に明るい、暗いという差を設けず、グラデーションを楽しむかのような代替性がおもしろく、ブルースが明るかったり暗かったりしてブルーノートを動かす(三度の概念が緩い)、という慣習もこのあたりからきていると考えずにはおられません。
第五章 太鼓は話すことができるのか
太鼓のリズム、音高、叩き方によって、「酒が飲みたい」などと言語的メッセージを訴えることができる、という話で、こうしたアプローチは、ブルースや楽器セッションでの、「楽器による会話」という発想に行き着くと思います。
セッションで「もっと会話をしようぜ」と言いうのは、単にたとえではなく、アフリカ音楽の血にずっと刻み込まれてきた、楽器によってコミュニケーションをする、という発想そのものだったとも言えます。
クラシック音楽の伝統としてあまりメジャーに使われてこなかったより即興演奏的現場主義的な概念、「即興」「改変」というアプローチがブルースやジャズでは表現の真ん中に置かれている、という点が痛快です。
普通の人が気楽に音楽を追求できて、それぞれの現場で自在に変化させ楽しまれ成長していったのがブルースであり、ジャズであり、ロックであり、ポップミュージックなんだろうなあ、と感じました。
ご興味のある方は是非読んでみてください。ポップミュージックのルーツが分かる一冊です。